naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: academic



 大学教員になって今年で早や5年目を迎える。言うまでもなく、大学教員のミッションは研究と教育であるが、実務経験で採用された(と認識している)自分に何が求められているかは十分理解している。それゆえ、この4年間は特に学部教育に全力を費やしてきた。しかしながら、元来あまのじゃくな性格のワタクシとしては、期待されてない(?)研究分野においてもなんとか自分らしさを出せないものかと、大学の紀要には毎年一本は欠かさず論文もしくは研究ノートを書こうと決めている。(現在執筆中のものが完成すると4本目となる)が、やはり今まで生業にしてきたことが「いかに語るか」であった自分が「いかに論じるか」に徹するのには限界もあろうし、アカデミズム出身の同僚のみなさんのような高度なモチベーションを論文執筆に持ち続けることは能力的に難しい。(やはり、諸先輩方のものと比較すると自分が書いたものは明らかに「語り口」ならぬ「論じ口」が違うようですw)

 でも、ここ一二年、私はワタクシなりに論文執筆の醍醐味みたいなものを感じ始めてきたような気もする。誤解を恐れずに言えば、それを detective と表現してもいいのかもしれない。分野の全く違うコレとアレがなんとなく繋がっているような予感がする。それが自分の仮説で、その一見脈絡のなさそうな二つの事象を繋ぐ証拠を detective に探していくのだ。あるいは、先行研究等でよく言われていることの余白部分になにか別の大切なことが潜んでいるような予感がする。そのおぼろげな姿を detective に解き明かしていくのである。

 そして、いったんこうした作業に没入すると、部屋はおびただしい数の古書の巣窟となる。電子書籍ならばどんなに冊数が増えようともタブレット一台にスマートにダウンロードすれば事足りるが、特に近代文学系の研究の場合、その初版本を実際に入手しないと埒が明かない場合が多く、「日本の古本屋」サイト等で購入した黄ばんだカビ臭い、あるいは型崩れした初版本たちが堆く積み上げられた巣窟にひとりで籠もることになる。残念ながら優秀なワトソン君はいないので、資料集めから調査出張、そして執筆まですべて自分ひとり。でも、この作業がけっこう楽しいのである。ドキドキするのである。そして、ひとつ書き終えてもすぐにまた次の解き明かしたい別のテーマが待ち構えていたりするのである。



 梅雨がようやく明けたというのに、深刻な感染拡大が全国で続いている。例年とは全く違う夏である。さて、大学の方は前期のオンライン授業もようやく終了、これからの一ヶ月は研究論文の執筆に時間を割く予定。私はアカデミズム出身ではないので、その分逆に、なんとか毎年一本きちんと論文を書きたいと悪戦苦闘をしているここ四年間であるが、やはり自分の論文の書き方はアカデミズム出身の方々とは違うようである。極力論文においては「語らない」ようにしているつもりなのだが。……

 論理構成においても、精緻に事実を積み上げてのその結果、というよりは、編集力に頼ってしまう傾向があるようだ。まあ、前職で(というか今も実践で)やってきていることはまさにそういうことだし、その結果、論文においても出口設計先にありきで、時に演繹が性急になり過ぎてしまうところは否めない。
 そして、常に自分が書いたものが誰の心に響くのかを第一義に考えてしまう。自分の論文を読んでくれる人が「読んで楽しかった!」とまではいかなくても(気軽な「読み物」じゃあるまいし)、「筋書きを追っていくのにワクワクしたよ」と思ってくれるものを書きたい。それがエッセイであれ、小説であれ、そして論文であれ、やはり相手あってのTEXTなのだから、と思うのだけれど。



 まことにもって恥ずかしながら、ではあるが、3年目にしてようやく「研究する」ことの大変さがわかってきた。どんなテーマであれ、自分が「思い付いた」などと思っていることのほとんどには、既に近しい先行研究が幾つも存在している。それらをきちんと読み込むだけで膨大な時間がかかる。それでも、前職での習慣からか、組み合わせの妙に頼ればなんとかなるだろう、brand new なことが言えるだろう、自分はそこで勝負するのだ、などと安易に思ってしまうところが多分にあったのだが、実際に論文として文字で書き連ねていってみると、そうした自負めいたものはすぐにチャイルディシュな恣意性として露呈してしまう。

 でも、3年目にしてようやく「研究する」ことに熱中できるようにもなってきた。自分の論旨の流れの中で必要になってくる資料を調べ尽くすことは、大変だけれど楽しい。国会図書館に行く。より深度を高めるために所蔵先等に問い合わせる。そうして、直接著者や学芸員の方にお話を伺う機会を得ると、研究者のみなさんの日頃の調査研究の精緻さには改めて頭が下がる思いである。

 幸い、自分が現在所属している学部は「コミュニケーション学部」で、コミュニケーションの名の下にほぼあらゆることを研究対象にすることが可能なのだが、でもそれゆえにこそ、自分の出自である「広告コミュニケーション」研究を決しておろそかにすることなく、そして、自分の経験が及ばない他の研究分野に関しては、謙虚に、でも貪欲に、どんなことでも学ばせていただきたいと思う今日この頃である。




 いちおう、ワタクシも研究者の端くれなので(汗)、年に一本は論文もしくは研究ノートを執筆すべく格闘している。今年の夏に取り組んでいるのは、現代の広告クリエイティブと近代日本文学を関連付ける考察で、今までにもよく言われていることだが、かの太宰治の文章をコピーライターの資質として改めて検証するというものである。現在、三鷹の太宰治文学サロンにてその名もズバリ「コピーライター太宰治」展だってやっているし、そうしたことを論じる近代日本文学の研究者の方々は以前からたくさんいらっしゃるが、広告クリエイティブの研究者や広告の実務制作者が太宰治のコピーライティングについて詳細分析している書籍や論文はあまり見たことがない。ので、ここは太宰ファン歴かれこれ四十年余のワタクシが奮闘してみようかと。コピーライティングの見地から改めて太宰作品を読み直してみると、やはり女性の一人称文体の「斜陽」や「女生徒」がわかりやすく秀逸である。

 恋、と書いたら、あと、書けなくなった。

 あさ、眼をさますときの気持は、面白い。

 などなど。でも、コピーライティングの究極の奥義は、実は「フォスフォレッスセンス」という小品に隠されているのではないか、というのが現段階での論旨である。その根拠は、……

 さて。コピーライティングとは関係ない話だが、太宰がこの「フォスフォレッスセンス」を書いたのは亡くなる前の年の5月か6月。この作品の後に「斜陽」「人間失格」そして絶筆となった「グッド・バイ」が続くが、ワタクシはこの「フォスフォレッスセンス」にこそ、太宰の死に対する想いが最も表れているように思う。後半に出てくる、夫が南方から帰ってこない「あのひと」は、ともに入水した山崎富栄がモデルであろうし。



 大学で院生の方を指導させていただいていることもあり、また、この四月から自分の扶養家族が大学院に進学することもあって、最近、これからの時代のより専門性の高い教育とはどうあるべきかについて考えることが多い。

 2011年以降、学部を出て院に進学する人の数は減少傾向にあるようだ。修士課程2年が加わることが就職の際に有利に働くとは限らないこと、逆に条件が悪くなる場合も多いと指摘する学生さんも多い。ましてや博士課程まで進みアカデミズムを極めたとしても、その後にパーマネントの研究者の道が確実に約束されるわけでもない。そして、その間の学費の問題がある。また、就職が遅れることによる生涯年収の差異を考えると、大学院進学に二の足を踏むのも当然かもしれない。

 今回、大学院生を扶養する立場になって金銭面のことは切実に身に染みて感じるようになった。決して安くはない入学金や授業料、これらは税金の控除対象にならない。それは学部生に関しても同じだが、その分学部生の場合は特別扶養控除枠があって23歳未満の(つまりは学部に所属している大学生の)子を持つ親は63万円の特別控除が許されているが、これが院に進学してしまうと使えなくなってしまうのだ。通常の38万円に戻ってしまう。この63万と38万の差25万円はけっこう大きいことが、今回確定申告の計算をしていて実感した次第である。

 このように、本人にとっても扶養する親にとっても、大学院進学には将来への不安や経済的な負担が大きくつきまとう。でも、今の時代だからこそ、より専門性の高い勉学がますます必要になってくるのではないだろうか。どの分野においても「イノベーション」を求められる現代においては、よりいっそうの専門性を磨くこと、そしてそれらを異種交配する能力こそが肝要だ。社会全体がそうした努力をする人間をもっともっと支援しリスペクトすべきなのではないだろうか。

 ま、それはさておき。せめて大学院生を扶養する親には、引き続き特別扶養控除を認めてもらいたいものです。トホホ。



 事後になりましたが、ひとつお知らせです。今年に入ってから、早稲田大学の日本橋キャンパスでこんなことを始めています。以前からクリエイティブ・スタディーズということに興味があったので。

WS

 クリエイティブ・スタディーズ?……日本でも最近はこの名前を冠した学部を擁する大学が出来つつありますが、私が理解しているクリエイティブ・スタディーズとは……。

 これからの時代、たとえ表現の専門家にはならなくとも、どんな職業の方にとっても、アイデアを考えそれをカタチにしていくスキルを磨くことはとても大切なことだと思います。それは、職場でのコミュニケーション、家庭での親子の会話等、さまざまな人生の局面で日常の時間を well spent していくためのアート(技術)になっていくのではないでしょうか。

 そのための思考法をフラットにあらゆる人に解放する場をつくれたら、というのがここ数年の私の目標のひとつでした。自分が今まで広告制作の現場で、あるいは現在大学で体系化しつつあることをみなさんにお伝えしたい。その実践の場として早稲田大学さんが提供してくださったのがこの「おとなのための創造力開発ワークショップ」です。

 1月に開講しました。現在10人ほどのゼミ生が集まってくださっています。現役の学生さん、アートディレクター、企業でコンサル業務をされている人、大手企業のマネージャーの方などなど、職業も年齢も(20代から50代まで)さまざまです。みなさん、授業に対するモチベーションもとても高く、ちょっと今までに体験したことのない雰囲気のゼミナールに成長しつつあります。次は2月。毎回のカリキュラムを考えるのがとても楽しみです。



 早いもので、大学の教員になってもう2年目の冬である。4年生は卒論提出の時期である。この2年間ははじめての経験ばかりだったので、自分の研究もさることながら、いったいどのような授業を行えばいいのか、そのカリキュラム作りと実践にトライ&エラーの毎日だった。特に大人数の授業はその課目に対してモチベーションが高い履修生ばかりが集まるとは限らない。でも、そうした学生に対しても学び方自体を学べるきっかけになればと、なるべく新しくアップデートされた情報・役に立つ情報を、そして90分間の間に発想が刺激されるネタを準備してきたつもりである。結果、通常の大学の授業とはずいぶん異質な内容になってしまった時もあったかもしれない。でも、「先生の授業とても面白かったよ」と言ってくれる学生も多かったし、一年目の学部投票では恐れ多くもベストティーチャー賞なるものもいただけた。
 でも、ここに来て、果たしてほんとうにこれでよかったのかなあと自問自答している自分がいる。というのも、自分が今二十歳前後の学生だったらどんな授業を望むだろうかと考えると、現在自分がやっていることとは少々違うような気がするからである。
 電車やバスを乗り継いで大学のキャンパスに通い、朝の9時から始まる1限の授業に遅刻せずに出席し、午後は気のおけない仲間と少人数ゼミで過ごす時、自分だったら授業になにを望むのか。ただ単に新しいだけの情報などネットを駆使すれば自宅でたやすく検索できる。わざわざ大学に通ってまでして指導教官から得たいと望むのは、もっと静謐できめ細やかな知の体系のようなものなのではないだろうか。実学的な役になど立たなくともよい。時にそれは偏狭に陥ることがあるかもしれないけれど、それ故にこそ専門性の高い、その教官独自の感受性で丁寧に積み上げられた知の体系。詭弁や大仰なレトリックとは無縁の、その教官と同じ場所にいるだけで脳の中の襞がしっとりとしてくるような空気感。……例えば、今日木曜日の一限はフランス語。今週は仮定法過去。テキストにはプルウストを使うらしい。午後からはゼミの指導教官と詩人の中村稔さんの詩を朗読し解析する。4限が終わったらどこか大学の近くの喫茶店でノオトを復誦しながら「思案に暮れる」。……そんな大学生活は、もはや過去の幻影なのだろうか。いや、いつの時代にあっても「知の香しさ」なるものは存在し、それが感じられない授業は大学の授業ではないと思うのだけれど。
 などと自戒しつつ、さあて、今日も出講日。本日のゼミではなにを話そうか、なにを伝えようか。ひとりでも多くの学生に少しでもそれを感じてもらえることができたら、と。



 トシを取ると涙腺が緩みやすいと言うが、まあ、自分はそう易々とは……と思っていたが、あらら、これには参った。昨日、卒業する4年のゼミ生のみなさんからこんなアルバムをいただいてしまった。昔で言えば、卒業記念の色紙といったところだろうが、我がゼミ生たちは、それを格好よくアートディレクションされたフォトブックに仕上げてくれた。私が授業中に話した(らしい)言葉のアフォリズム集になっている。おおお、ちゃんと授業中にメモ取ってくれていたのね。こんなこと言ったっけなあ。あああ、確かに言った言った。
 この後、それぞれのゼミ生のメッセージがかっこいいモノクロの写真入りで載せてある。ううう、涙腺が。……ありがとう、みなさん。そして、改めてご卒業おめでとう!これからもどうぞよろしく。

album1

album2



 池澤夏樹さんの「キトラ・ボックス」を読んでいる。3年前の「アトミック・ボックス」の続編。話の内容は全然違うけれど、共通しているのは、どちらも大学の若き研究者たちが主人公のミステリー小説であるということ。池澤夏樹さんの深い素養に裏付けされたミステリー小説というだけで、これはもう読み手としてはかなりシアワセなのであるが、そこに大学研究者たちのピュアな発言や行動が重なって、読み進むうちになんとも爽やかな気分になってくる。

キトラ・ボックス


 さて、大学教員の末席に加えさせていただいてからまだ一ヶ月も経っていないが、同僚の先生たちの会話に接していると、同じ爽やかさを感じる今日この頃である。彼ら彼女らは「個」としての自分の判断を最大限大切にして、そして常にそのことに責任を持って行動している。組織はもちろん大切。円滑かつチャレンジングなこれからの大学経営を行うためにそれぞれがベストを尽くす。でも、最終的な判断の拠り所は個々人の価値観と美意識なのだ。組織の側もいったんその人の専門性とコミュニケーション能力を信頼したのなら、徹底的にその人の裁量に任せ切ってくれる。そして、そのことは若き専任講師に対してもベテランの教授に対してもまったく同じ。フラットなのである。

 話が逸れてしまったが、「キトラ・ボックス」の主人公たちも、自分自身の価値観と美意識と正義感で行動する若きピュアな研究者たちだ。古代史研究でも造詣が深い池澤夏樹さんの歴史ミステリー小説、結末やいかに?

このページのトップヘ