naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: philosophy



 最近、いくつかの講演で、あるいは、大学のゼミ生に、「わたしのなかのたくさんのわたしたち」……なんてことを言ったりする。多重人格? ジギルとハイド? いえいえ、そういった二律背反的なことではなく。

 平野啓一郎さんも、『私とは何か』で「分人」について述べている。ドミニク・チェンさんたちが事業をする際の会社名は「ディヴィデュアル」である。

 individualではなく、dividual、dividuals。個人とはそれ以上分割できない存在。それこそがアイデンティティ? いえいえ、わたしのなかにはもっとたくさんのわたしたちがいるんじゃない? じゃあ、個性ってなに? たぶん、それは、たくさんの自分の束ね方のクセみたいなものなのでは? 

 『ホモ・デウス』の下巻を読んでいたら、こんな文章があった。

 自分には単一の自己があり、したがって、自分の真の欲望と他人の声を区別できるという考え方もまた、自由主義の神話にすぎず、最新の科学研究によって偽りであることが暴かれた。(p114)

 私たちの中には、経験する自己と物語る自己という、少なくとも二つの異なる自己が存在する。(p119)

 物語る自己は経験を総計せず、平均するのだ。(p121)

 私たちが「私」と言うときには、自分がたどる一連の経験の奔流ではなく、頭の中にある物語を指している。混沌としてわけのわからない人生を取り上げて、そこから一見すると筋が通っていて首尾一貫した作り話を紡ぎ出す内なるシステムを、私たちは自分と同一視する。話の筋は嘘と脱落だらけであろうと、何度となく書き直されて、今日の物語が昨日の物語と完全に矛盾していようと、かまいはしない。重要なのは、私たちには生まれてから死ぬまで(そして、ことによるとその先まで)変わることのない単一のアイデンティティがあるという感じをつねに維持することだ。これが、私は分割不能の個人である、私には明確で一貫した内なる声があって、この世界全体に意味を提供しているという、自由主義の疑わしい信念を生じさせたのだ。(p124)


ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス(下)』(河出書房新社、2018年)

 とても納得のいく説明だと思った。

 自分をあまり演繹的に物語らないこと。自分という「総体」に素直になること。そうすれば、思い込みだけの「個性」も消えていくはず。



 改めて、『心の分析』を勁草書房版で読み返してみる。


 世界は五分前に、正確にその時そうあった通りに、まったく実在しない過去を「想起する」全住民とともに、突然存在し始めたという仮説に、いかなる論理的不可能性もない。異なった時に起こる出来事の間には論理的に必然的な結合はない。故に、いま起こっている、あるいは、未来に起こるであろう、いかなることも、世界が五分前に始まったという仮説を反証することはできない。よって、過去の知識とよばれる出来事は、過去とは論理的に独立である。

B・ラッセル/竹尾治一郎訳『心の分析』(1993、勁草書房)、p.188



 久しぶりに吉祥寺南口の(というか井の頭公園入口近くの)武蔵野珈琲店に行く。古い雑居ビルの2階にある。ドリップ珈琲がうまいのだ。他にも、カプチーノは言うに及ばず、クリーム系のトッピングメニューもたくさんある。ウィーンのカフェ気分を味わえる。ここは、又吉直樹さんが通った店。「火花」にも登場するということで、最近は若いひともいっぱい来るが、昔からの常連客も多い。本日もカウンターに座っていた方は「もう36年間、通い続けてるよ」と言っていた(のを小耳に挟んだ)。Since 1982年。
 
 80年代前半、南口の丸井の脇を通って井の頭公園に下っていく七井橋通りにあったカフェは、この武蔵野珈琲店と「くれーぷりー」。店名はたしかにそれだったと記憶しているが、この店でクレープを食べた記憶はない。井の頭公園の野良猫がいつも自在に店内に出入りしていた。その後、改修されてドナテロウズという店になり、今では建物自体が跡形もなく取り壊され「いせや」になっている。

 当時、頭の中で水腫のように膨張し続けていたさまざまな想念を、ああでもないこうでもないとノオトに書き綴っていたのは「くれーぷりー」だったり、この武蔵野珈琲店だったり、あるいは南口地下の「ストーン」だった。でも、そんな過去がほんとうにあったのかどうかなんて誰にもわからない。誰にも証明することは出来ない。すべては現在の記憶の中にあるだけのことに過ぎないのではないか。……ラッセルにかぶれて『哲学入門』や『心の分析』を一心不乱に読んでいたのも、ここ武蔵野珈琲店だったか「くれーぷりー」だったか。

turtle

Elmar 5cm f3.5 L + Nooky + GXR




 小説家の「住野よる」と言えば、とにもかくにも『君の脾臓をたべたい』が有名だが、(映画化された際の浜辺美波の演技はスバラシかった!)小説としてはこちらの方が好きである。『また、同じ夢を見ていた』。文庫本が出たので再読していたのだが、台風の夜に鞄の中に入れて持ち運んでいたためか、こんなになってしまった。(涙)

住野よる

 とても平易な文章で書かれているが、これはある意味、哲学書だと思う。

 「幸せとは、自分が嬉しく感じたり楽しく感じたり、大切な人を大事にしたり、自分のことを大事にしたり、そういった行動や言葉を、自分の意思で選べることです。」

 といった、人生の指南書でありつつ、この世界の認識の仕方についての、これは正当な哲学書でもあるのではないか。読み終えたあと、バートランド・ラッセルの「世界五分前仮説」のことを思い出してしまった。タイトルのせいかもしれない。『また、同じ夢を見ていた』。



 これから「表現する」ことを目指していく人に対して、私は折に触れ、「言語隠蔽」(げんごいんぺい)について話すことにしている。言葉で表現することの素晴らしさについて。と同時に、それと表裏一体の危うさについて。自分のクオリア(感覚質)が表現したいと欲求しているもの、そのすべてをホリスティックに言語化することは、残念ながら我々にはできない。言語化された瞬間、抜け落ち忘れ去られていくもの。それらの中にこそ本質的な何かがあったと直観することは、アイデアを考えることを生業にする人ならば誰でもが経験済みのことであろう。

 そのことを、ヴィトゲンシュタインは「語り得ないことについては人は沈黙せねばならない」と言ったのだ。

 言葉よりは、写真や絵画や音楽や映像の方が、抜け落ちてしまいそうな本質的なものを掬い上げることに長けている気がする。それらのメディアの方が、生命体の揺らぎのようなものを複雑系のまま担保しやすいからだ。でも、例えば、原作を映像化した映画の場合には、作者である監督は、原作者よりももっと意図的に言語&映像隠蔽を施すことが出来るようになるのではないだろうか。映像は言語よりも格段にリッチな情報媒体である。ゆえに言語の余白部分にさえも明確な輪郭付けを施すことが可能になってくる。

 表現するということは、表現されるということは、作り手と受け手の化かし合いである。そのことを肝に銘じて「表現する」こと。どこまでを意図的にするのか、どこまでを無意識のフィールドに残すのか。その匙加減こそが作品のクオリティを決めるポイントのような気がする。

 そんなことを、私は折に触れ、これから「表現する」ことを目指していく人に対して話すことにしている。あるいは、自分も表現者の端くれとして、いつもこのことを考えるようにしている。


廃屋

P.Angenieux 25mm f0.95 + E-P5



 大学で担当しているゼミの名称を「ひとと違ったことを考えられるようになる、ためのゼミ」あるいは「ひとと違う考えをカタチにできるようになる、ためのゼミ」としてみた。ちょいと気に利いた風なことを言ってみたくなるのは良くも悪くも広告業界育ちのせいであるが、この、ひとと違う自分、なんて言い回し、ほんとうはそんなに容易く実務的に使う言葉ではないと思っている。たぶん。

 だって。あなたとわたし。もともと違っているのがアタリマエなのである。どんなに同じような体験を重ね、同じような生活を送り、同じような記憶を脳に蓄積していようとも、あなたとわたしは最初から計り知れないほど違っているのである。きっと。感じていることを言葉にしたり絵に描いたりしてみると、うまく意思疎通もできるし、似たもの同士なあなたとわたし。でも、あなたがほんとうに今なにをどう感じているのかはわたしには永遠に理解できない。なぜならば、あなたとわたしとでは、それぞれが抱え込んでいるクオリア(感覚質)が根本的に違うはずだから。たぶん。

 だから、安易に「Be different」とか「ひとと違ったことを考えられるようになるためのテクニック、あるいはスキル教えます」などと口にする人間(私のことである)なんぞは信頼してはいけないのである。ではなくて、その人間がどのくらい複層的にそうしたことを口にしているのか、隠喩のそのまた隠喩まで想像してくれることを、その人間は期待しているのである。きっと。

 はてさて。ところで、うちのこの犬はどんなクオリアを抱え込んで世界を認識しているのだろうか。地上30センチぐらいのローアングルから見る世界。人間の100万倍以上と言われる嗅覚で嗅ぎ取るこの世界。はたしてそれらはどんな世界なのだろう。そうしたことを想像するのも動物を飼う楽しみのひとつである。

dog

Zuiko 40mm f1.4 + PEN FT + Lomo100





 やはり、この世界の秘密を解く鍵は「音」と「匂」の中に隠されている気がしてならない。

 私は少年の時に夏の朝、鎌倉八幡宮の庭の蓮の花の開く音をきいたことがあった。秋の夕、玉川の河原で月見草の花の開く音に耳を傾けたこともあった。夢のような昔の夢のような思い出でしかない。ほのかな音への憧憬は今の私からも去らない。私は今は偶然性の誕生の音を聞こうとしている。(中略)
 匂も私のあくがれの一つだ。私は告白するが、青年時代にはほのかな白粉の匂に不可抗的な魅惑を感じた。巴里にいた頃は女の香水ではゲルランのラール・ブルー(青い時)やランヴァンのケルク・フラール(若干の花)の匂が好きだった。匂が男性的だというので自分でもゲルランのブッケ・ド・フォーン(山羊神の花束)をチョッキの裏にふりかけていたこともあった。今日ではすべてが過去に沈んでしまった。そして私は秋になってしめやかな日には庭の木犀の匂を書斎の窓で嗅ぐのを好むようになった。私はただひとりでしみじみと嗅ぐ。そうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまう。私が生まれたよりももっと遠いところへ。そこではまだ可能が可能のままであったところへ。

九鬼周造 「音と匂──偶然性の音と可能性の匂」




 シアワセってなんだろう、と時々、柄にもないことを考える。やはり、安定して予定調和に守られてこそのシアワセなんだろうか、それとも happiness の語源が示すとおり、毎日が happening の連続こそをシアワセと言うのだろうか。

 じぶんってなんだろう、と時々、柄にもないことを考える。この、他者とはゼッタイに違う、唯一無二のじぶん。じぶん、じぶん。じぶんが死んだら世界はなくなる?でも、はたして、じぶんを明解に確立していることはほんとうにシアワセなことなんだろうか。年を重ねるにつれてその疑いが増す。

 ボードレールはこう言った。守られたじぶんなんて「金庫の中に閉ざされたエゴイスト」に過ぎないと。さあ、諸君、群衆の中で沐浴(ゆあみ)しよう、群衆の中で自分の囲いを外し、未知なるものすべてにじぶんをそっくり与えようと。神聖なる売春をしようと。

 匿名性の中に紛れ込み、世界の中に完全に溶け込んでしまうことは魅惑の極みである。だけれども、これほど恐ろしいこともない。じぶんはあらゆるところに属していて、ゆえにじぶんはどこにも属していない。

 そんなことを、時々、柄にもなく考える。



 実は、リアルという言葉がキライなのである。広告クリエイティブの講義なんかで「イマドキの広告はリアリティこそが命です!」なーんて言ったりしているけど、昔からリアルな写実派がキライなのである。絵画にしても写真にしてもブンガクにしても。(ちなみに私小説というのはリアルではありません。よってキライではありません)

 リアルってなんだか暑苦しいなあ、でも、それってどうしてなんだろうとずっと思っていたが、この件についても「まなざしの記憶」のあとがきで著者の鷲田さんが鮮やかに説明してくれていた。植田正治さんの写真についての批評の一節である。

 ほんとうは観念的な強迫でしかない「リアリズム」を遠ざけ、リアルなものへのべたつきをも排した植田さんの手法とは、リアルなもののただなかに息づくほんとうの「普遍」を抽出しようとするものであろう。

 そうなのだ。リアリズムの方こそ観念的なのである。しかもそれを強要するのである。一見すると概念的に見えるであろうはずの植田さんの写真や、キリコやデルフォーやマグリットが描く形而上学的な絵画の方が、実はずっとずっと軽やかで伸びやかで自由で普遍的なのである。ああ、ようやくスッキリした。今まで自分が本能的に好きだったものたちに共通するその理由がはっきりとわかってきた。ありがとうございます、鷲田先生。

white trees

Summaron 35mm f2.8 L + M8 + Infrared filter


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