naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: life



 個人で仕事をする際の屋号は「もの・かたり。」にしている。英語で mono-cataly と表記しているのはカタリスト(catalyst) を意識してのことであるが、表現に携わる仕事をしている者にとって、「物語=ストーリーテリングとはなにか」というのは永遠のテーマである。

 先日、小川洋子さんとクラフト・エヴィング商會の『注文の多い注文書』を読んでいたら、あとがきに相当する『物と時間と物語』の中で以下のような文面を見つけた。まさにまさに。これ、ずっと思っていたことである。


H:そういえば、どうして物語の「もの」って「物」なんだろう。人間の「者」じゃなくて。
O:たしかに、人が語るものなのに不思議です。
A:きっと、「物」の方が物語を知っているんですね。
H:どうして、人も「もの=者」っていうのかな?
A:そういえば、物には魂がある、と昔の日本人は気づいてました。いまはみんな忘れちゃったみたいですけど、昔はそれが当たり前でした。
小川洋子 / クラフト・エヴィング商會『注文の多い注文書』(ちくま文庫、2019年)p.208

*Oは小川洋子さん、Hは吉田浩美さん、Aは吉田篤弘さん




 四年前、あのままサラリーマンを続けていたら今頃どうだったんだろうと、最近ふと思うことがある。定年まであと二年。でも、再雇用を希望すればプラス五年。六十歳からの収入は激減するだろうが、年金の受給額を勘案すればその方がかえって節税対策になったりもする。大企業の福利厚生はつくづくよくできているのだ。だから、あのままサラリーマン生活をまっとうしておけば、それはそれで安定した老後を送ることもできただろう。
 今後、公務員も民間のサラリーマンも定年が延長されたり、あるいは定年そのものがなくなるケースも増えてくるだろう。でも、どんなに人生100年時代になろうとも、企業の現場で活躍できる年齢のピークは厳然としてあって、それが創造的な職務であればなおさら、後進に道を譲らなくてはならない時期は早い段階で迫ってくる。

 自分の場合は、いつまでも現場のディレクターをやり続けたかったタチで、五十の半ば近くになってもそれなりに自分の能力に関しては自信を持っていたように思われる。誰よりもアイデアは出せるし、さまざまな見識はあるし、結果誰よりもセンスの良いディレクションができる。まだまだ「若いもんには負けん!」というやつである。でも、仮に能力的にはそうだったとしても、きっともう若い頃のようには、仕事仲間に対してチャーミングに微笑むことはできなかっただろうし、楽しげな会話を創り出し得なくなっていたのではないか。今思うとそんな気がする。「若いもんには負けん!」と思っているオッサンは一度、自分が仕事仲間とミーティングをしている風景を客観的に観察するべきだと思う。ほんとうにあなたは周りに対してネガティブな雰囲気を醸し出していないか? 

 さて。サラリーマンを辞めてひとりで仕事をしつつ、大学で教育と研究にも携わらせていただくようになった今は、ようやくこんな心境になれている気がする。前にいた会社の後輩たちがどんどん活躍して欲しいと思うし、仕事でごいっしょする仲間たちにはどんどん追い抜いて欲しいと。少しは成長したのかな?

 ちょっと前まではな、若いやつにはって気持ちがあったけど、最近はなんだか踏みつけられて乗り越えられることが快感になってきた。こいつはすごいな、俺より大物になるなって感じると嬉しくなってくる。むしろそういう奴がいないと、なんだまったくって思っちまう。
小路幸也『東京公園』(平成18年、新潮社)



 最近、例の2000万円問題に影響されたわけでもないだろうが、柄にもなく老後の人生設計をシミュレーションしたりしている。えっと、65歳から30年生きるとして、……なんて考えること自体、人生100年時代とやらにまともに感化されている。オレ、真剣に長生きしよう、なんて考えてるのかも。らしくない。

 いったい自分は、これから先、何歳ぐらいまでの自分を許せるのだろう? 容姿的なこと、身体的なこと、人間関係的なこと、そしてなによりも思考的なこと、思索的なこと。

 いきなり10年後、20年後になって慌てふためくことのないように、毎年毎年一年ずつ、老いていく自分にケリを付け続けていかなくてはと思う。

 カモメはいいなあ。とても自由そうだ。

カモメ

Summilux 35mm f1.4 2nd + M10-P



 早いもので、今年は亡父の23回忌、亡母の7回忌にあたる。久しぶりに実家で法要を行った。ふるさとの街は昔とすっかり変わってしまったようで、その実、近くの路地には小さかった頃に嗅いた匂いがまだそのまま残っていたりして、いつもながらに困惑する。そして、身の丈の現実を思い知らされる。
 いつまでも若いつもりでいろんなことにチャレンジし続けているけれど、その実自分はすでにもう50代も後半、あと2年もすれば還暦を迎えるわけで、人生100年時代なんて言っているけれど、仮にそれが現実になったとしても折り返し地点はとうに過ぎている。今の60代は元気だし70歳過ぎても働きたい。自分もそのつもりで頑張っているものの、仮に寿命が飛躍的に伸びたとしても、成人病になる確率が大幅に減少したという話はあまり聞かない。健康でなければ、なにが定年延長なにが生涯現役、100年人生であろうか。
 両親の位牌の前でそんなことをアレコレ考えながら、ふたりは自分の老いに対してどのように感じ、どのように対処しようとしていたのか、そのヒントを教えてもらいたくて耳を澄ませていたのだけれど、写真のふたりは昔のまま(プリントされた写真は少し色褪せてきているが)微笑んでいるだけだった。

 東京に戻りまた日常生活が始まった。隣には今年7歳を過ぎた犬がいる。人間で言えば50代。頭のあたりの毛に白髪も交じり始めている。彼女にとっては人間が1日過ごしている間に7日間も過ぎてしまう計算になる。1日が1週間。毎日が我々の7倍楽しくなければ彼女の人生は割が合わない。そんなこんなを思うと、なにやらせつないばかりの梅雨の一日である。

neu

GR 18.3mm f2.8 of GRⅢ



 今日は亡父の誕生日である。大正14年生まれの戦中派。令和元年の今年に生きていたら94歳である。義父がちょうど同い年で健在なのだが、この実父と義父、あまりに性格とライフスタイルが違っている。実父の方は運動万能、出歩くことが大好き。情に熱くて、短気で喧嘩っ早い一面も。

 そのせいか、若い頃に会社の上司と喧嘩して、それ以来フリーランス。71歳で亡くなるまでずっとひとりで仕事をしていた。彼がちょうど今の私の年齢と同じ頃、ようやく私も社会人として独立したのでそれ以降はスネをかじることもなくなったが、58歳から亡くなる71歳までの間も、たったひとりで仕事をし母親を養い続けた。年を取ってからもファッション関係の仕事をずっとひとりで続けるというのがどんなに大変だったことか。仕事の相手はみんな若い人ばかり。センスの古さを馬鹿にされて、屈辱的な思いをすることもあったろう。いや、そうでもないか。彼はよく仕事の接待にゴルフを利用していたが、企業の若い担当者をゴルフ場で遊ばせておきながら、ちゃっかり自分でベスグロ賞とか獲得していたし、若い人の中ではゴルフを教えてくれる大先輩として人気者だったのかもしれぬ。

 私は彼が36歳の時の子どもであり、彼が亡くなった1997年、私は同じく36歳になっていた。なにやら因縁深いことである。まあ、いずれにしても、少しばかり人生を生き急いだことは否めない父親。寿命の面でも短気すぎたのかもしれない。

 そんな彼が生まれた5月19日。昔も今も、町は新緑の、そして花々の香しい匂いで満ちている。今が盛りのジャスミンの花の香を楽しみながら、しばし亡父のことを想い出す。

jasmine

GR 18.3mm f2.8 of GRⅢ


 



 ミレニアムを迎える年に、自分は四十歳になった。若い頃、自分が四十歳になるなんてゼッタイにあり得ないと思っていた。そのくらい、四十歳というのは若さからはほど遠い年齢だった。だから、ノストラダムスの大予言はきっと当たるんじゃないかと思っていた。

 それから十年後、震災の年に自分は五十歳になった。で、あと二年もすれば六十歳になる。若い頃にはあり得ないと思っていたことが、情け容赦なくどんどん加速し更新されていく。

 人生100年時代。このまま六十を超え七十を超え、八十歳、九十歳になるのかもしれぬ。その時、自分はなにを思っているのだろう。八十歳の時の自分の生きがいとはなんだろう。その時、自分の頭の中にはなにが残されているのだろう。それまで自分が想ったことの断片がなんの脈絡もなく重なり合っているのだろうか。自分は、それまでの自分の感受性を誇りに思っているのだろうか。

 自分のことが一番好きなヤツのことをナルシストと呼ぶ。ナルシストは自分のことを格好いいと思っている。でも、その程度のことならたわいもないことである。一番タチが悪いのは、自分の感受性こそがイチバンだと思っているヤツのことである。

ナルシスト

Summilux 50mm f1.4 ASPH. + M10-P





 ボズ・スキャッグスが来日していたようである。御年74歳。

 ボズ・スキャッグス。AORの帝王。アルバム「ミドルマン」のジャケットはホントにカッコ良かった。当時の二十歳前後の男どもはみんな、このアルバムの曲をダビングしたカセットテープをセットして女の子をドライブに誘った。東京に実家のある友人は親に買ってもらった赤いスポーツカーで、地方出身の友人はバイトで貯めたお金で買った白い国産車で。いずれにしても、クルマがないとお話にならない。クルマを持ってないと(ゴージャスな)女の子にはモテない。で、海や山のリゾート地に行き、夜はディスコで踊るのだ。そして、チークタイムになれば必ずこの曲がかかる。



 あの時、チークダンスを踊ったカップルたち。そのほとんどはのちに別れ別れになり、そのうちの幾組かだけは奇跡的にゴールインした。

 いずれにしても。我々世代のアドレッサンスは、80年代、ボズ・スキャッグスの甘くて都会的な歌声とともに始まった。あれから30年余。いろんなことが積み重なって、我々はもうすぐ60歳を迎えようとしている。さすれば、我々の憧れだった兄貴分もおのずと74歳にもなるというものだ。

 ちなみに、私がこのアルバムの中で一番好きだった曲はこれ。



 I am falling, back into your spell, back into a cell of no return. No way to rescue me.



 ゴールデンウィークはどうやらずっと雨模様らしい。

rain


 雨に閉ぢ込められたまま、ジャック・フィニィの小説を読み進む。自己催眠で過去にタイムトラベリングする話だ。ジャック・フィニィは広告のコピーライターでもあったひと。彼が書く1940〜50年代のニューヨークの描写が好きである。

 いつものとおりの日だった。金曜日で、昼休みまであと二十分、勤務が終わる時間まで、そして週末まであと五時間、休暇まで十か月、定年まで三十七年ある。
ジャック・フィニィ/ 福島正実訳 『ふりだしに戻る(上巻)』(角川文庫)p.7


 こんな気分で戦後のNYの広告代理店に勤められるのなら、もう一度広告会社のサラリーマンをやってみるのも悪くないな、などと思ってみたりする。

 そして、同時に、G・ガルシア・マルケスを数年ぶりに読み直してみる。町中のひと全員が不眠症に陥る話が出てくる。

 この不眠症のもっとも恐ろしい点は眠れないということではない(体はまったく疲労を感じないのだから)、恐ろしいのは、物忘れという、より危険な状態へと容赦なく進行していくことだった。つまり、病人が不眠状態に慣れるにつれてその脳裏から、まず幼年時代の思い出が、つぎに物の名称と観念が、そして最後にまわりの人間の身元や自己の意識さえ消えて、過去を喪失した一種の痴呆状態に落ちいるというのだ。
G・ガルシア・マルケス / 鼓直訳 『百年の孤独』(新潮社)p.50

 眠れるどころか、一日じゅう目を覚ましたまま夢を見つづけた。そのような幻覚にみちた覚醒状態のなかで、みんなは自分自身の夢にあらわれる幻を見ていただけではない。ある者は、他人の夢にあらわれる幻まで見ていた。
同上 p.51

 過去を詳細に想い出す話と過去をすべて忘れ去ってしまう話。これらを交互に読み進めていくというのも悪くない、かも。



 またひとつ歳を重ねてしまいました。

 早いもので、大学の教員生活も4月から3年目を迎えることになります。で、本日3月23日は大学の卒業式でありまして……昨年に引き続き今年も、たくさんの若い人たちに「おめでとう」を連発しつつ、「ところで、実は、今日はワタクシの誕生日でもあるのですが……」と逆「おめでとう」を軽ーく強要し、お互いにお祝いを言い合える一日となりました。花冷えでしたが、大学周辺の桜も確実に咲き始めておりましたっ。

graduation

sakura


 大学の教員としての仕事と、個人としてご依頼いただいている仕事との両立に四苦八苦してきた2年間でしたが、ここに来て、ようやく自分なりのスタイルが作れてきたかもと思ってます。でも、それは逆に言えば、「慣れ」が生じ始めているということでもあります。ので、この4月からは、また次の新しいことにチャレンジしていけたらと思っています。

 自分の中にはたくさんの自分たちがウヨウヨいます。それらの発する声により一層耳を傾けて生きていければと。

 さて、ここ10年近く個人のブログはずっと書き続けているのですが、それ以外にも、この4月からはNOTEを始めることにしました。まだ、プロフィールテキストしかアップしてませんがw 今後は、こちらの方もたまには見てやってください。

 では、みなさんのますますのご活躍と well being を祈念しつつ。そして、一年に一度しかないこの桜の季節をじっくりと楽しんでくださいね。ではまた。



 今朝NHKのニュースを見ていたら、愛知県のモーニングセットの話が紹介されていた。名古屋に行くと食生活の面でいろいろなカルチャーショックを受けるが(なぜにカツに味噌を? なぜにきしめんに味噌を?)そのひとつにモーニングセットのゴージャスさがある。コーヒーを注文しただけなのに卵もトーストもサラダも付いてくる。お豆やクッキーだって付いてくる。で、500円もしない。東京でこれらを注文したら軽く1000円は超えてしまうだろう。

 で、NHKニュースによるとこのモーニングセット、発祥は一宮市なんだそうである。繊維業が盛んだった一宮市は織物工場の騒音が始まる前の朝の時間、アパレルの関係者が喫茶店でさまざまな商談を行った。その際に店側がピーナッツやゆで卵を提供したのがその始まり、的なことがウィキペディアにも書いてあった。

 ああ、それで、とようやく合点がいった。小さい頃よく車で父親に喫茶店に連れて行かれ、そこで食事代わりのモーニングセットを食べた記憶があるのだが、なるほど、父親はまさにモーニングセット興隆の当事者だったわけだ。というのも、父親の職業は毛織物の卸業。毎日車で一宮や岐阜の街に出かけていっては仲買の商売をしていたのである。

 職業柄いつもダンディにしていた(というか、着倒れ人生?)あなたと、つもりに積もった話をするために、久しぶりに一宮市に行ってゴージャスなモーニングセットを食べたくなりました。今ならどこの店に行けばいいのでしょうか、ね?

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