naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: cinema



続編、楽しみ。うちの犬も、前の犬の生まれ変わりだったりして。




 3月から劇場公開になっている「シンプル・フェイバー」(Simple Favor)を見に行った。この映画、どのようにカテゴライズすればいいのだろう? ファッショナブルなミステリー・コメディ? 

 ブレイク・ライブリーがとにかく妖艶で格好よかった。で、全編通じて挿入されている数々の60年代フレンチポップスの名曲。なるほど、監督のポール・フェイグは同世代の1962年生まれ、か。







 あのメリー・ポピンズが帰ってくるらしい。2月1日から劇場公開。

 生まれて初めて映画館で見たのがメリー・ポピンズだった。次がサウンド・オブ・ミュージック。だから、小学生の頃、映画と言えば必ずジュリー・アンドリュースが出演するものだとばかり思っていた。そのくらいメリー・ポピンズとサウンド・オブ・ミュージックは自分にとって特別な存在だったのだ。my favorite things のメロディと歌詞が今もってあれだけ特別なものに感じるのは、最初に聞いたのが六歳か七歳だったからだと思う。こうしたことは、やはり何事にも替えがたい。

 さて、メリー・ポピンズと言えば、supercalifragilisticexpialidocious、である。困ったときのおまじない、スーパーカリフラジリスティスエクスピアリドーシャス。あるいは、a spoonful of sugar helps the medicine go down、である。現実の人生を楽しく生きるための処世術。




 今までの人生の中で、自分は何度この、supercalifragilisticexpialidocious と a spoonful of sugar helps the medicine go down と、そして、「when the dog bites, when the bee stings, when I'm feeling sad. I simply remember my favorite things and then I don't feel so bad.」をこっそり口ずさんでいろんなことを凌いできたことだろう。

 メリー・ポピンズ・リターンズ。二代目はエミリー・ブラント。さて、どんな魔女っぷりを見せてくれるのか楽しみである。









 日本の映画監督の中で好きなのは、やはり行定勲監督。あのローキーで暗緑色がかった色味、光の滲む映像は病みつきになる。彼の手に掛かると、どんなロケ地でもまるで演劇の舞台のセットの如くメタファーに満ちた趣になる。三島由紀夫の「春の雪」、雫井脩介の「クローズド・ノート」、中谷まゆみの「今度は愛妻家」が特に印象に残っている。最近だと、去年の今頃映画化された島本理生の「ナラタージュ」の映像が美しかった。

 先日、久しぶりに原作の「ナラタージュ」を読み返してみた。もう十年以上前の作品である。葉山先生と工藤泉。ふたりの最後の合瀬の、あのあまりにも切ない性描写、みごとな筆致である。こんな文章を20歳そこそこで書けるなんて、やはり彼女は天才なのだろう。そして、この「ナラタージュ」、原作も映画も雨の描写が象徴的である。

 雨の午後は昼間と夕方の境界線が曖昧で、窓にはただ全体的に暗くなっていく一枚だけの景色が張り付いていた。

島本理生『ナラタージュ』(角川書店、2005年)


 ナラタージュ。ナレーションとモンタージュの造語。あるいは、過去を再現する手法。

 最近、ナラティブとかナレーション、そしてこのナラタージュといった言葉の響きがとても気になる。そこにこそ「物語」の一番大切なエッセンスが「滲んで」いるようで。




 先日、仕事で地方都市に行ったときのこと。

 夕方には打合せも終わり、ラッキー、夜はフリータイムだ、帰りは翌日の朝、とりあえず宿も取ったしこれからどうしようかな、という時の楽しみのひとつに映画館でレイトショーというのがある。東京の六本木や日比谷のオシャレなシアターで映画鑑賞もいいけれど、こじんまりした街の、ちょっと古びた映画館の座席の隅っこにこっそりひとり異邦人として紛れ込み、地元の人たちの方言を小耳に挟みながらポプコーン片手にレイトショーを見るというのが私の密やかな愉しみのひとつなのである。

 このために、今話題の「カメラを止めるな!」を東京で見るのを今までガマンしていたのである。ネットでチェックすると、宿泊予定のホテルから徒歩十分のところの映画館で夜の9時から11時まで上映中。座席の予約をする。上映開始まで近くの店で腹ごしらえをしてからグーグルマップの導くまま映画館に向かう。

 ポプコーンとコーラのセットを買って前から三番目の一番端の席に座る。まわりは若いカップルばかりだ。彼ら彼女らは、この街特有の優しく柔らかいイントネーションで平日の夜の会話を愉しんでいる。

 さて、「カメラを止めるな!」、すでに見てきた人からネタバレギリギリでいろいろ内容を聞いてしまっているので(というか、みなさん、頼みもしないのにペラペラと話してくれるのだ)、ただのスプラッターものでは終わらないことはわかってはいたものの、この映画館のこじんまり&しみじみした感じと相まって、前段が終わった時点で、アハハ、ちょっと安っぽかったけどナカナカのホラー映画だったなあ、もう十分満足という気分になってくる。そのくらい、非日常の街の映画館で楽しむレイトショーには風情があるのだ。

 だからといって、もちろん途中で席を立つことはなく、このヌーベルバーグの再来のようなホラー&コメディ映画を二時間たっぷり堪能してから11時過ぎに映画館を出て、ゆっくりと夜空の月でも見上げながら近くの神社に行き、真夜中のお参りをすることにした。二礼、二拍、一礼。本日も、とても良き日をありがとうございましたっ、ということで。

真夜中

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ



 遅ればせながら、The Shape of Water、見てきた。エイリアンものは基本的には苦手なのだが、うわぁ〜、これはもう最高のラブロマンスである。ギレルモ・デル・トロ監督の映画はどうしてこんなにも映像が美しいのだろう。そして、音楽。思わずサントラ盤を購入してしまった。かの La Javanaise も入っている。現代のビリー・ホリディといわれるマデリン・ペルー(Madelene Peyroux)が唄う La Javanaise は本家のゲーンズブールやグレコに勝るとも劣らない、甘美で典雅で気怠いシャンソン&ワルツに仕上がっている。




 改めて1960年代にゲーンズブールが煙草をくゆらせながら唄った La Javanaise も見てみる。ダダイスト、ゲーンズブール。格好良すぎる。





 小学校4年生の時に少年合唱団で「美しき青きドナウ」を唄って以来(?)、クラシック音楽の中でも3/4拍子のWALTZには格別心引かれる。それは今も変わらない。イヴァノビッチの「ドナウ川のさざなみ」、ショパンの7番や9番の別れのワルツは言うに及ばず、ヨハン・シュトラウスもいいけれど、リヒャルト・シュトラウスの「薔薇の騎士」が大好きで、二十代の頃はラベルの「優雅で感傷的なワルツ」に心酔した。

 でも、今までに聴いたことのあるWALTZの中で一番好きなものは?と問われれば、ダニエル・シュミット監督の映画「ヘカテ」の中で使われていたカルロス・ダレッシオ作曲のWALTZと答える。

 映画「ヘカテ」。大学生の頃、主演のベルナール・ジロドーのマネして麻の純白のスーツやスペンサージャケットを買った。今までの人生に悔いがあるとすれば、一度も海外赴任しなかったことだろうか。この映画の主人公のようにモロッコあたりに駐在していれば、間違いなく身を持ち崩していただろうけれどw




 東八道路沿いの景色が好きである。特に国際基督教大学の裏門から野川公園を経て多磨霊園あたり。ヒップな自動車整備工場とか、食堂と大きく看板を掲げた店とか、まるで映画バグダッド・カフェの日本版でも見ているような気分になる。ブレンダは何処?

what's up

食堂




 さあて、今日も気分よく駆け抜けて行こう。奥田民生の「エンジン」でも聞きながら。



 映画「永い言い訳」、ロードショーが終了する前に遅まきながら見てきた。



 本木雅弘はまさにハマリ役。自分のことが一番好きな見目麗しくインテリな男。その男が妻を亡くしたことを契機に最後は、「人生は、他者だ」の心境に行き着く。

 あのひとが居るから、くじけるわけにはいかんのだ、と思える「あのひと」が、誰にとっても必要だ。生きて行くために、想うことの出来る存在が。つくづく思うよ。他者の無いところに人生なんて存在しないんだって。人生は、他者だ。

 なんと含蓄のある言葉だろう。片や、かのサルトルは、自意識を損なわせる他人の支配力・影響力のことを称して、「他人は地獄」なんて言っているけれど。(戯曲「出口なし)

 いずれにしても、人生は自分だけのもの、自己実現のためのものという考えの域を出ないことには人生の奥義はなにも始まらない。そのことは、ある程度の年齢や経験を積み重ねると否が応でもわかってくる。

(PS) 大宮陽一(演じるのは竹原ピストル)の長男、長女役ふたりの演技が絶妙!



 どんな仕事、どんな職業にも、人には絶頂期というものがある。残念ながらその時期を過ぎると、能力もセンスも下降線を辿っていく。出来得ることなら葛飾北斎のように80歳を過ぎてもバリバリの現役画家でいたいし、伊藤人誉のように「九十歳を過ぎてから却って小説が書けるようになりました」などと言ってみたいものだが、そうした特殊な天才を別にすると、たいがいは40歳を過ぎてしばらくしたあたりでピークを迎える。スポーツ選手などはそのピークが10年近く早い場合もある。で、我々はそうした年齢を過ぎた後、これからの自分の人生をどうエディトリアルしていくのかに苦悩するわけである。会社員であれば、マネジメントに転向する、あるいは同じ仕事をしながらも後輩の育成にシフトしていく、というのがお決まりのパターンであろうか。あるいは、今までの資産を生かしつつもまったく異なる職業に転向する場合もあるだろう。所謂第二の人生というわけである。人生の後半を面白くするのは、このシフトチェンジをいかに自分が納得いくレベルで行えるかにかかっているような気がする。自分の1stステージにおける資産が枯れ切ってからでは遅い。いつまでも今までの自分にしがみついていては、たぶん、あまり良い結果は得られない。

 2015年に公開されたアメリカ映画で「Re・ライフ」(原題、Rewright)というのがある。主演ヒュー・グラント。かつてのハリウッドのスター脚本家が歳を取ってから売れなくなって、第二の人生を教職に見いだす話である。



 ヒュー・グラントはこの手の役回りを演じさせると本当にいい味を出す。2007年の「ラブソングができるまで」も同じような役回り。(ま、監督と脚本が同じマーク・ローレンスだし)こちらは、かつての花形ロックンローラーがもう一度ヒット作を創り出すお話。



 「Re・ライフ」をもう一度見直してみた。つくづく人生の滋味に溢れた映画である。第二の人生はあくまで第二の人生。決して絶頂期が甦るわけではない。でも、歳を取ったからこそ新たに出来ること・感じられることは、この世の中にはまだまだたくさんある、と思うのだ。

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