naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: life



 今度は、超大型の台風である。

 2020年の夏はなんともひどい夏であった。コロナ禍はもとより、執拗な長雨が続いて8月にならないと梅雨が明けなかったり、かと思うと、その後は一転猛暑、40度超えのところまで出てきたり、で、9月になったらなったで、すぐにこの台風である。

 かつての夏は、もっと心地よい季節だった。真夏でも厭な汗をかくことはなく、ドライ効果をうたう化繊など着なくとも、潮風をなびかせた綿100%のTシャツだけで快適だった。海が好きな女の子たちはきれいに日焼けして、踝のところまでロールアップしたジーンズで夏を謳歌していたし、その背景にはいつもボサノヴァの名曲が流れていた。




 地球は、この世界は、元に戻るのだろうか?
 
 
*沖縄、九州エリア等に甚大な台風被害が出ないことを切に祈っています。



 さて、父のクルマ遍歴についてである。私が物心ついた1965年ぐらいにはすでに我が家には自家用車があった。手元に残っている古い写真をから推察するにダットサン・ブルーバードの初代型だと思われる。それが、小学生にあがる頃にはフォルクスワーゲンのカブトムシに変わった。昭和四十年代半ばの地方都市で、クルマを、しかも外車を走らせている家庭なんてまだほとんどなかった。ドライブの途中、国道の真ん中でのんびり停車していても誰からも文句を言われなかった時代である。VWのカブトムシはその後、同じフォルクスワーゲンのタイプ3、昭和五十年代になるとベーン・ベー(当時はBMWのことをドイツ語発音でこう呼んでいた)の2002へと変遷していった。ずっとドイツ車で通していた。実は、途中で二度ほど国産車に浮気した時期があったが、クラウンはほんの半年、ブルーバードのSSS(スーパースポーツセダン)に至ってはなんと二週間で売り払っていたと記憶している。
 国産車はやはり足回りやハンドリングが緩くて「フィーリングが合わなかった」らしい。カブトムシだけでもバージョンアップする度に三度ほど乗り換えていたし、完全なクルマ道楽である。でも、助手席に乗せてもらう度、父の運転裁きには惚れ惚れしたものだ。とにかくメリハリが効いているのである。スピードを出すときは出す、停まるときはきっちり停まる。マニュアル車で山道のカーブを曲がるときのヒール&トゥの足裁きには色気すら感じた。とにかく運動神経が良いのである。でも、そんな運転上手の父親が事故を起こしたことが一度だけある。追突事故。といってもノロノロ運転中の前方不注意なので相手もむち打ち等にはならず、たいしたことには至らなかったのだが、きれいな空色のVWタイプ3のフロント部分がグチャリとへこんだ。原因は車中での中学生の私との口論だ。口論のきっかけは母のことだったと記憶している。
 父のクルマ好きメカ好き、運動神経の良さは戦時中に鍛えられたものであろう。父は陸軍の少年飛行兵だったらしい。操縦士として偵察機に乗りつつ、整備技術兵としてメンテナンスも担当した。父が配属されたのは各務原の飛行場。昭和二十年の六月、飛行場は大空襲を受けて同期の飛行兵や整備兵たちがたくさん亡くなってしまったという。
 そして、終戦。父の戦時中のことはどこまでが真実でどこまでがそうでないのか、生まれてもいない息子にはわかるはずもないが、あの戦争で九死に一生を得た父は、なにを思ったのだろう。戦友たちが死んで自分が生き残ったことを恥じていたのか。あるいは、さあ、幸せな人生をつかむのはこれからだ、今まで出来なかった贅沢をしてやるのだと強く念じたのだろうか。いずれにしても、父は戦後、ハングリーに生きた。そんな父のことが、私は好きである。カルヴィン・トムキンズではないけれど『優雅な生活が最高の復讐である』と私も思うから。
 そんな父は、七十一歳の時に潰瘍性大腸炎をこじらせ、その後、肝臓の状態が悪化して死んだ。肝硬変、そして肝がん。スキーの大けがのときに輸血が原因でC型肝炎になっていたことが寿命を縮めた。黄疸で体を真っ黄色にして、腹水をいっぱい貯めながら父は死んでいった。死ぬ前に、父はみんなに謝りたいと言った。「どうして?」と聞くと「ちょうすいていたから」と。「ちょうすく」というのは岐阜や名古屋の方言で、「偉ぶっている、生意気なことを言う」といった意味だろう。切った張ったの商売だから、人を出し抜いたりだましたりしなくてはならないこともあったかもしれない。毎週ゴルフをやり、外車を乗り回し、一見優雅に見えるかもしれない自分の人生のことを、仕事仲間に対して申し訳なく思っていたのかもしれない。そして、そのあとぽつりと、あと十年くらいは生きてみたいと言っていた。まだ、乗りたい車がいっぱいあったのかもしれない。メルセデスだってポルシェだって。
 亡くなった翌日、市役所に死亡届を出しに行った。その後、父の戸籍謄本を見てなんとも暗鬱たる気分になったことを覚えている。いつ生まれ、誰といつ結婚し、いつ子どもが生まれ、そしていつ死んだか。ひとの人生なんてたったそれだけの事項でまとめられてオシマイなのだ。父の墓は揖斐川町にある。本家の方にお願いして敷地の一部に建てさせていただいたのだ。死ぬ直前に父がそう希望したからだ。生まれた揖斐川町の小島の山を見ていたいと。かなたには伊吹山も、時には見えたりするのだろうか。



 コロナ禍や猛暑のこともあり、今年は父親の墓に行くことができなかった。お盆も既に過ぎてしまっているし、離れた場所からではあるが、ひととき、亡父を偲びたいと思う。

 私の父は、大垣市の北にある山間部の揖斐郡揖斐川町に生まれた。揖斐川町から北東に向かえば谷汲山華厳寺があり、そこからさらに北に向かえば薄墨桜の根尾谷がある。そして、南西には、かの伊吹山が聳えている。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を退散させた「荒ぶる神」の鎮座する伊吹山である。真冬になると東海道新幹線が米原周辺で徐行運転をすることが多いが、あれは、伊吹山から吹き下ろす雪のせいである。その伊吹山からさらに北に福井の県境を越えて行けば、泉鏡花の小説で有名な夜叉が池もある。などなど、岐阜県の北西部というのはなかなかにミステリアスなエリアである。
 その揖斐郡揖斐川町の小島という村に、父は生まれた。母親が四十過ぎてからの子だと聞いた。手元にある一番古い写真(おそらく1950年代のものだろう。もちろん私はまだ生まれていない)を見ると、髪はリーゼント、ボックス型スーツを着て靴は白のエナメルである(モノクロの写真しか残ってないが、のちに本人がそう言っていたから間違いないだろう)。このスタイルで終戦直後のダンスホールに通っていたらしい。洒落者で、それが高じて衣服を扱う会社に入社した。ところが、すぐに上司と大げんかをして退社。普段は穏やかな物言いをする人だったが、喧嘩っ早いのだ。以来ずっと、七十一歳で亡くなるその日までフリーランスを通した。半世紀もの間、ひとりでどんな仕事をしてきたのかいうと、衣料用の生地や反物の仲買である。工場と販売会社との間に入って手数料を稼ぐのだ。それが「毛織物卸業」である。けれど、ファッションの流行にはリスクが伴う。先に買い付けておいた反物がまったく売れない時もある。手形が落ちない。不当たりが出る。かなり浮き沈みのある商売だったように思う。景気がいい時は家族みんなで郊外のフランス料理店へ。クルマもすぐに新車に乗り換える。けれど、大きな不当たりを出してしまうと大変なことになる。一度、その筋の人が家に数人やって来て、家の中にある家財道具全てにラベルを貼っていったこともある。いわゆる差し押さえである。「子供にだけは手を出すな!」と叫んでいた父の声を今でもよく覚えている。
 でも、商売が順調なときは、なかなかに優雅な生活なのである。サラリーマンではないので定時に出社する必要もない。ゆっくり起きてから自宅の車庫から車を出す。向かう先は愛知県の一宮市が多かった。一宮市は紡績の街で当時は至る所に繊維工場があった。一宮に着くと、まずは馴染みの喫茶店に入る。そこでモーニングセットを頼むのだ。名古屋エリアで有名なこのサービス(午前中に珈琲を頼むとトーストやゆで卵、サラダ等がもれなく付いてくる!)の発祥地は一宮市である。工場の騒音が始まる前の朝の時間帯に喫茶店で打ち合わせをするというのがモーニングセットの始まりだったらしい。父もここで午前中に繊維工場の担当者たちと商談をし、まとまれば、午後、サンプルの反物を車に積んで名古屋や岐阜の販売会社に向かった。で、夕方に自宅に戻ってくる。これが一日の行動パターンだが、毎日毎日真面目に仕事をしていたわけではないようだ。朝、車で出かけるところまでは同じだが、得意先のどこにも立ち寄らずにずっとお気に入りの珈琲店で時間を潰している日もあるし、販売会社の担当者を誘って接待ランチをしたり(事務の女の子を誘って単なるプライベートランチという日もある)、空いている時間に名所旧跡を訪れたり。で、日曜日はゴルフである。ほぼ毎週。ゴルフ会員権も全盛期には三つぐらい所有していたように記憶している。でも実は、ゴルフも仕事のうちなのである。販売会社の担当者をコースに連れて行って、お金は全額父が払うのだ。
 夜、自宅に戻ってからは帳簿付けである。ワープロもパソコンもない時代、すべては手書きである。一円でも金額が合わないと深夜を過ぎても書斎から出てこなかった。私は父から、将来お前はどうしろ、何になれ、と強要されたことはなかったが、一度だけ、あれはたぶん高校に入って間もない頃だったと記憶しているが、「お前にはやっぱり将来定職についてもらいたい。毎月決まった日にお金が入ってくるというのはどんなに安心できることか」とつぶやいていたことを覚えている。半世紀もの間、たったひとりで商売をし続けるのはどんなに大変だったろう。しかもファッションの仕事である。五十過ぎたら自分のセンスにも自信がなくなってくる。付き合う得意先の相手はみんな若者。彼らから嫌われることなくお金を引き出すために、父は毎週彼らをゴルフで接待していたのだ。当時はまだ、サラリーマンが自腹でゴルフコースに出るにはずいぶんとお金がかかる時代だったから。
 父はゴルフのハンディを生涯10で通した。でも実際はハンディ5ぐらいの腕前だったのではないだろうか。何度かスコアブックを見せてもらったことがあるが、常に80前後。書斎にはいろんな大会で優勝したときのトロフィーがいっぱい飾ってあった。実際はシングルの腕前なのに(ハンディ10未満をシングルという)、お得意先の相手を気遣ってハンディを10にしていたのだろうと推察される。何度か練習場やコースに連れて行ってもらったこともあるが、フォームはとても柔らかいのに、インパクトの瞬間は決してブレることなく、ドライバーがよく飛んだ。ゴルフを始めたのは四十五を過ぎてからで、その前はスキー。競技スキーヤー並の玄人はだしだったと聞く。しかし、四十歳の時に大けがをしてスキーをやめた。父は伊吹山のスキー場で後ろから初心者のスキーヤーに激突され、そのストックが顎に刺さって重傷を負った。病院に運ばれて緊急手術。大量に輸血をされたらしい。実は、その時の輸血が原因でウイルス性の肝炎になってしまったようだ。とにかく父は運動神経が良かった。それはゴルフのフォームひとつとってもよくわかったし、いっしょに登山をしたときの身のこなし、あるいは、クルマを運転するときの一挙手一投足にも現れていた。

(続く)

 


 岡康道さんの訃報を聞いてから半月が経った。すぐには反応することができなかった。なんでハンサムな人ほど早く死んでしまうんだろう。ルックスはもちろんのこと、生き方そのものがハンサムな人だった。とにかく格好良かった。いつもスーツ姿で、しかもゴルフがうまいクリエーターなんて、それだけでもアバンギャルドだった。
 直接お仕事をご一緒させていただいたことはなかったけれど、4年先輩の憧れのクリエーター。自分もプロパーのクリエイティブ職ではなかったので、勝手に目標にしていた。なので、初めて同じクライアントさんの仕事をやらせていただくことになった時にはメチャクチャ緊張したことを今でもよく覚えている。彼の仕事で好きだったのはセガ・エンタープライゼスの『湯川専務』やトライグループの『父の夢』等いろいろあるが、やっぱり、独立前の名作、東日本旅客鉄道の『その先の日本へ』が強烈に印象に残っている。
 「その先の日本へ。」コピーはかの秋山晶さんである。広告を見て笑うことは多々あれど、泣くことはあまりない。でも、この広告には「泣いた」。地方出身者(岡さんは佐賀出身、自分は岐阜出身であるが)の故郷に対する感覚に身につまされる思いがしたからだ。のちに岡さんは自伝小説『夏の果て』の中で以下のように書いている。

東北は故郷だ。初めて訪れても懐かしい場所。しかも、そのメランコリーには一種の「罪悪感」が含まれているように感じた。捨てた故郷へ。一年に数日しか会わない親へ。普段忘れている日本という国へ。東京で暮らす我々によって、テレビコマーシャルでは今まで訴求されなかったであろう「後ろめたさ」が表現できれば、多くの人に共感してもらえるのではないだろうか。

岡康道『夏の果て』(小学館、2013年)
 
 当時、このCMを見て「泣いた」理由はおそらくこの「後ろめたさ」にあったのだろうと思う。自分も、お盆か正月か、それこそ一年に一〜二度しか帰らなかった生まれ故郷。別れ際に「またね」と言いながら実家を出て駅に向かう間、ずっと見送ってくれていた亡母の姿を今でも思い出す。本人はさっさと東京に帰りたくて仕方がないのだ。それを名残惜しそうなフリしてごまかしていた。でも、そんな息子の姑息な演技はみんな母親には見透かされていたのかもしれない。そして、そうしたこともまるごと分かった上で、自分は「後ろめたさ」を抱えながら駅に向かって歩いていたのだ。

 音楽も素晴らしい選曲だった。井上陽水さんの『枕詞』『結詞』。普段の陽水さんの曲は色っぽくでモダンなダダイズムがいっぱいだが、この曲の歌詞は極めてストレートで古風である。集合写真風のグラフィカルな映像、素朴なナレーションと相まって、当時、おそらく自分だけでなく、多くの故郷を捨てた人たちがこのCMを見て、泣いたのだ。






 東京も30度を超えた。いよいよ夏到来である。(その前に長い梅雨があるのだが)

 若い頃、夏が好きだった。といっても根っからのヒネくれ者ゆえ、みんなで海に行って泳いだりサーフィンしたり、というわけではなく。ひとりで部屋のベランダでアーウィン・ショーの『夏服を着た女たち』を読んだり、大貫妙子さんの『夏に恋する女たち』を聞きながら海岸線をドライブしたり。

 夏。女の人たちはみんな素敵だった。ワンピースから伸びた脚はすらりとして。少し短めに揃えたワンレングスの髪が潮風に揺らいで。眩しそうに世界を眺める瞳は憂いを含んで。

 あれから35年。時間は現実を押しつける。でも、記憶はどこまでも自由だ。時間に縛られることはない。

 あの曲は『SIGNIFIE』に入っていたっけ? 『CAHIER』だっけ? 『CAHIER』の方はインストゥルメンタルバージョンじゃなかったか。『CAHIER』、洒落たアルバムだったな。フランス語の歌詞の曲や、ワルツ曲。

 ということで、apple musicで検索。すぐに見つかった。ダウンロード完了。

 *サブスクの音楽配信、今ではほとんどの曲が聴けます。『夏に恋する女たち』。もちろんオリジナルもいいけれど、原田知世さんのカバーもいいですね。



 今年、長男は今年院生2年目で、現在就活中。留学等で一年ダブっているから学部卒業生に比べたら3年遅れとなるが、いよいよ来年の四月から就職である。コロナ禍での就活はほとんどがオンライン面接のようだ。来年の春に世の中がどういう状況になっているか現段階ではさっぱり予測がつかないが、まだまだかつての日常は戻っていないだろう。そんな中で彼は新社会人一年目を迎えることになる。(就職浪人にはならないと思うのだが……。)

 そこで、ハタと気がついた。自分は今年59歳。もしもあのまま会社に残っていたら来年の春に満60歳になる。すなわち定年を迎えるのだ。今は60歳になってもほとんどの人が再雇用を願い出ているようだが、いずれにしても広告会社に所属するクリエイターとしての人生は来年の3月に終了。そのタイミングで、親が定年を迎えたその年に子が新社会人一年目を迎えることになる。世代交代というよりも世代が循環している、シームレスに。なんとも人生には不思議な巡り合わせがあるものだなあとつくづく思う。


lion




 新型コロナウイルスの感染拡大は容易には終息しそうもなく、我々はこの状況を1年〜2年スパンで考えないといけないようだ。afterコロナではなくwith コロナという意識が我々の中で出来つつある。自分もそう思う。高温多湿の夏場にいったん小康状態にはなるものの、また秋から冬にかけて、そして来年の春先と、この戦いはかなり長く続くと覚悟しなければならない。その間に画期的な治療薬やワクチンが開発されない限り、ロシアンルーレットみたいに毎日誰かが亡くなってしまう。それは自分かもしれないし自分の大切な家族・友人かもしれない。なんとも暗鬱な、そして常にヒリヒリとした緊張感の中で我々はこれからの人生を生きていくことになる。だからといって、厭世的になってばかりもいられない。私の場合、まずは大学教員として、いかに学生のみなさんが納得し満足してくれるオンライン授業を構築できるか、試行錯誤を重ねつつもなるべく短期間の間に自分なりのベストの手法を提示しなくてはならない。ひとりのクリエイティブ・ディレクターとして、ひととひととが直接会えない時代の「コミュニケーション」をどう考えるのか、それをどのように表現していけるのかを考え抜かなくてはならない。今こそこの困難な状況に向かって建設的にチャレンジしていくべき時だ。

 けれども、同時にこんなことも思う。自分たちの世代はつくづく恵まれていた世代だったのだと。1980〜90年代に20〜30代を過ごすことができた自分たち。もちろんその間に世界ではイデオロギーが終焉を迎え、日本ではバブルの狂乱とその崩壊、2000年代後半からは長く続く不景気に見舞われたが、とりあえず、日本全国津々浦々何処にでも行けたし、憧れと冒険心を持って世界中のほとんどの場所を訪れることができた。そうしたさまざまな場所でさまざまな経験をし、さまざまな人からダイレクトにかつリアルに受けた刺激が現在の自分の思索の糧になっている。それが2000年を過ぎて、2001年の9.11、2011年には3.11、そして今年の新型コロナウイルスと、10年に一度のスパンでそれまでの思考をリセットさせられるほどの強烈な体験を我々は強いられている。1980年代生まれ以降の若い人たちは、20代〜30代のアドレッセンスを、この世界を、心から素晴らしいと思えたことがあったのだろうか。自分たちの世代に「世界は素晴らしい」と心から思えた瞬間が何度かあったように。……そんなことを思っていたら、夢二じゃないけれど「早く昔になればいい」、彼ら彼女らにも「あの昔」を味わせてあげたらなあ、なんておせっかいな(大きなお世話な)ことまで考える始末で、これはなんとも建設的ではないなあと反省しつつ、でも実は、「昔に戻る」ことこそ最も勇気が要って建設的なことなのではないか、そうどこかで確信している自分もいたりするようだ。take me back to then when life was mellow.









 102年前にスペイン風邪で死んだエゴン・シーレのことを想う。

 Edith, six months pregnant, contracts the deadly Spanish Flu in October and dies on the 28th. Egon, already ill, lasts scarcely three days longer, succumbing to the virus early in the morning of October 31st.




 緊急事態宣言が発令となった。少なくともゴールデンウィーク明けまで。長く生きてきたが、これほどにもリアルな場所やリアルな人びとのことをいとしく思う経験は今までにない。例年だったら今頃は、さあて、大好きな5月、何処に行こうか。少し遅めの春を楽しむために北に向かおう。弘前はどうだろう。いや、函館。まだ冷たい風が時折吹き付ける函館がいい。……そんなことを考えて、仕事の合間のスケジュールをやりくりしている頃である。

 函館が好きである。函館を舞台にした小説はいくつもあるが、特に好きなのは吉田篤弘さんの『つむじ風食堂の夜』と、筒井ともみさんの短編『北の恋人(スノーマン)』(『食べる女』に収載)だ。中島廉売所が出てくる。啄木の歌碑のある函館公園のレトロな遊園地も出てくる。風と路面電車の街、函館。今年は文庫本を読み返しながら、これから遅い春を迎える函館の情景を脳裏に浮かべるほかはない。

 太平洋と日本海に挟まれた半島のような地形をしているという地理的条件から、雪はあまり降らない。そのかわりに風がつよい。一年中、風が吹きぬけている。この街は風の街だ。

 かつては栄えたけれど、今は人口も減ってひっそりとしている。そんな街を吹きぬける風にはサラサラとした距離感のようなものがあって。その感触が私を和ませる。

 私がこの街を好きになったもうひとつの理由が、この路面電車だ。風の吹きぬけるひっそりとした街を路面電車が走りぬけていく。

筒井ともみ『食べる女 決定版』(2018年、新潮文庫)


 筒井ともみさん。日本を代表する脚本家である。向田邦子原作、森田芳光監督の『阿修羅のごとく』が印象に残っている。久世光彦演出の『センセイの鞄』の脚本もたしか彼女だったはず。



 インターネット四半世紀である。1995年にウィンドウズ95が発売。この年、流行語大賞のトップテンにインターネットという言葉がノミネートされた。あれから25年。正確に言えばインターネットではなく WWW(world wide web)の歴史が1990年代から本格的に始まったわけだが、その間にメディア環境もテクノロジーもべき乗に変化していった。今ではインターネットで検索しSNSでコミュニケーションすることが我々の日常生活。プライバシーの感覚もインターネット前と後では180度変わってしまった。

 フェイスブックの日本語版が公開されたのは2008年。デジタルのクリエイティブを生業としていた私はすぐに参加し、自分の日々のデータをアップロードし友人のアクティビティに「いいね」を押しコメントを付け続けた。でも、ここ5年ぐらい、フェイスブックをはじめとする各種SNSに対してはあまりアクティブとは言えない。友人たちの近況を知るのは楽しいし、彼ら彼女らの読む本、訪れる展覧会、チェックしているニュースソースを知ることは自分にとってとても役に立つ。でも、そのコミュニティの中に自分がじわじわと固定化されていく気分になるのはなぜだろう? 新しい友人が増え続けてますますネットワークの幅が拡大していっているはずなのに。その理由をロジカルに説明することができなくてなんとも歯がゆいのだが(哲学者・批評家の東浩紀さんがそのあたりのことを各著作の中できちんと説明されていたはずなので、近いうちに精読し直したい)、チャーミングなセレンディピティが生まれる気があまりしない。

 実際、最近遭遇したセレンディピティを思い返してみると、国会図書館で見つけた論文に魅惑されてその著者に会いに行こうと決心したり、気まぐれに訪れた地方のバスツアーで隣の席になった方と仲良くなったり、講演の後で「話が面白かった!」と追いかけてきてくれた方と話し込んだりと、きっかけはSNSではなくすべてリアルなシチュエーションからだった。だから2020年の年初に、私は次のように決心したのである。新しい方々との出会い、あるいは旧知の方々との今までとは違う付き合いを探して、これからはよりいっそう自分から積極的にリアルな場所でのダイレクトなコミュニケーションを追い求めていきたいと。SNSはその継続のためにあればいい。

 ところが、この新型コロナウイルスの深刻な感染拡大である。相手と直接会えない、直接確かめ合えないことの切なさとつらさ。でも、今のこの状況では感傷的なことを言っている余地は皆無だ。直接会えなくともオンラインで互いの気持ちをどこまで伝え合えるのかを必死に考えながら、zoomを使ったオンライン授業の準備をし、新年度になって人生をリフレッシュした友人たちと会える日々を楽しみに待つ毎日である。

silhouette

Elmar 35mm f3.5 L + M9-P + Silver Efex Pro


 新型コロナウイルスでお亡くなりになった方々に謹んで哀悼の意を表すとともに、体調を崩されている方々の一日も早い回復を、そして一日も早いウイルスの終息を祈りつつ。よりいっそう自らの行動に自戒を込めて。2020年4月1日。

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