naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: architecture



 町田市にある武相荘に行ってきた。ご存じ、白洲次郎・正子夫婦の邸宅跡。ここは、戦時中、当時まだ寒村だった鶴川村の農家をふたりが買い取って改築したものである。現在ギャラリーになっている茅葺き屋根の母屋には正子の書斎が残されている。蔵書の一冊一冊を眺めやる。折口信夫全集、南方熊楠全集。チェーホフも数冊ある。本の重みのせいか床の一部が真ん中で傾いていたりもする。

 書斎近くに「無駄のある家」と題した正子の文章の一部が展示されていた。この文章が素晴らしい。

 鶴川の家を買ったのは、昭和十五年で、……(中略)……もともと住居はそうしたものなので、これでいい、と満足するときはない。綿密な計画を立てて、設計してみた所で、住んでみれば何かと不自由なことが出て来る。さりとてあまり便利に、ぬけ目なく作りすぎても、人間が建築に左右されることになり、生まれつきだらしのない私は、そういう窮屈な生活が嫌いなのである。俗にいわれるように、田の字に作ってある農家は、その点都合がいい。いくらでも自由がきくし、いじくり廻せる。ひと口にいえば、自然の野山のように、無駄が多いのである。……(中略)……あくまでも、それは今この瞬間のことで、明日はまたどうなるかわからない。そういうものが家であり、人間であり、人間の生活であるからだが、……

白洲正子『縁あって』(2010年、PHP研究所)


 普請道楽を極めた人だけが言える言葉だと思う。

武相荘2

武相荘1

Summilux 50mm fd1.4 1st + M9-P



 螺旋階段が好きである。グッゲンハイム美術館しかり、会津の栄螺堂しかり。

 無駄を排した直線美。例えば、モンドリアンやリートフェルト、あるいはコルビュジエに憧れる。でも同時にその正反対の、曲線とか迷路とか、そういうものにも無性に心惹かれる。アテネのアクロポリスの丘よりもその眼下にあるプラカ地区に、ベルサイユ宮殿よりもフォンテーヌブローの宮殿に心惹かれる。

 美しい螺旋階段があると知ったらどこへでも行きたくなる。ところが、灯台もと暗し、とはこのことだ。なんと、通っている大学の敷地内にもそれはあった。築1968年の研究棟。

螺旋

Zunow 13mm f1.1 + Q-S1





 NHKの朝ドラ「半分、青い。」は岐阜県が舞台である。脚本家の北川悦吏子さんのふるさと。番組中にたくさんの岐阜弁(東濃弁?)が飛び交っている。私も岐阜県の出身なので理解は出来るが、岐阜弁というのはけっこう特殊なのだ。例えば、こんなふうに。……昔、よく母親に「はよ、まわしせんと」となどと言われた。「まわし」とは「準備、支度」の意味である。標準語的にはさっぱり意味がわからぬ。

 幼い頃から私はこの地方の言葉があまり好きではなかった。おとなたちが話している言葉のイントネーションがイヤだったのだ。大仰でなにやらがさつで。もっと柔らかなニュアンスの言葉を話す国で暮らしたいと思っていた。でも、自分の出自を変えることはできない。

 そんな自分の生まれた場所(岐阜県の大垣市である)に初めて誇りを持ったのは本郷の菊富士ホテルのことを知った時であろうか。菊富士ホテル。本郷の菊坂にあった西洋式のホテル。大正から昭和にかけて、文人たちのコミュニティとして有名だった高級下宿。今で言えばコーポラティブハウスといったところか。尾崎士郎、宇野浩二、竹久夢二、谷崎潤一郎、広津和郎、直木三十五、そして坂口安吾といった名だたる文士たちがみんな菊富士ホテルの住人だったのだ。で、この菊富士ホテルをつくったのが岐阜県大垣市平村(現在の安八郡)出身の羽根田幸之助なのである。彼は日本の近代文学の偉大なパトロンだったのだ。

 ホテルは空襲で焼けて、現在では跡地に石碑が建っているだけだが、かつてここに富士山が望める三階建ての、そしててっぺんには坂口安吾が愛用した塔の部屋のあるホテルが建っていたのだと思うと感慨深い。近藤富枝さんが書いた「本郷菊富士ホテル」を片手に界隈を散策してみると、女子美術大学の前身の建物や宇野千代が働いていたレストランが近くにあったこともわかる。

ホテル跡


本郷菊富士ホテル


 岐阜県大垣市出身であることが誇りに思えるひとときである。




 大学が近いこともあって、小金井公園の中にある「江戸東京たてもの園」はたびたび訪れる。大好きな前川國男邸や常盤台写真場がある。でも、時にそうしたモダン建築よりも心引かれるのが、関東大震災の後の復興建築として名もなき設計者やデザイナーたちがつくった看板建築と言われる建物群である。
 看板建築。正面のファサード部分だけが銅板やタイル、モルタルで覆われている。軒をなくしたマンサード屋根。しかし、奥行きは杉板等を多用する従来の木造建築物である。ここに住むのは個人商店を営む人たちで、ファサード部分が店舗で奥は個人用の住宅である。
 その代表的な建物が東ゾーンにいくつか復元されている。現在は展示スペースで「看板建築展」も行われていて、今回、改めてじっくりと看板建築について勉強してみたのだが、これがなかなかに奥が深い。この看板建築に先立つものとして、震災直後のバラックを美しく装飾するための「バラック装飾社」というのがあって、そのコンセプトが「バラックを美しくするための仕事一切」とのこと。その中心となって活躍したのが建築家であり民俗学研究者の今和次郎氏。「考現学」を提唱した人だ。

バラック

 バラック装飾といい、看板建築といい、一見するとその空間には一貫性がなくインスタレーション発想からはほど遠いものだが、この敢えての「デコレーション感覚」が今から思うと逆に新鮮である。ダダイズムと言えばいいのかポストモダンと言えばいいのか。ちょいと胸騒ぎを覚えてしまった。。

路地

CZ Jena Flektogon 20mm f4 + α7s


 路地裏。




 清瀬にある国立病院機構東京病院に行ってきた。現在の第一病棟の裏あたりにその建物は建っている。

外気舎

Summicron 50mm f2 L + Ⅲg + Lomo B&W400


 病院の構内を一周して散歩道がある。この季節には、生い茂っていた夏草も枯れ、散歩道を縁取った楢や櫟の木々も落葉する。そうすると散歩道からは病棟の部屋部屋が見え、病棟で寝たきりの患者の眼にも、枯れ落ちた雑木林の向うに、外気小舎のトントン葺きの屋根が幾つも点在するのが眺められた。

 高校生の頃の愛読本のひとつ、福永武彦の「草の花」の一節である。この外気小舎が今でもひとつだけ、第一病棟の裏にある桜の園近くに現存しているのだ。寿康館の跡地だったことを紹介している看板も近くにあった。

寿康館

 「草の花」の冒頭は以下の文章から始まる。

 私はその百日紅の木に憑かれていた。それは寿康館と呼ばれている広い講堂の背後にある庭の中に、ひとつだけ、ぽつんと立っていた。寿康館では、月に一回くらい、サナトリウムの患者達を慰問するための映画会が開かれた。 

 出発点と記された道標もある。その説明文を読んでいたら、なんとも切ない気分になってきて、、

出発点


 炎天下で、堀辰雄と福永武彦の文章に憧れ続けた頃のことを想い出す、今日は今年最後の猛暑日。

商店街

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 聖人たちの商店街。


九輪

Jupiter-12 35mm f2.8 L + M8


 九輪。




 久しぶりに浦和の別所沼にあるヒヤシンスハウスに立ち寄る。無性にあの色が見たくなったのだ。淡緑色。あるいは緑青色とでも言えばいいのか。道造グリーン。ヒヤシンスが活けられた窓枠にも、木製のドアにも、この色が塗られている。そして、彼がこの小さな部屋にいる時にだけ掲げられていた旗の色も。

灰緑色

 詩人で建築家の立原道造は、この灰色の混じったアンニュイな緑色になにを感じていたのだろうか。新芽の色にしては褪せている。秋の日に取り残された緑の色か?

movie theater

P.Angenieux 25mm f0.95 + E-P5


 movie theater.


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