よく夢を見る。そして夢日記をつける。でも、うまく書けたためしがない。すぐに忘れてしまうからか? いや、枕元には手帖が置いてある。手元の明かりをつけてメモする準備はできている。だから、あらすじめいたものはスラスラ書くことができる。でも、読み返してみるとさっぱり訳がわからない。夢で見た内容があまりに荒唐無稽だからか? いや、そういうことではないのかもしれない。ベストセラーになった『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリの続編『ホモ・デウス』の中に、こんな文章がある。
実際、人間自身も、言葉にせずに過去や未来の出来事を自覚することはよくある。とくに、夢を見ている状態では、言語によらない物語をまるごと自覚することがあり、目覚めたときにはそれを言葉で描写するのに苦労する。
ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス(上)』(河出書房新社、2018年)、pp157-158
近頃、この、「言葉によらない物語」について考えることが多い。起承転結型の物語なんてつまらない。そもそもストーリーテリングという考え方がつまらない。同じ物語でも、ナラトロジー、あるいはナラティブと言われれば心惹かれる。その理由は、言葉、特に書き言葉に依存することの限界を(あるいは、その欺瞞を)我々が本能的に感じ始めているからではないだろうか。
夢日記がうまく書けない理由もたぶんそのあたりにあるのではないか。内容が荒唐無稽過ぎるからではなくて(あるいは、物語というのは元来このくらい荒唐無稽なものだと言い換えてもいい)、ただ書き言葉に翻訳しづらいというだけのこと。我々は夢を見ているとき、体全体、脳全体、意識と無意識のその全部で物語を紡いでいるのだ。とてもナチュラルにホリスティックに。