naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: cinema



 ついに上映も最終日となったので、やっぱり、映画「月の満ち欠け」、見に行くことにした。

 原作は大好きな佐藤正午さん。直木賞を受賞されたときは自分ゴトのように喜んだ覚えがある。

 こうした文学作品の映画化はやや期待外れになることも多いが、廣木隆一監督は原作のかなり交錯した話をうまくシンプルに収束させてストレートに「泣かせる」映画に仕上げている。おかげさまで、けっこう泣かせていただきました(汗)。
 ま、あのジョン・レノンの名曲「WOMAN」を使われた日にゃ仕方がない。でも、かの「However distance don't keep us apart. After all it is written in the stars」の歌詞は、この生まれ変わりのストーリーにすんなりとマッチしていると思う。




 早稲田松竹で映画を見た80年代の日々がとても懐かしゅうございました。



 映画「ドライブ・マイ・カー」がベルリン、カンヌ国際映画祭受賞に続き、アカデミー賞作品賞他の候補に、とのことである。原作を読んだ際、SAAB 900のコンバーティブルとか(映画ではサンルーフ付きのハードトップになっていた)、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」とか、ちょいと個人的に苦手(というか自分の青春の恥部と言うべき)ものにヤラれてしまって、今まで映画を見るのを敬遠していたのであるが、こ、これは、……原作に確かに立脚してはいるものの、濱口監督、大江さんがオリジナルに「脚本賞」を受賞した理由に納得させられた。映画「ドライブ・マイ・カー」は東京、広島、北海道、(そして韓国?)をつなぐロードムービー大作である。そして、イマドキ敬遠されがちな言葉の独白だけのロングショットの数々、3時間があっという間に過ぎた。でもって、三浦透子さんがとにかくカッコいい。

 ネタバレになってしまうといけないので映画のストーリーについてはここには書きませんが、また昔に戻って(?)無性に煙草を吸いながら車の運転がしたくなる映画です。車を疾走させながら煙草の煙を肺の深くまで吸い込み(いくら体に悪いと知ってはいても)、ふうっーと吐き出さないことには紛らわすことのできないことが人生にはまだまだたくさんあるような気がします。

 そして、車の運転が上手な女性について。個人的にそうした女性は今までに何人か知っていますが(彼女たちはみんな左ハンドルのマニュアル車を、右手の手首を優雅にくねらせながらシフトチェンジしていた)、その上手さはそのままスピード超過であの世に繋がってしまいそうな浮遊感と表裏一体でした。そうではなく、「渡利みさき」さんみたいに、助手席に座っているひとをこちら側の世界にしっかりと繋ぎとめ、無言で人生の再生を促しながら走り続けてくれる運転の上手な女性には、残念ながらまだ出会ったことがないように思います。



 空き時間ができると部屋でひとり、PC画面で昔の映画でも見る機会が多くなった。例えば、岩井俊二監督の『Love Letter』、1995年製作。25年、もう四半世紀も前の作品である。中山美穂ダブルキャスト。「お元気ですかぁ」

 彼女(藤井樹)が暮らしている小樽の街。窓ガラスの外は冬景色。部屋の真ん中に石油ストーブ。彼女は風邪を引いている。咳が出る。熱も少しあるみたい。家族の前でも、マスクしないでゴホンゴホン。

 今の時世じゃ、あり得ない情景描写。でも、ほんの数ヶ月前までは、目の前で大切な人が風邪を引いて熱があったり咳をしたり……そうした情景を我々はゆったりと受け止めることができた。それは、感染ったとしても命にかかわる危険はなかったからだ。でも、世界は一変してしまった。このような情緒は失われてしまったのだ。

 なんてことを思いながら久々に見た『Love Letter』。小樽の天狗山とか出てきて懐かしい。彼女の父親が若くして風邪をこじらせて死んだ、というエピソードがなにやら暗示めいていたけれど。

 中山美穂(藤井樹)がもうひとりの中山美穂(渡辺博子)にワープロで手紙を書いている。手書きでもなくPCでもなく、ワープロというのがいい。1995年。思えばあの頃が一番世界は適度にモダンになりつつもまだまだ適度に情緒にあふれていた時代だったのかもしれない。







 クロード・ルルーシュ監督の「男と女 人生最良の日々」を見た。というか、見てしまった。80年代にも一度、20年後を設定した続編が作られたことがあって、こちらは見た後で後悔した。ましてや今回は53年後の設定。ジャン・ルイは89歳、アヌーク・エーメも87歳。これは、見ない方が賢明であろうとずっと思っていたのであるが、いやいや、今回のは絶対に見るべき! と友人に薦められ、恐る恐る映画館に足を運んだのであるが……。





 良かったのである。クロード・ルルーシュは今回は無理に新たなストーリーを作ろうとはせずに、53年後のふたりのダイヤローグをウイットとユーモアを効かせて撮影し、それを原作のセピアカラーの映像と再構成させつつ、なんとも人生の滋養に満ちた作品に仕上げている。

 1966年の原作「男と女」。20代の頃、この映画を何度見たことだろう。フランスかぶれになった原因のひとつは間違いなくこの映画にある。台詞はほとんど暗記している。ドーヴィルに行きたくてたまらなくなって、会社に入って最初のフランス出張の際、日曜日に空き時間が出来るやいなやSNCFでパリからドーヴィルに向かった。ワンレングスの女性に弱くなった(?)のもこの映画の中でのアヌーク・エーメのせいである。

 そして、今回の第三弾となる「男と女 人生最良の日々」。ラストが素晴らしかった。1976年に撮影された短編映画「 C'était un rendez-vous 」の映像がリミックスされているのだ。早朝のパリを疾走する車のワンテイク主観映像。モータースポーツをこよなく愛したクロード・ルルーシュ監督自身のアドレッサンス(adolescence)が切なくて愛しくて、ちょいと涙が出てしまった。彼も御年80歳を過ぎている。そして、パリは、やはり掛け値なく美しい街なのだ。




 「マチネの終わりに」。映画、見てこようかな、どうしようかな。キャスティング、ちょっと照れちゃうしなあ。あの原作のイメージに合うかなあ、などと思いつつ、




 久しぶりに平野啓一郎さんの原作を読み返してみることにした。大人の恋愛小説、である。で、大人の恋愛ってなのなのかというと、……

 この世界は、自分で直接体験するよりも、いったん彼に経験され、彼の言葉を通じて齎された方が、一層精彩を放つように感じられた。

 という一文があったりする。ううむ。自分よりも相手のことが好きになれる、どころか、自分自身で認識する世界よりも相手を通じて認識する世界の方が素晴らしいと思えるようになる。これは深い。まさにこれこそ大人の恋愛である。でもそのためには、今の自分自身の心身の現状をきちんと認識し、それを徹底的にリセットするところから始めなくてはならない。

 年齢とともに人が恋愛から遠ざかってしまうのは、愛したいという情熱の枯渇より、愛されるために自分に何が欠けているのかという、十代の頃ならば誰もが知っているあの澄んだ自意識の煩悶を鈍化させてしまうからである。

 この一文などは、まことに耳が痛いのである。

*引用は、平野啓一郎『マチネの終わりに』(毎日新聞出版、2106年)より



 



今、論文でも太宰治のこと書いてるし。さっそく見てきたけど、ナカナカでした。
蜷川演出、耽美なり。三人の女のテーマ別カラー演出もわかりやすいし。

そしてなによりも、音楽が三宅純さんですからね。これは良いに決まってます。



続編、楽しみ。うちの犬も、前の犬の生まれ変わりだったりして。




 3月から劇場公開になっている「シンプル・フェイバー」(Simple Favor)を見に行った。この映画、どのようにカテゴライズすればいいのだろう? ファッショナブルなミステリー・コメディ? 

 ブレイク・ライブリーがとにかく妖艶で格好よかった。で、全編通じて挿入されている数々の60年代フレンチポップスの名曲。なるほど、監督のポール・フェイグは同世代の1962年生まれ、か。







 あのメリー・ポピンズが帰ってくるらしい。2月1日から劇場公開。

 生まれて初めて映画館で見たのがメリー・ポピンズだった。次がサウンド・オブ・ミュージック。だから、小学生の頃、映画と言えば必ずジュリー・アンドリュースが出演するものだとばかり思っていた。そのくらいメリー・ポピンズとサウンド・オブ・ミュージックは自分にとって特別な存在だったのだ。my favorite things のメロディと歌詞が今もってあれだけ特別なものに感じるのは、最初に聞いたのが六歳か七歳だったからだと思う。こうしたことは、やはり何事にも替えがたい。

 さて、メリー・ポピンズと言えば、supercalifragilisticexpialidocious、である。困ったときのおまじない、スーパーカリフラジリスティスエクスピアリドーシャス。あるいは、a spoonful of sugar helps the medicine go down、である。現実の人生を楽しく生きるための処世術。




 今までの人生の中で、自分は何度この、supercalifragilisticexpialidocious と a spoonful of sugar helps the medicine go down と、そして、「when the dog bites, when the bee stings, when I'm feeling sad. I simply remember my favorite things and then I don't feel so bad.」をこっそり口ずさんでいろんなことを凌いできたことだろう。

 メリー・ポピンズ・リターンズ。二代目はエミリー・ブラント。さて、どんな魔女っぷりを見せてくれるのか楽しみである。









 日本の映画監督の中で好きなのは、やはり行定勲監督。あのローキーで暗緑色がかった色味、光の滲む映像は病みつきになる。彼の手に掛かると、どんなロケ地でもまるで演劇の舞台のセットの如くメタファーに満ちた趣になる。三島由紀夫の「春の雪」、雫井脩介の「クローズド・ノート」、中谷まゆみの「今度は愛妻家」が特に印象に残っている。最近だと、去年の今頃映画化された島本理生の「ナラタージュ」の映像が美しかった。

 先日、久しぶりに原作の「ナラタージュ」を読み返してみた。もう十年以上前の作品である。葉山先生と工藤泉。ふたりの最後の合瀬の、あのあまりにも切ない性描写、みごとな筆致である。こんな文章を20歳そこそこで書けるなんて、やはり彼女は天才なのだろう。そして、この「ナラタージュ」、原作も映画も雨の描写が象徴的である。

 雨の午後は昼間と夕方の境界線が曖昧で、窓にはただ全体的に暗くなっていく一枚だけの景色が張り付いていた。

島本理生『ナラタージュ』(角川書店、2005年)


 ナラタージュ。ナレーションとモンタージュの造語。あるいは、過去を再現する手法。

 最近、ナラティブとかナレーション、そしてこのナラタージュといった言葉の響きがとても気になる。そこにこそ「物語」の一番大切なエッセンスが「滲んで」いるようで。


このページのトップヘ