久しぶりに絵葉書なんぞが届いた。古い友人からだ。海外に転居することになったらしい。スイスだかどこだかの風景写真の裏に、肉筆で「元気?」とか「お互い年とっちゃったね」とか「でも、落ち着く気なんてまだまだないから」などと書いてある。絵葉書か、と僕は思った。昔はこれを使って恋人たちは、旅先から「会えなくて寂しい」だの「離れてみてわかったけれど、やっぱりあなたのことが好き」だのなんだのと書いて送り合っていたものだ。手紙は封書なので本人しか読めないが、絵葉書だと文面丸見え、郵便配達の人も読もうと思えば読めてしまう。でも、このプライベートの晒し方晒され方、悪くなかったなあと思ったりする。それに引き換え、イマドキの手紙と言えば電子メールやSNSのチャットになるのだろうか。絵葉書はそれにインスタグラムを付け足したようなものだ。メールは完全にパーソナル、SNSの場合は全部オープンにすることもできるし設定は変幻自在である。でも、プラットフォームの管理者はその気になれば個々のメールも全部読めるわけだし、我々のプライバシーは極めて機械的に失われてしまっている。グッドバイ・プライバシー。

 絵葉書に限らず、ここ二十年でコミュニケーションは劇的に変化した。例えば電話。今では公衆電話なんか誰も利用しないし、家の固定電話すら持たない人が多くなっている。でも、主が不在の部屋の中で、その人を求めて誰かがコール音を鳴らし続けるからこそドラマは生まれるのであり、この世界から「不在のいとおしさ」みたいなものが失われていっている気がする。果たしてこれがコミュニケーションの正常進化と言えるのだろうか。

 ああ、そう言えば。昔は電報なんてものもあった。もちろん今でも冠婚葬祭等には使われているのだろうけれど、プライベートに電報を使う人などめったにいないだろう。恥ずかしながらワタクシは、昔々、ガールフレンドに電報でメッセージを送ろうとして係の人に文面を読み上げられ復唱されてメチャクチャ気恥ずかしい思いをしたこともある。でも、あれも今から思えば、晒し方晒され方は悪くなかったように思うのだけれど。