最近いろんな方とお話ししていると、会話の端々に、コンピュテーショナルシンキング、あるいはコンピュテーショナルデザインといった言葉をよく耳にする。コンピューター的思考、コンピューター的デザイン。
たぶん、こうした概念を私が最初に意識したのは、今から遡ること40年ほど前、高校三年生の時ではなかったか。現代国語の授業で、当時理系クラスでトップの彼が、芥川だったか漱石だったかは忘れたが、文豪たちの書く文章も前後の脈絡を解体してパーツごと組み替えてみると面白い、的な発言をしたことがあって、それを聞いて、普段は物静かで(というか授業中は下を向いて好きな本ばかり読んでいた)私が、このときばかりはその彼の発言に猛然と抗議した記憶がある。なんて言ったか記憶が定かではないが、たぶん、当時の私の心の中の言葉を思い起こせば、「ボ、ボクの大切な、ブ、ブンガクを、数式のように扱うんじゃない!」とかなんとか、あまりにも青臭い文学青年風の心の叫びだった気がする。
そんな私も、その後数十年を経過して人間のコミュニケーション能力についていろいろ考えるようになり、特に「クリエイティビティ」なんてことを意識して二十数年を過ごしてみると、今では、あの時の彼の発言の重要性がとてもよくわかるのである。エリートの彼は17歳にしてさすがだったのだなあと今更ながらに感服するのである。
既存の考え方や常識にとらわれないで自由に発想してみる、というのは、言うは易しだがこれほど難しいことはない。もちろん、そうしたことができるようになる訓練やコツみたいなものはあるし、そのことを本にも書いてみたつもりだが、でも、文脈のハズシ方、ズラシ方にもその人独自の「意味性」が加わる。それは素晴らしいことだし、その人ならではのクオリアの反映であるし、それこそが人間の個性なんだけれど、逆に言えば、私たちは「自分の自分によるコントロール」から自由になることはなかなかできないのである。
それを、意図的に、時にはコンピューターがやるように解体再構築してみる、というのがコンピュテーショナルシンキングということ。徹底的に機械的にシャッフリングした後で無機質にカップリングするのである。すると、超予想外の組み合わせに自分のクオリアが従来にはない感覚で反応することがある。演繹的思考はその後で。まずは徹底的に帰納法にこだわり続けること。
とりあえず気の利いたまとめかたをササっとしてしまうこと。……それこそが、思考する上ではいちばん怠惰なことなのかもしれない。今更ながらではあるが、17歳のあの頃にもどって彼に教えを請いたい気分である。