naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: short novel



 ずんずんと、駅から続く一本道を私は歩き続ける。この道は、数十年も昔に毎日通った道だ。大通りに軒を連ねる店のほとんどが様変わりしてしまった。でも、狭い路地に入り込むと当時の雰囲気がまだ至るところに残っている。そこに清澄な秋の日射しが降り注いでいる。

 この日射しを浴びていると、私はどんなことだって思い出せそうになる。数十年ぐらいはあっという間に行き来できそうになる。それどころか、ぐるっと回転して、自分の人生はひとつ前の人の人生になり、ぐるぐる、そのまたひとつ前の人の人生になる。何度でも、ぐるぐるぐるぐる、十回、二十回、三十回。いくらだって繰り返せる。人なんかどれだけ変わっても、この世界自体はなにも変わりはしない。世界の終わりはなかなか訪れはしない。あるいは、ほんとうの世界は、とうの昔にすでに終わってしまっているのかもしれない。

 秋の日射しを全身に浴びていると、私はいつだってそんな気分になる。すれ違う人々の顔が白くハレーションを起こしている。みんな、のっぺらぼうみたいに見えてくる。懐しさみたいな感情が時折湧き上がってきたとしても、それはカラカラに乾き切っている。

清澄

Summilux 50mm f1.4 ASPH. + M



 夜中に目が覚める。部屋の中の闇の色で今が何時頃なのかがわかる。ほとんど間違えることはない。誤差は10分程度だ。

 今は、まだ3時前だろう。案の定、枕元の時計の針は2時50分を指している。寝入ってからまだ2時間ほどしか経っていない。上出来だと思う。2時間も眠れれば上出来。これを2セット、できれば3セット重ねられたらそれでいい。ノンストップで6時間も7時間も眠り続けるなんて、もう何年も経験していない。

 2〜3時間のショートスリープの間、必ず夢を見る。随分とハッキリとした夢を。書き付けておけばりっぱな夢日記になるだろう。医者に相談したら、たぶんノンレム睡眠の時間が少ないんでしょうね、と言われた。

 眠ろう。あとワンセット眠ろう。スマホでメールをチェックするなんてもってのほか。読書灯を付けて小説の続きを読むのも控えよう。このまま、闇の中にじっと身を横たえたまま、あと2時間か3時間。眼球がぐるぐる動いているレム睡眠で構わない。体を弛緩させられる眠りであればなんだって構わない。

 ほどなく夢の続きが始まった。最近は寝入らなくとも、こうやって体を休めて静かに目を閉じているだけで夢が勝手にジェネレートされていく。脳も体もまだ明らかに覚醒しているのに。それが証拠に、左手の人差し指で鼻の頭を掻くことが出来る。右足を立て膝付くことも出来る。体中の随意筋を自由に動かすことが出来る。なのに、頭の中ではひとつのイメージが形になり、自由に動き始め語り始める。荒唐無稽な物語がジェネレートされていき、その上映を覚醒したまま眺めることが出来る。

 夢と現実の境目がなくなっていく。医者には、睡眠中も脳があまり休んでいないんですよ、と言われた。だから、いろんなことが修復できない。リセットできない。その結果、頭の中はノイズだらけになる。そしてエラーが起きる。

dog

Summilux 50mm f1.4 ASPH. + M




 あと一時間もすれば雨になるだろう。窓から入ってくる空気が潤んでいる。頭の中も潤んでいる。晴れの日が続くと私は偏頭痛に悩まされる。ふつうは反対でしょ、とひとは云う。ふつうのひとは低気圧が近づいて来たときに頭が痛くなるわけで。

 私は今、窓辺に置いた小さな書き物机に頬杖をついて窓の外を眺めている。窓の外は緑で溢れている。春の花々はみんな散ってしまって今は緑一色だ。中途半端な色の花なんかなくていい。緑だけでいい。その緑色が湿気を含んでゆっくりと膨張し始めている。書き物机は飴色の木製で、同じ木製の床や壁からは古い家特有の甘ったるい匂いがする。机の左端にくすんだペパーミント色のランプが置いてある。明かりはまだ付いてはいない。

lamp

 この場所で、私は雨が降り出すのをぼんやりと待っている。過去のことを思い出すわけでもなく、ましてや未来のことを考えるわけでもなく。かといって今のこの一瞬を真剣に考えているわけでもない。ただぼんやりとここに或る、だけ。できることならこの場所で、この古びた家の中で、私はこれからもずっと暮らしていけたらと思っている。私は年を取るだろう。でも、私は鏡なんか見ない。だからいくら容姿が衰えようが構やしない。私の目に世界がずっと映っていてくれさえすればそれでいい。世界が存在するというのはそういうことだ。世界はずっと変わりはしない。





 あと一時間もすれば雨が降り出すだろう。日も暮れるだろう。そうしたら、私は窓を閉めランプの明かりを付けて、読みかけの本の続きを読むだろう。その本はひとつひとつのフレーズに燦めきがあって、それらが自動記述みたいにズンズン連なっていく。

 たぶん今夜こそは、けっこうな量の雨が降るかもしれない。家の前の道はひどく泥濘んでしまうかもしれない。明日から、もうどこにも行けなくなってしまうかもしれない。……それで構やしない。雨が止んで、また雨が降り出すのを待って……その繰り返しはもうおしまい。これから降り出す雨が、この家も外の緑も時間も何もかも溶かしてくれるのなら、それで構やしない。



 何度も何度も同じ夢を見る。

 昔借りていたアパアトの部屋が、契約解除されないまま何十年もずっと放置されているという夢である。数十年分の家賃が未納で、今になってその精算を余儀なくされるという夢である。

 夢の中で私は、自分にはもうひとつ帰るべき場所があったことを思い出す。しかし、そのアパアトがどのあたりに建っているのか、おおよその見当は付くのだけれど、実際にはなかなかたどり着くことができない。周囲が同じような路地ばかりで見分けが付かなかったり、建物が大きな木の陰に隠れてしまっていたり、部屋が半地下にあったり。だからいつも見過ごしてしまうのだ。

 夢の中で私は、今日はどちらの部屋に帰るべきなのか思案する。明日の朝の都合を考えると、今夜こそあちらの部屋に泊まった方がいいのではないか。そう思いながら、錆び付いた部屋の鍵をズボンのポケットの中で右手でぎゅっと握りしめる。

 夢の中で私は、その部屋のドアを開けた瞬間、目の前に現れる情景を想像する。床に机にベッドに、数十年分の埃が白く静かにつもっている情景を。そして、やがて、その部屋の片隅に、ある若い男の姿を見つけだす。やあ、とそいつは私に話しかけてくるだろう。どこか馴れ馴れしく。そのくせ拗ねたような目をして。


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