これ、長崎は茂木に本店のある一〇香本家(いちまるこうほんけ)の銘菓「一〇香」(いっこっこう)。一見ふつうの焼き饅頭。でも、ガブリと囓ってみると、なんと中身がない。空洞なのである。きっと中には甘い餡が入っているに違いない、それはつぶ餡かこし餡か、という俗世の煩悩を見事に裏切ってくれる菓子なのである。なんとも哲学的である。
ネーミングもまた哲学的である。一口で香り高くおいしいから「いっこっこう」。それが店の名前では一〇となる。イチとゼロ。二進法。デジタルである。これはもう禅的ですら、ある。おまけにおいしい。皮に飴が塗ってある。ゴマもまぶしてあって香ばしい。ゆえに、これ、ワタクシの好物なのである。
長崎の茂木。一度だけ行ったことがある。有名なのは茂木港の先にある月見の名所、潮見崎観音。石段を百段ばかり登ると島原半島がかすかに見える。あるいは茂木の名前の由来になった神功皇后の裳着神社(もぎじんじゃ)。
ユニークな店もいくつかあった。この一〇香本家しかり、フランスパンのブーランジェリー「オロン」しかり。
茂木港には、かつて長崎の女傑が経営していた茂木ビーチホテルなるものも建っていた。檀一雄はここで芝エビを食べまくっていたらしい。
部落はずれの森の中に、一軒のホテルが立っている。Bホテル、と聞えはよいが、おそらく、大正のはじめ頃につくられたまま、時代からとりおとされてしまったような、二階建ての、白ペンキ塗りの、木造ホテルであって、大時代な琺瑯鉄器のバスがあり、ギイギイときしむ骨太いダブルベッドがあり、古風な大理石のマントル・ピースをもった壁暖炉があり、で、何となく芥川龍之介だの、佐藤春夫だのが、青年の日に、長崎にやってきては、ここに泊っていたような錯覚さえ感じられた。
檀一雄 火宅の人(下)
茂木。長崎の奥座敷。長崎はまだまだ奥深い。