naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: short novel



 僕はひとり、久しぶりに訪れたその街の、緩やかに蛇行する通りをゆっくりと歩いている。通りに沿って並んでいるカフェやレストラン、ギフトショップの建物に紛れてホテルが一軒建っている。それは、ずっと昔に廃業したはずのホテルだったりする。
 僕は通りを歩き続ける。風はそよとも吹かない。通りはオレンジ色の照明に照らされて、まるで映画のセットのようだ。ひょっとして、これは現実の世界ではないのかも、と僕は思い始める。だったら、それならそれで全然構やしないのだ。みんな拵えものでいいんじゃないの、と僕は思う。それにうつつを抜かして生きている人生で構わないんじゃないの、と僕は思う。プーシキンの「エレジー」を想い出しながら。


 もの狂おしき年つきの消えはてた喜びは、にごれる宿酔に似てこころを重くおしつける。
 すぎた日々の悲しみは、こころのなかで、酒のように、ときのたつほどつよくなる。
 わが道はくらく、わがゆくさきの荒海は、くるしみを、また悲しみを約束する。
 だが友よ、死をわたしはのぞまない。わたしは生きたい、ものを思い苦しむために。
 かなしみ、わずらい、愁いのなかにも、なぐさめの日のあることを忘れない。
 ときにはふたたび気まぐれな風に身をゆだね、こしらえごとにうつつを抜かすこともあるだろう。
 でも小気味のいい嘘を夢の力で呼びおこし、としつきはうつろい流れても。


清水邦夫『夢去りて、オルフェ』(1988年、レクラム社)

*原典はプーシキン詩集のなかの「エレジー」。金子幸彦氏の訳とは最後の部分が異なっているが、ここでは清水邦夫氏の戯曲での訳を引用。



 三十五年ぶりに君に逢いに行った。棲んでいるところはちゃんと覚えていた。だって、あれからずっと、僕は君の棲んでいるアパアトの部屋の家賃を払い続けてきたのだから。

 鉄製の錆付いたドアを開けると、君は部屋の奥の窓を半分開けてベランダに体を半分出して、両手で両脚を抱えていた。ベランダには桜の花びらがたくさん積もっていた。ぼんやりと生暖かい風がゆっくりとこちらに流れてきた。
 部屋の中には三十五年分の埃が真綿のように白く積もっていた。床にも書き物机にも、鉄製のベッドに載せられたマットレスの上にも。その埃は生暖かい風に吹かれて、ほんの一瞬宙を舞ったが、すぐにもとの状態に収まっていった。

 やあ、と君は言って、ゆっくりとこちらにやって来た。そして、ベッドのマットレスに腰をかけるようにと僕に目配せをした。「なんだか甘い香りがするね」と僕が言うと、「さっきまで彼女がここにいたから」と君は言った。「彼女とはうまくやっていけそうか?」と僕が尋ねると、「それはこっちが聞くセリフだよ」と君は言った。書き物机の上の小さなスピーカーからシューベルトのピアノソナタが流れていた。「好きな曲もあまり変わらないね」と僕が言うと、「それもこっちのセリフ」と君は言った。

 それから、君は改まって、じっと僕の瞳を見つめながら、「久しぶりだね、その後どうです?」と言った。その口ぶりが中原中也の詩とまったく同じだったので、僕も、「そこらのどこかでお茶でも飲みましょ」と続けた。そうして僕は、君を部屋の外に連れ出すことにした。

 並んで歩いているふたりの背丈はほとんど同じだった。「毎日、この道を駅まで歩いて会社に通っているんだ」と君は言った。道は所々、昨日の雨でひどく泥濘んでいて、君の新調した革靴はすぐに薄汚れてしまう。



 今にも雪が舞い落ちてきそうな冬空の下、僕は古いローライフレックスを首からぶら下げて凍えながら街を歩いている。馴染みの古本屋は本日休業、シャッターを下ろして店ごと悴んでいる。その脇に地蔵が一体、色あせた朱の頭巾を被ってぽつりと寂しそうに立っている。摩耗してほとんど表情が読み取れないその横顔に西日が赤々と差している。シャッターボタンに人差し指を当てる。金属の先端がツンと冷えている。巻き上げてあったかどうだったか。現像してみたら二重露光だらけかもしれぬ。あるいは何も写ってない箇所が何カットもあるかもしれぬ。入れたフィルムはISO400だったか100だったか。そもそもカラーだったかモノクロだったか。

 通りをしばらく進むと、最近出来たばかりらしい大型の新築のマンションが見えてきた。エントランス前に置いてあるパンフレットを手に取ると、ここはマンションではなく有料老人ホームらしい。「要介護認定5の方も認知症の方も入居可、胃瘻の方の介護も万全」と書かれている。入居時2500万、月額家賃30万。各階の窓辺には花もなければカーテンもかかっていない。おそらくはまだほとんどが空室なのだろう。僕は自分が二十年後ここで生活している情景を思い浮かべる。
 その老人ホームの先には、築30年以上は経過しているであろうプレハブの安アパアトが二軒建っている。手前の建物の一階のドアのひとつが開いて、若い学生がひとり外に出てくる。饐えて黴びた部屋の匂いがぷんとする。もうひとつの建物の二階のドアがひとつ開いて、外階段を降りてくるハイヒールの音がする。甘ったるい香水の匂いがぷんとする。僕は自分が三十年前ここで生活している情景を思い浮かべる。

 それから、僕はなんともウンザリした気分になってきて、……なににウンザリしたのだろう。想い出すことにか、思い起こすことにか。いやおそらくは、いつもそんなことを繰り返してばかりいる我々人間の、間延びしたやり口そのものに僕はウンザリしたのかもしれぬ。

 回れ右をして来た道を引き返す。すると風景が一変し始めた。通りの反対側に「架空ショップ」という看板を出した店がある。ないものを売っている店ということか、あるいは店内には誰もいないということか、はたまた店そのものが実際は存在していないということか。
 そうだ、いっそのこと、みんな架空だったらいいのにと思う。誰かが今日一日のこの街で繰り広げられるあらゆるシーンのシナリオを書いて、それをみんながひたすら演じるのだ。次の日はまた誰か別の人がシナリオを書いて。その方が現実なんかよりずっとシズル感がある。

 いつの間にか、いつもの公園に戻ってきた。併設された動物園のゲートをくぐることにする。無性に人間以外の生きものが見たくなったのだ。時刻は16時ちょうど。「あと一時間で閉園になりますがよろしいですか?」

 山羊のお腹はどうしてこんなに大きいのだろうと僕は思う。横にこんもりと膨れ上がっている。妊娠しているのか、たくさん草を食んだのか、あるいは悪い腫瘍ができているのか。フェネック狐はどうしてこんなに耳が立っているのだろうと僕は思う。どうしてネコ科じゃなくてイヌ科なんだろう。どうしてこんな不可思議な鳥みたいな鳴き声なんだろう。

 ワシミミズクにじっと見つめられながら、僕はローライフレックスのファインダーを上から覗く。二眼レフの鏡像が左右逆転するのは知っているが、上下は現実のままなのか、あるいは上下もほんとうは逆転しているのではないかと僕は不安になる。……シャッターボタンに人差し指を当てる。金属の先端がツンと冷えている。巻き上げしてあったかどうだったか、またわからなくなってくる。

magic hour

Summitar 5cm f2 + M9-P



 そろそろ、ラストオーダーになります、とバーテンダーの人が言った。もう一杯だけマッカランをください、とわたしは言った。胸の中がざわめいている。過呼吸になりそうな感じ。ふっと、意識が揺らぐ。さっきまでカウンターの奥でひとりビールを飲んでいたひとが、隣に来てわたしになにか言っている。カウンターに突っ伏したわたしに顔を近づけてなにか言っている。

 このひとは誰だろう。初めて見かけたひとだ。でも、わたしにはわかる。この、今わたしのすぐ近くにいるこのひとが、わたしにとってとても大切なひとだということが、なぜだかわたしにはわかる。ずっと前から、わたしはこのひとのことを知っている。このひととのことはなにもかも憶えている。

 わたしの記憶の中で、フィルムが急速に巻き戻り出したのがわかる。そして改めて、再生ボタンが押されるのがわかる。また最初から?

 面倒臭いなあ。ちょっとだけわたしはそう思う。でも、このひととなら、何度だっていいじゃない、と思い直す。前に会ったときも、ワクワクすることがたくさん、いっぱいいっぱいあった気がするよ。

nous deux

Summitar 5cm f2 + M9-P



 長野にはあっという間に到着。わたしたちは駅前のバス乗り場で志賀高原行に乗る。バスは高速を二区間だけ走ってから専用道路に入っていく。そのころから雪がちらつき始め、うねるようなカーブを十ぐらいクリアする頃には、道路が真っ白になってくる。トンネルを抜ける度、白い世界は着実に完成していく。最初は道路だけだったのが、次には山肌が真っ白になり、その次には道路脇の家々が全部、そしていつの間にか見渡す限りすべてのものが真っ白に覆い尽されていく。最後のトンネルを抜けた時、ふいに道路の真上をリフトが横切って動いているのに出くわす。わたしたちの乗っているバスはそのリフトの下をくぐって行く。「さあ、ここが志賀高原の入口だよ」とあなたが教えてくれるの。「わあ、すごい、まるでおとぎ話の世界みたい」とわたしは言うの。

 翌日から、わたしはスクールに入ってスキーの猛特訓。一週間も経つ頃にはけっこううまくなって、もうどこでもあなたのあとを追って滑っていけるようになってるの。

 そうして、1月初旬のある日。午前中は吹雪いていたけど午後には晴れ上がって、でも頂上のあたりは誰も人がいなくて。そんな中、あなたがゆっくりとシュプールを描いている音だけが聞こえている。わたしはその音をたよりに後をついていく。しばらくすると、あなたがコースを外れて林の中に入っていくのが見える。あなたは、時々止まって後ろを振り返り、わたしの名前を呼ぶ。わたしはちゃんとあなたの後をついて行っているのだけど、あなたにはわたしの姿が見えていないみたい。そして、わたしもあなたの姿がだんだん見えなくなってくる。わたしはものすごく怖くなる。ああ、ひょっとして。あなたもわたしも真っ白なスキーウェアを着ているものだから、ふたりとも白銀の中に溶け込んでしまって見分けがつかなくなっているんじゃないか。……そう、わたしは気が付くの。






 昨日の夜に見た夢は、そんな夢でした。



 ずんずんと、駅から続く一本道を私は歩き続ける。この道は、数十年も昔に毎日通った道だ。大通りに軒を連ねる店のほとんどが様変わりしてしまった。でも、狭い路地に入り込むと当時の雰囲気がまだ至るところに残っている。そこに清澄な秋の日射しが降り注いでいる。

 この日射しを浴びていると、私はどんなことだって思い出せそうになる。数十年ぐらいはあっという間に行き来できそうになる。それどころか、ぐるっと回転して、自分の人生はひとつ前の人の人生になり、ぐるぐる、そのまたひとつ前の人の人生になる。何度でも、ぐるぐるぐるぐる、十回、二十回、三十回。いくらだって繰り返せる。人なんかどれだけ変わっても、この世界自体はなにも変わりはしない。世界の終わりはなかなか訪れはしない。あるいは、ほんとうの世界は、とうの昔にすでに終わってしまっているのかもしれない。

 秋の日射しを全身に浴びていると、私はいつだってそんな気分になる。すれ違う人々の顔が白くハレーションを起こしている。みんな、のっぺらぼうみたいに見えてくる。懐しさみたいな感情が時折湧き上がってきたとしても、それはカラカラに乾き切っている。

清澄

Summilux 50mm f1.4 ASPH. + M10-P



 夜中に目が覚める。部屋の中の闇の色で今が何時頃なのかがわかる。ほとんど間違えることはない。誤差は10分程度だ。

 今は、まだ3時前だろう。案の定、枕元の時計の針は2時50分を指している。寝入ってからまだ2時間ほどしか経っていない。上出来だと思う。2時間も眠れれば上出来。これを2セット、できれば3セット重ねられたらそれでいい。ノンストップで6時間も7時間も眠り続けるなんて、もう何年も経験していない。

 2〜3時間のショートスリープの間、必ず夢を見る。随分とハッキリとした夢を。書き付けておけばりっぱな夢日記になるだろう。医者に相談したら、たぶんノンレム睡眠の時間が少ないんでしょうね、と言われた。

 眠ろう。あとワンセット眠ろう。スマホでメールをチェックするなんてもってのほか。読書灯を付けて小説の続きを読むのも控えよう。このまま、闇の中にじっと身を横たえたまま、あと2時間か3時間。眼球がぐるぐる動いているレム睡眠で構わない。体を弛緩させられる眠りであればなんだって構わない。

 ほどなく夢の続きが始まった。最近は寝入らなくとも、こうやって体を休めて静かに目を閉じているだけで夢が勝手にジェネレートされていく。脳も体もまだ明らかに覚醒しているのに。それが証拠に、左手の人差し指で鼻の頭を掻くことが出来る。右足を立て膝付くことも出来る。体中の随意筋を自由に動かすことが出来る。なのに、頭の中ではひとつのイメージが形になり、自由に動き始め語り始める。荒唐無稽な物語がジェネレートされていき、その上映を覚醒したまま眺めることが出来る。

 夢と現実の境目がなくなっていく。医者には、睡眠中も脳があまり休んでいないんですよ、と言われた。だから、いろんなことが修復できない。リセットできない。その結果、頭の中はノイズだらけになる。そしてエラーが起きる。

dog

Summilux 50mm f1.4 ASPH. + M10-P




 あと一時間もすれば雨になるだろう。窓から入ってくる空気が潤んでいる。頭の中も潤んでいる。晴れの日が続くと私は偏頭痛に悩まされる。ふつうは反対でしょ、とひとは云う。ふつうのひとは低気圧が近づいて来たときに頭が痛くなるわけで。

 私は今、窓辺に置いた小さな書き物机に頬杖をついて窓の外を眺めている。窓の外は緑で溢れている。春の花々はみんな散ってしまって今は緑一色だ。中途半端な色の花なんかなくていい。緑だけでいい。その緑色が湿気を含んでゆっくりと膨張し始めている。書き物机は飴色の木製で、同じ木製の床や壁からは古い家特有の甘ったるい匂いがする。机の左端にくすんだペパーミント色のランプが置いてある。明かりはまだ付いてはいない。

lamp

 この場所で、私は雨が降り出すのをぼんやりと待っている。過去のことを思い出すわけでもなく、ましてや未来のことを考えるわけでもなく。かといって今のこの一瞬を真剣に考えているわけでもない。ただぼんやりとここに或る、だけ。できることならこの場所で、この古びた家の中で、私はこれからもずっと暮らしていけたらと思っている。私は年を取るだろう。でも、私は鏡なんか見ない。だからいくら容姿が衰えようが構やしない。私の目に世界がずっと映っていてくれさえすればそれでいい。世界が存在するというのはそういうことだ。世界はずっと変わりはしない。





 あと一時間もすれば雨が降り出すだろう。日も暮れるだろう。そうしたら、私は窓を閉めランプの明かりを付けて、読みかけの本の続きを読むだろう。その本はひとつひとつのフレーズに燦めきがあって、それらが自動記述みたいに連なっていく。

 たぶん今夜こそは、けっこうな量の雨が降るかもしれない。家の前の道はひどく泥濘んでしまうかもしれない。明日から、もうどこにも行けなくなってしまうかもしれない。……それで構やしない。雨が止んで、また雨が降り出すのを待って……その繰り返しはもうおしまい。これから降り出す雨が、この家も外の緑も時間も何もかも溶かしてくれるのなら、それで構やしない。



 何度も何度も同じ夢を見る。

 昔借りていたアパアトの部屋が、契約解除されないまま何十年もずっと放置されているという夢である。数十年分の家賃が未納で、今になってその精算を余儀なくされるという夢である。

 夢の中で私は、自分にはもうひとつ帰るべき場所があったことを思い出す。しかし、そのアパアトがどのあたりに建っているのか、おおよその見当は付くのだけれど、実際にはなかなかたどり着くことができない。周囲が同じような路地ばかりで見分けが付かなかったり、建物が大きな木の陰に隠れてしまっていたり、部屋が半地下にあったり。だからいつも見過ごしてしまうのだ。

 夢の中で私は、今日はどちらの部屋に帰るべきなのか思案する。明日の朝の都合を考えると、今夜こそあちらの部屋に泊まった方がいいのではないか。そう思いながら、錆び付いた部屋の鍵をズボンのポケットの中で右手でぎゅっと握りしめる。

 夢の中で私は、その部屋のドアを開けた瞬間、目の前に現れる情景を想像する。床に机にベッドに、数十年分の埃が白く静かにつもっている情景を。そして、やがて、その部屋の片隅に、ある若い男の姿を見つけだす。やあ、とそいつは私に話しかけてくるだろう。どこか馴れ馴れしく。そのくせ拗ねたような目をして。


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