カテゴリ: history
阿由戸の浜
先月、館山の布良に行ってきた。敬愛する日本の近代画家、青木繁が坂本繁二郎、森田恒友、福田たねとともにかの《海の幸》を描いた場所である。当時彼らが逗留した小谷家の建物がそのまま残っていて、現在は青木繁「海の幸」記念館になっている。当主の方から大変興味深いお話を伺うことが出来た。例えば、《海の幸》の下絵では漁師たちが女性の着物を着ている姿が描かれているが、これはすぐ隣の布良崎神社の夏の祭礼で神輿をかつぐ際に女装をする習わしがあって、それを青木繁らが見ていたからではないかとか、青木繁が魚類について故郷の友人に宛てた手紙の中で詳しく言及しているのは、農商務省水産局から寄贈された貴重な「日本重要水産動植物之図」が当時小谷家に飾ってあったからだとか。
記念館を出て、《海の幸》の舞台となった阿由戸の浜へ下りていく。ここは天富命(あめのとみのみこと)が阿波の忌部一族とともに上陸した場所とされている。男神山、女神山が海岸から連なっている。まさに神話の里である。当時は東京からこの布良にやってくるためには現在の新川あたりにあった霊岸島から船に乗っての長旅だったと聞く。現在はアクアラインを使えば東京湾を横断して陸路だけで辿り着くことが出来るが、それでもバスで2時間半かかる。
さて、青木繁の代表作のひとつ《わだつみのいろこの宮》などを見ても、彼がいかに十九世紀末の欧米の美術を研究していたかがよく分かる。アーティゾン美術館で10月16日まで開催されていた「生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎」で青木繁の描いた旧約聖書物語の挿絵を見て、まさに日本のギュスターブ・モローだと実感した。美術史学、美術評論の第一人者で東京大学名誉教授、現大原美術館長の高階秀爾先生も、竹久夢二との関連性も含めて以下のように述べている。
今では日本における世紀末芸術の代表的画家として、青木繁、藤島武二、竹久夢二という系譜を考えることができるのではないかということが私の意見である。(中略)そのなかで特に上に引いた三人を日本の世紀末芸術の代表者として挙げたのは、この三人の画業が特に優れて特徴的だと言うことのほかに、この三人には、気質的に十九世紀末の芸術家たちと深くあい通ずるところがあるからである。少なくとも青木繁と竹久夢二の場合は、それは明らかである
高階秀爾「世紀末の画家 『竹久夢二』」『三彩増刊 竹久夢二』(三彩社、昭和四十四年)に所収。pp.56-59
その青木繁が日本人のルーツとしての神話世界を古事記に求めたのである。その場所のひとつがここ、布良の阿由戸の浜である。
all photos taken by Summilux 35mm f1.4 2nd + M6 + Lomo Grey 100
振り出しに戻る
2022年の大河ドラマは三谷幸喜さんの脚本による『鎌倉殿の13人』、北条義時が主人公である。
若い頃から歴史好きで、特に平安末期から室町にかけての中世史には目がない。20代の後半に鎌倉に住んでいたこともあって、鎌倉周辺の源氏、北条氏ゆかりの場所はほとんどすべて見て回った。ちなみに当時住んでいたのは北条得宗家屋敷跡である宝戒寺のすぐ近くで、高時腹切りやぐらのある東勝寺跡は毎週末の散歩コースだった。
でも、幕府滅亡後の北条氏については今まであまり関心がなく、今回改めていろいろ調べてみたのだが、なんと故郷帰りをしているのである。高時の生母である覚海尼は北条氏発祥の伊豆韮山に戻り、その元来の屋敷跡に円成寺を建立している。すぐ近くには狩野川が流れ、なんとも風光明媚な場所である。
北条義時が得宗と呼ばれ、第二代執権の職に付いてから鎌倉幕府が滅びるまでに約130年の月日が流れた。一族は滅亡し、その冥福を祈るための尼寺が伊豆地方の一豪族に過ぎなかった頃のかつての場所に建立された。こうして運命は振り出しに戻るのだ。円成寺跡には、彼岸花が咲いていた。
all photos taken by Elmarit 28mm f2.8 2nd with stopper + M10-P + Color Efex Pro
1964年
来年はいよいよオリンピックイヤー。ここ数年、話題は2020年で持ちきりだったし、それに伴い、1964年の第18回東京オリンピックを懐古するテレビや雑誌の特集が組まれることも多かった。
1964年。自分はまだ3歳だったのでなにも記憶はないのだが、1964年と聞けば、戦後の高度成長を達成していく輝かしいニッポンというイメージで、そこに、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」で描かれていたような昭和ノスタルジーがブレンドされる感じ。でも、実際のところはどうだったのか?
先週、NHKでこんな特番をやっていた。「東京ブラックホール 破壊と創造の1964年」
なんとなくは知っていたけれど、女子バレーボールの北朝鮮選手団帰国の件、そして会期中の中国の核実験等、華やかな東京オリンピックの裏側で同時進行していたさまざまな出来事をこの番組は鋭く抉り出していて、いろいろ考えさせられることが多かった。久しぶりにマキャヴェリズム、という言葉を思い出した。
この番組を見逃した人はオンデマンドでもなんでもちゃんと見た方が良いと思う。ドキュメント+ドラマとしてもなかなか洒落た演出だったし。
初老記念
その町は川沿いの古い城下町で、到着してすぐに築四百年を超えるお城の天守閣に登ってみることにした。階段の段差があまりに大きくて、下りで膝が笑い出す。いにしえの武将たちはあの重い甲冑を身に纏ったままこの急な階段を上り下りしたのか。苦労して天守まで登ったはいいが、雨が近づいているようで空はどんより曇って川の向こうの見晴らしは望めない。眼下にお稲荷様と町の鎮守様が建っていた。そこから南に城下町が広がっているのがわかる。
翌朝、まだ日射しが暑くならないうちに町を歩いてみることにした。まずもって妙なことに気がついた。せいぜいが五百メートルぐらいの道筋に写真館が何軒も並んでいるのだ。今時の観光客はみんなスマホで撮影してインスタグラムにアップするだけで、わざわざ写真館で記念写真なんか撮らないだろう。では、町の人たちが写真館好きなのか。今も人生の節目節目にホリゾントの前で記念写真を撮る習慣があるのだろうか。
そこは不思議な町並みだった。古民家を改装した洒落たカフェがあるかと思えば、路地の奥は樹齢四百年のクスノキの巨木がそびえ立つお寺の境内に繋がっている。足の不自由な老婆が杖をついて亀のような足取りで歩いているかと思えば、西洋風の彫りの深い顔をした女がハスキー犬を連れて颯爽とランニングをしている。広大な小学校の校庭にはひとっ子ひとりいない。からくり人形館と称した建物の前にばかり何人もの人が集まって、全員がうまそうに煙草を喫んでいる。彼ら彼女らの表情があまりにいいので写真を撮らせてくれないかと頼んでみた。ところが、いざシャッターチャンスというところで、ローライフレックスの巻き上げが突然効かなくなった。12枚撮りの8枚目からうんともすんとも動かなくなる。写したフリをしてお城の麓に戻ることにする。
お稲荷様の敷地に赤い鳥居が幾つも連なっている。その隣に町の鎮守様。境内に何本かの桜の植樹。脇には石碑が建っていて、初老記念、と書かれている。初老記念? ……いつの間にか背後から声がした。
「初老とは四十二歳の男の厄年のことです。満四十歳。昔の人にとって四十歳はすでに初老。人生もそろそろ終わりに近づいてきたというわけで、厄年で命を落とす人も少なからずいたのです」四十歳で初老ならば、五十を過ぎた今の自分はなんなのだろう。じゃあ、女の人は、と私が尋ねようとすると、声の主は「三月三日に女の人は厄除けをします。女の人は男以上に業が深いですからね」
ここにもクスノキの大木があって、こちらは樹齢六百五十年だと書いてある。オレンジ色の花を咲かせたノウゼンカズラがその太い幹に巻き付いている。一呼吸置いてから、私はゆっくり後ろを振り返り、先程からの声の主を探した。が、そこには誰の姿もなく蝉の鳴き声ばかりが、かしましく聞こえるばかり。
GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ
逢魔が時
東京都内にもいわゆるパワースポットは数多くあるが、近隣だとやはり目黒不動尊だろう。瀧泉寺。
先日、目黒のイメージスタジオ109での編集作業の合間、久しぶりに日没寸前の目黒不動尊に足を運んでみた。薄闇の中にたたずむ不動明王と愛染明王。それとコントラストを為すように、独鈷の瀧、あるいは道路を隔てた向かいの恵比寿様の池。火と水である。
そしてなぜだかこの場所に、歌舞伎で有名な平井権八と小紫の後追い心中の塚や、かの北一輝の立派な碑文があったりする。
300メートルも歩けば車がひっきりなしに行き交う山手通りだが、逢魔が時の不動尊の森は、なにやらあの世とこの世をつなぐ場所のようなシルエットを見せている。
天平の
お昼の休憩時間を利用して、よくここに来る。武蔵国分寺公園。
かつて、この近くに武蔵国の国分寺、国分尼寺があった。公園から国分寺講堂跡へと至る途中には真姿池湧水群があり、近所のひとがのんびりとペットボトルに湧水を汲んでいる。国分寺崖線のハケに沿って「お鷹の道」が続いている。
湧水園前の「おたカフェ」でぼんやりしながら、天平時代に思いをはせる。ここは国府があった府中から至近の場所。当時の人々が、周辺の緑美しい台地を眺めつつ、東山道武蔵路沿いにはるか遠くの奈良の都を目指す姿を想像する。
JR国分寺駅。今では駅直結の高級タワーマンションが建ち並ぶ中央線のターミナル駅だが、そこから15分も歩けば、あっという間に古代へのタイプスリップが可能になるのだ。
all photos taken by Zunow 13mm f1.1 + Q-S1
詫び状羊羹
伊東の佛現寺に行ってきました。市役所の隣、高台に立つ立派な日蓮宗の寺です。
訪ねた理由はこちらです。天狗の詫び状。ではなく、天狗の詫び状にかこつけた(?)羊羹を購入するためです。
詫び状そのものは残念ながら非公開です。ひとつとして同じ文字のない、すなわちルールがまったくわからない解読不能な、通称「天狗の詫び状」がこのお寺に保存されています。この天狗の詫び状については吉田篤弘さんの「遠くの街に犬の吠える」を読むまで知りませんでした。
ぼくは羊羹に目がないのです。自分で云うのもなんですが、まったくおかしな天狗でした。酒はからきし駄目で、とりわけ甘いものが好物というわけではありません。しかし、羊羹だけは話が別なのです。もし、峠の旅人が羊羹およびこれに類するものを携えていたら、いきなり飛び出して仰天させ、旅人があわてふためいた際に、さっと奪い取ってすみやかに飛び去る。あれでずいぶんと羊羹をいただきました。そして、こう思ったのです。自分はかつて白い桃を食べて育ったのに、いつからかこうして、黒いかたまりである羊羹に翻弄されている。嫌になりました。自分の悪行そのものが重荷になり、村人や旅人に「詫びたいのです」と寺の住職を訪って打ち明けました。
吉田篤弘著「遠くの街に犬の吠える」より
こ、これは、修行僧がふざけて書いた梵字の類いか、はたまた宇宙人の所業か?
乃木坂
五月。散歩日和の日が続く。時間がある時はちょいとロングコースに出かけてみるのもいい。根津美術館の前を過ぎ、青山墓地を突っ切り、赤坂トンネルを抜けて乃木坂、赤坂駅まで。ロングコースといってもたかがしれている。カメラ片手に途中で寄り道をしてもせいぜいが45分程度。
で、このコース、寄り道したくなるスポットが随所にある。桂由美さんのブライダルハウスのディスプレイはキッチュで面白いし、乃木神社ではかなりの確率で神前結婚式のセレモニーに出くわす。
乃木神社。乃木大将夫妻、1912年明治天皇崩御の際に殉死。英霊となったふたりを祭った神社である。21世紀の若いカップルたちが結婚式を挙げているそのすぐ脇に、明治のカップルが、ひとりは心臓をひと突きにし、ひとりは十文字に割腹して殉死した時に鮮血で汚れた衣服等を埋めた塚があったりする。なにやら不可思議な気分になる。
乃木坂。このあたりの地名はすべて乃木大将に由来している。最近では乃木坂46なんてのもある。彼女たちのいったい何人が乃木大将の殉死について知っているのだろう。漱石の「こころ」を読んだことはあるのだろうか。…
そんなこんなを考えさせられる乃木神社、乃木會舘を過ぎると今度は左手に緩やかな坂道が見えてくる。聖パウロ女子修道院である。突然気分はヨーロッパ。修道服を着た女性の後ろ姿が坂道の先に見える。沈丁花の花が満開で、あたりは甘いかぐわしい匂いに満ちている。道沿いの垣根越しに小さなマリア像がこちらを向いて微笑んでいる。
all photos taken by Jupiter 50mm f2 L + Ⅱf + Acros100