naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: short novel



 あと一時間もすれば雨になるだろう。窓から入ってくる空気が潤んでいる。頭の中も潤んでいる。晴れの日が続くと私は偏頭痛に悩まされる。ふつうは反対でしょ、とひとは云う。ふつうのひとは低気圧が近づいて来たときに頭が痛くなるわけで。

 私は今、窓辺に置いた小さな書き物机に頬杖をついて窓の外を眺めている。窓の外は緑で溢れている。春の花々はみんな散ってしまって今は緑一色だ。中途半端な色の花なんかなくていい。緑だけでいい。その緑色が湿気を含んでゆっくりと膨張し始めている。書き物机は飴色の木製で、同じ木製の床や壁からは古い家特有の甘ったるい匂いがする。机の左端にくすんだペパーミント色のランプが置いてある。明かりはまだ付いてはいない。

lamp

 この場所で、私は雨が降り出すのをぼんやりと待っている。過去のことを思い出すわけでもなく、ましてや未来のことを考えるわけでもなく。かといって今のこの一瞬を真剣に考えているわけでもない。ただぼんやりとここに或る、だけ。できることならこの場所で、この古びた家の中で、私はこれからもずっと暮らしていけたらと思っている。私は年を取るだろう。でも、私は鏡なんか見ない。だからいくら容姿が衰えようが構やしない。私の目に世界がずっと映っていてくれさえすればそれでいい。世界が存在するというのはそういうことだ。世界はずっと変わりはしない。





 あと一時間もすれば雨が降り出すだろう。日も暮れるだろう。そうしたら、私は窓を閉めランプの明かりを付けて、読みかけの本の続きを読むだろう。その本はひとつひとつのフレーズに燦めきがあって、それらが自動記述みたいにズンズン連なっていく。

 たぶん今夜こそは、けっこうな量の雨が降るかもしれない。家の前の道はひどく泥濘んでしまうかもしれない。明日から、もうどこにも行けなくなってしまうかもしれない。……それで構やしない。雨が止んで、また雨が降り出すのを待って……その繰り返しはもうおしまい。これから降り出す雨が、この家も外の緑も時間も何もかも溶かしてくれるのなら、それで構やしない。



 何度も何度も同じ夢を見る。

 昔借りていたアパアトの部屋が、契約解除されないまま何十年もずっと放置されているという夢である。数十年分の家賃が未納で、今になってその精算を余儀なくされるという夢である。

 夢の中で私は、自分にはもうひとつ帰るべき場所があったことを思い出す。しかし、そのアパアトがどのあたりに建っているのか、おおよその見当は付くのだけれど、実際にはなかなかたどり着くことができない。周囲が同じような路地ばかりで見分けが付かなかったり、建物が大きな木の陰に隠れてしまっていたり、部屋が半地下にあったり。だからいつも見過ごしてしまうのだ。

 夢の中で私は、今日はどちらの部屋に帰るべきなのか思案する。明日の朝の都合を考えると、今夜こそあちらの部屋に泊まった方がいいのではないか。そう思いながら、錆び付いた部屋の鍵をズボンのポケットの中で右手でぎゅっと握りしめる。

 夢の中で私は、その部屋のドアを開けた瞬間、目の前に現れる情景を想像する。床に机にベッドに、数十年分の埃が白く静かにつもっている情景を。そして、やがて、その部屋の片隅に、ある若い男の姿を見つけだす。やあ、とそいつは私に話しかけてくるだろう。どこか馴れ馴れしく。そのくせ拗ねたような目をして。


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