naotoiwa's essays and photos

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 昨年9月にお亡くなりになった大学時代の恩師、河村錠一郎先生を偲ぶ会に伺った。合わせて、歴代のゼミ生で「河村錠一郎先生の想い出」を綴るエッセイ集を編纂することになったと連絡をいただいたので、僭越ながら私も寄稿させていただくことにした。

 高校生の頃、オスカー・ワイルドの芸術至上主義に憧れ、将来はイギリス文学を専攻する気満々(?)だった私ですが、共通一次試験の初年度に当たって散々な目に遭い、翌年、社会科学の大学に入学しました。もちろん一橋大学の社会学部は当時から社会科学と人文科学の融合を目指した学部でしたが、自分が興味を持てる専門科目がなかなか見つからず、受験し直そうかと真剣に悩んでいたそんな時、河村錠一郎先生のゼミを知りました。そして、その日からこの大学が大好きになりました。
 毎週毎週、刺激的なテキストばかりが用意されていました。ある時はイタリアのマニエリスム画家、パルミジャニーノの《長い首のマドンナ》、ある時はイギリスのジャコビアン期の詩人、ジョン・ダンの『エレジー・唄とソネット』、またある時はラファエル前派の画家、ロセッティの《ベアータ・ベアトリクス》、そしてある時は十九世紀末の画家、ビアズリーの《サロメ》。……時空を自在にかけ巡る蠱惑的なゼミナールでした。
 ゼミ以外は授業の出席も成績も芳しくなかった私は、他大学の大学院で学芸員を目指すこともかなわず民間企業に就職しましたが、その後、三十年近く広告会社で、そして今も、クリエイティブ領域の仕事で自分なりの「表現」にこだわり続けてこられたのは、河村先生のおかげです。
 五十歳を過ぎて広告会社を辞め、大学の研究者を目指したのも、学生時代の河村ゼミのあの雰囲気が忘れられなかったからだと思います。
 さて、一橋大学には、その後、大学院に言語社会研究科が設立され、今では美術界はもとより人文科学の各分野においても素晴らしい人材を多数輩出しています。河村先生が一橋大学の地に蒔かれた種が華々しく開花したこと、河村ゼミの卒業生のひとりとして誇らしい限りです。(もう少し遅く生まれていたら、私も母校の大学院目指して猛勉強していたかも?)
 あの夏の日、研究室の冷蔵庫でキリリと冷えたイタリアの白ワインをごちそうになりながら、私たちが交代で「エレジー・唄とソネット」をたどたどしく朗読しているのを見かねて、きれいなクイーンズ・イングリッシュの発音を聞かせてくださった先生の芸術至上主義者たる優美なお姿が、今でも脳裏に浮かびます。
 私が現在、専門の広告分野の論文や研究ノートにおいても、なにかにつけて文学や美術、美学に関連付けてしまうのは、みんな河村先生のせいですね、きっと。

 河村先生、本当にお世話になりました! 改めて、合掌。



 今までにたくさんの広告をつくってきましたが、自分の広告をつくってもらったことは今回が初めてです。(汗)

窓上広告


 大学では「ゼミする東経大」と銘打って毎月各ゼミナールの紹介をし、それをJR中央線の窓上広告やHPで展開しているのですが、今月はワタクシのゼミナールの番です。

 なんとも気恥ずかしい限りです。でも、多くの高校生のみなさんやそのご父兄の方にご覧いただいて、大学選択の参考にしてもらえたらありがたいです。

 イラストにジョーカーを描いてもらったのは、大学の4年間、学生のみなさんには、ワタクシをトランプのジョーカーのように使ってもらえたらという思いからです。「ジョーカーは道化師であり、時折『種も仕掛けもある』マジックを使います。ジョーカーはいろんな役割を兼ねられます。みなさんの代役を務めることができます。でも、ワイルドカードは最後まで持っていたらダメ。うまく私を利用して、最後に私を捨てて、鮮やかに大学4年間の学びの生活をアガってください」という意図なんですが。……



 「銀河鉄道の父」を読んでから改めて宮沢賢治についていろいろ知りたくなって、畑山博さんが書いた「教師 宮沢賢治のしごと」をKINDLE版で読んだ。

教師宮沢賢治

 この本の中で、畑山さんは、かつて農学校での宮沢賢治の教え子だったひと数人から取材して、教師宮沢賢治のいくつかの授業を再現しているのだが、

 学校の教師という仕事は、それをほんとうに誠実に心を賭けてやったら、音楽とか絵とかいうような芸術より、もっとすばらしい芸術行為になるのだと、私は思っています。
畑山博著 「教師 宮沢賢治のしごと」より


 と書いている。これを読んで目が覚める思いがした。残念ながら、ひとにものを教える行為をここまで考えきったことは今までなかったと自分を恥じた。来週からまた新学期の授業が始まる。この文章を肝に銘じて臨みたいと思う。

 さて、宮沢賢治の童話、詩で好きなものはたくさんあるが、教師をしていた頃の短編小説というのかエッセイと言えばいいのか、「イギリス海岸」を再読してみた。

 もっと談してゐるうちに私はすっかりきまり悪くなってしまひました。なぜなら誰でも自分だけは賢こく、人のしてゐることは馬鹿げて見えるものですが、その日そのイギリス海岸で、私はつくづくそんな考のいけないことを感じました。からだを刺されるやうにさへ思ひました。はだかになって、生徒といっしょに白い岩の上に立ってゐましたが、まるで太陽の白い光に責められるやうに思ひました。
宮沢賢治著 「イギリス海岸」より

 花巻のイギリス海岸には二十数年前に行ったきりである。



 今期の(担当する)授業が終了した。授業の最終日は東京に20センチの積雪。研究室の窓の向こうはいきなりの雪景色。

雪景色

 なにからなにまで初めてづくしの一年間。学部の授業だけで年間5コマとして合計30回×5=150回の授業。講義中心の授業もあればゼミナール形式のものもあるが、一回1時間半の授業内容を150通り考案することの責任の重大さを痛感した一年だった。相手に応じて臨機応変に対応する技量を要求される実業界の仕事とは根本的に異なるのである。まずは自ら150通りのコンテンツを準備しその編集と検証を行わなくてはならない。単なる知識ではダメ。そうしたことを曲がりなりにもなんとかここまでやってこれたのは、信頼に応えたいという思いと、同僚の先生方のアドヴァイス、いつも親身に対応してくださる職員の方々のフォローアップ、そしてなによりも熱心に授業を聞いてくれる学生さんたちの視線に支えられてのことである。お世辞でも「今日の先生の授業、面白かったよ〜」なんて言われたりすると、ちょいとホロリとしてしまう。

 担当する授業は終了したが、定期試験やその他の行政業務が続くので3月まではまだまだ気が抜けない。でも、とりあえず本日でひと段落。自分にご褒美を、などという金銭的な余裕はないのだが、せめて今夜は吉祥寺界隈でおいしい珈琲でも飲んでから帰路につきたいと思う。太宰治の「雪の夜の話」でも思い出しながら。

 白い雪道に白い新聞包を見つける事はひどくむずかしい上に、雪がやまず降り積り、吉祥寺の駅ちかくまで引返して行ったのですが、石ころ一つ見あたりませんでした。溜息をついて傘を持ち直し、暗い夜空を見上げたら、雪が百万の蛍のように乱れ狂って舞っていました。きれいだなあ、と思いました。道の両側の樹々は、雪をかぶって重そうに枝を垂れ時々ためいきをつくように幽かに身動きをして、まるで、なんだか、おとぎばなしの世界にいるような気持になって私は、スルメの事をわすれました。はっと妙案が胸に浮びました。この美しい雪景色を、お嫂さんに持って行ってあげよう。……(中略)…… 人間の眼玉は、風景をたくわえる事が出来ると、いつか兄さんが教えて下さった。電球をちょっとのあいだ見つめて、それから眼をつぶっても眼蓋の裏にありありと電球が見えるだろう、それが証拠だ、それに就いて、むかしデンマークに、こんな話があった、と兄さんが次のような短いロマンスを私に教えて下さったが、兄さんのお話は、いつもでたらめばっかりで、少しもあてにならないけれど、でもあの時のお話だけは、たとい兄さんの嘘のつくり話であっても、ちょっといいお話だと思いました。

太宰治 「雪の夜の話」 より


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