naotoiwa's essays and photos

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 また、右眼が痛いのである。

 去年の夏、右の眼球を傷つけてしまった。不注意にも紙の束が眼に入ってしまって、まるでブニュエル監督の「アンダルシアの犬」の冒頭シーンみたいに(というのは大げさであるが)、サアっと角膜を鋭利にトレースされるのが自分でもわかった。翌朝、大きな異物が混入したような痛みで眼が開けていられなくなり涙がとまらず、眼科に行った。「ああ、たしかに角膜に傷が付いてますね。線状に上皮が剥がれています。これは痛いでしょう。でも、眼球も他の皮膚と同じです。擦り傷が次第によくなっていくように一週間もすれば徐々に治っていきますからと」と点眼薬をふたつ処方してくれた。「ティアバランス」という角膜の傷を治す成分のものと「ガチフロ」という炎症止めの抗菌剤である。確かに、一週間程度で痛みは治まっていった。時折違和感は少しばかり感じるものの、幸いにも傷は黒目の部分にはかかってないようで視力に影響はない。

 しかし、十一月頃からまた痛みがぶり返してきたのである。夏に行った眼科医は「また別の場所が傷ついたのかも」とのことだったが、なかなか痛みが治まらないので別の眼科に行ったところ「正式の病名は、再発性角膜上皮びらんです。半年前の傷が再発しているんでしょう。冬になって空気が乾燥してきたことも原因だと思われますが、ちょっとしたことで、せっかく埋まったはずの角膜の上皮の傷がまた剥がれてしまうんです」とのこと。治療方法は同じだが、痛みが治まっても当分は点眼を欠かさない方がいいというアドバイスを受けた。「あの、先生、コンタクトはいつ頃からまた付けられるようになりますか?」「……もう、お付けにならない方がよろしいかと」

 昨年末のこの宣告はちょっとショックであった。ふだんは眼鏡ばかりであるが、スポーツ、特にスキーをする時にはソフトコンタクトが欠かせなかったのだが、それももうダメである。そして、最後に先生が言ったひとことが身に染みた。「加齢とともに角膜の傷も治りにくくなります。そして、治ってもちょっとのことで再発してしまいます」……眼球だけではない。年を取ると、体中のどこもかしこも、一度でも怪我や病気をするとなかなか完治しないということなのだろう。もう無茶はできないのだ。六十歳が間近なことを身をもって知らされる「再発性角膜上皮びらん」である。



 今年は丑(うし)年である。自分の干支と同じ。ということは、年男? ということは、つまり……。そうなのである。今年の誕生日で五回目の年男、還暦を迎えるのである。(目眩がしますw)
 昔、実家の和室の床の間に二頭の牛の置物が飾ってあった。大きな牛と小さな牛。父が昭和四十年代に買ったものである。私は父が三十六歳の時の子で、どちらも干支が同じなのである。親牛と子牛。

 さて去年は、……六星占星術によると私は去年から大殺界に入っているのだが、全世界がパンデミックな状態で、どこまでが自分ひとりの運気の問題だったのかまるで見当がつかない。

 そんな中、大学の研究分野では論文をひとつ仕上げた。現代の広告クリエイティブにおける実在論的傾向に関する考察で、今年2月に公開予定。そして、引き続き次の論文ももうすぐ第一稿があがる。(こちらは竹久夢二のノスタルジア研究)大学の授業も試行錯誤の連続だった。でも、オンラインだってここまでのことは出来るという目処が自分なりには付いたと思っている。ご多分に漏れず個人でお受けしている仕事は激減した。これから、大学の教育と研究と個人の仕事の両立をどのように図っていくべきか、思案のしどころではある。でも、戸惑っていても何も解決しない。事態が安易に元に戻るとは考えない方がいい。去年一年間でこの世界の価値観が大きく変わってしまった。今年もそれを受け入れて前に進むだけである。

 年末年始は安藤鶴夫さんの古い小説なんぞを読んでいた。『巷談 本牧亭』。この作品が直木賞を受賞したのは昭和三十八年。私が生まれた二年後である。親牛が若かった頃の時代の匂いを嗅いでみたくて。親牛は六回目の年男を迎えた年に(誕生日を迎えることなく)この世を去ったが(生きていたら今年八回目の年男)、さて、子牛の方はいかに。


 
 男の私に対しては、姉ほどの思い入れはなかったのかもしれない。けれども、姉と同じように、小さい頃から、よくもまああれだけのものを当時の地方都市で見つけ出せたと感心するくらい、たくさんの習い事を見つけてきては私にあてがった。習字、ピアノ、シロフォン、少年合唱団。それだけではない。パリ帰りの画家先生を見つけてきて、油絵も習いに行かされた。毎週、先生のアトリエに行って風景画や静物画を描かされる。今でもテレビン油の匂いを嗅ぐとあの頃のことを思い出す。かといって、母は私を芸術家にさせたかったわけではないのだ。
 中学に入ってからは、弁護士になれ、医者になれ、という定番のことを言い出した。で、まずは英語塾。そして、数学が苦手だと察知するやいなや家庭教師を探した。たいがいは当時大学生の姉のボーイフレンドたちが、弟の私を手なずけようとして(?)その役を買って出てくれたのだけれど。しかし、いくら家庭教師を付けられても典型的な文系のアタマしか持ち合わせていなかった私に数学や物理の上達は無理。それでも高校三年生の時、この母の思いに感化されたのか情にほだされたのか、理系に転向し(医学部を目指すためだ)、結果、案の定一年間棒に振って浪人生活を送る羽目になった。翌年にはさすがに母も諦めて、当初の予定通り文系の大学に再チャレンジすることを黙認するのだが、行きたいと思っている学部名を告げると、「そんなところに行って、将来いったいなんの役に立つと言うのかねえ」。でも、その母が美しい筆致で半紙に和歌を書いたり、古風な日本語で日記を綴っていたのを私は知っている。その後、私は東京の大学に通った後に広告会社に入社することになるのだが、幸い入社できたのが業界一位の会社だったこともあって母の自尊心はかろうじて満たされたようである。
 さて、私は東京で四年間一人暮らしをしていたが、私のアパートに母が訪ねてきたのはたったの一度きりである。それは、大学四年の冬のこと。その頃はまだマスコミの就職活動の解禁は名実共に秋以降で、当時は各企業からの合否の連絡は電話か電報のみで(メールなんてまだ存在しなかった)、本人不在時に代理で連絡を受けられるのは肉親に限られていた。ゆえにこればかりは近所に住んでいる友人にも、付き合っていたガールフレンドにも頼めず、やむなく母に上京して来てもらうことにしたのだ。当時私が住んでいた下宿は井の頭公園のそばにあって、母は部屋を見るなり、「なんて古くさい部屋なのかねえ」と感想を述べた。ベッドも机もクローゼットもアンティークの家具で揃えていたのが彼女のお気に召さなかったらしい。「若者らしくない部屋だねえ。それに、このアパート、駅から遠過ぎる。なんでこんなところをわざわざ選ぶのかねえ」。でも、この部屋の窓からは井の頭公園が一望だし春には公園の桜が散ってベランダが花びらでいっぱいになるんだ、などと私が言っても、「風流なことだねえ。でも、そういうのがいったい何の役に立つと言うのかねえ」。あの時、二十一歳の男と五十三歳のその母親という、なんとも居心地の悪い組み合わせのふたりが狭い部屋の中で数日間いっしょに寝起きをともにし、いったいどんな話をしていたのだろうか。今となっては詳細を思い出すことはできないが、なぜだか一言、私は母に「ありがとう」と言ったことだけは覚えている。母はなんのことだかと怪訝な顔をしていたが。おそらくあの時、私はそれまでの人生の中でいかにたくさんのチャンスを母から与えられ続けてきたのか、そのことを改めて思い起こしていたのだと思う。習字もピアノもシロフォンも少年合唱団も、そして油絵も、それらがみんな現在の自分の糧になっていることを直感的に理解したからもしれない。
 そんな母は、父が死んでから十六年間、ひとりで大垣の家に暮らした。「よお、未亡人」と私がおどけて声をかけるとまんざらでもない顔をしていた。父の残したいくばくかのお金で生活に不自由することはなかったが、預金通帳の金額が増えることがいっさいなく、ただただ毎日減っていくだけのを見ているのはなんとも恐ろしいものだ、と言っていた。やはり姉か私と同居したかったのではないだろうか。でも、それぞれの配偶者に気をつかって生活するのはイヤ、ひとりの方が気ままでいい、というのも本音だったろう。思ったことをズバズバと、イヤなものはイヤ、と言い切る母。それは美人に生まれついた女性の特権か、はたまた業だったのか。
 その母は八十三歳の時、自分の母親と同じ悪性リンパ腫になった。姉や私が病名の告知に立ち会った時、彼女は「先生、直してください!」と気丈に言いつつも、自分の母親と同じ病気と知って「やっぱりなあ」と覚悟をしていたようでもあった。夏に入院して、その後、計七回にわたる抗がん剤治療で血液中のほとんどのがんが寛解したが、翌年の春に脳に転移をしてしまい、処置の施しようがなくなった。
 大正十四年生まれの父と昭和五年生まれの母が結婚したのは昭和二十五年と聞いているが、戦後、ふたりはどのように出会い、どのような約束をかわしながら家庭を築いたのだろうか。父が母の実家近くに下宿していたことが縁だったという話を姉から聞いたことはあるが、それ以上の詳しいふたりのなれそめは知らない。母が自分の父親が持ち込んできた縁談を断るために父と駆け落ちした、なんて話を誰かから聞いたこともあるが、真偽のほどはわからない。その秘密はそのままにしておいて、最後に、以下のようなふたりの新婚直後のエピソードをもって両親のことを語るのはいったん終えることとしたい。この話を私は、母が亡くなる四年前の春、珍しくふたりで根尾谷へ花見に行ったときに聞いた。薄淡桜はもうほとんど散ってしまった後だったけれど。

 戦後まもなく結婚したふたり。父は若くして奮起し自分たちのマイホームを建てた。ある日、その新築の家を留守にして、ふたりは夕刻、近くのダンスホールに行った。母は流行のモガ系のファッションに身を包み、父は髪をリーゼントでキメて白いエナメルの靴を履いて。そして、ダンスホールから帰ってくると自分たちの家に明かりが灯っているではないか。あら、消し忘れて出てきたのかしら?
 ところが、どうやらそうではなかったのである。裏口から覗いてみると、居間に見知らぬ男が座っていた。なんと、泥棒である。そして、その泥棒は、ふたりが帰ってから食べようと戸棚にしまっておいた鮭の切り身の焼いたのをむしゃむしゃと食べていたのである。父はその現場に踏み込んだ。泥棒は逃げるに逃げられない。母は泥棒の顔を見た。なんとも気の弱そうな顔をしていた。ふたりは怒るタイミングを逸してしまった。まあ、いいんじゃない、と彼女は言った。他には何も取られていないようだし。そうして三人で食卓を囲むことにした。「どこのどなたか知らないけれど、ここに白米も少しだけならあるわよ」。

 なんともなごやかなエピソードである。おそらく昭和二十年代にはそういうことも起こり得たのだろう。それにしても、気性の激しい母の人間としての優しさ、柔らかさの一面を感じさせてくれるエピソードである。自分が生まれるずっと前に、父と母がそんな素敵な若き日々を送っていたことを知って私はとても嬉しく思った。
 でも、時は残酷そのものである。そんな若き美しき日々も、やがては跡形もなく消え去っていく。そして、最後にひとは誰もが白骨となるのだ。まさに「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」(蓮如上人)である。残された者にできることは、せめて野辺送りに相応しい場所を彼女にかわって探すことぐらいだった。深い山の懐へ彼女の魂が帰って行ってくれたのなら、と思うばかりだ。



 今年もあと二日で終わりである。夏に父のことを書いた。では、寒波が近づきつつある年の瀬に、母のことも。

 私の母は大垣市の船町に生まれた。四人姉妹(ひとりは弟)の次女。昭和五年生まれ。終戦の時は十五歳。女学校に通っていたときの写真が何枚かある。美少女である。理知的な目をしている。そして、とても意志が強そうな表情をしている。
 とにかく、物事をハッキリとしないと(そして言わないと)気が済まないタチのひとだった。イヤなものはイヤ。おべっかは使わない。近所に年の少し離れた姉が住んでいて、ときどき遊びに来ていた。実家を弟が継ぐようになってからは互いに行き来もあったようだが、せいぜいがそのくらい。親戚付き合いも近所付き合いも好きじゃない。
 悪性リンパ腫で五十代に早世した自分の母親のことをとても慕っていた。のちに、母自身もこの同じ病気で八十三歳の生涯を閉じることになる。反対に、自分の父親のことはあまりよく思っていなかったようだ。
 物心がついた後の私が知っている母は、とにかく美しい人だった。そして、激しい人。同時に憂鬱な人。佐久間良子に似ている、とよく言われた。小学校の授業参観の時には級友たちに羨ましがられた。でも、来ないときも何度かあった。母は何度か入退院を繰り返していた。私が中学生の頃はとくに多かったように思う。入院といっても器質的な大病を患っていたわけではない。食欲不振とか吐き気とか頭痛が続くといった不定愁訴で、そうした症状が出始めると母はさっさと自分で荷物をまとめて病院に電話をかけ、院長先生と交渉して入院手続きを取る。そして二週間ほど病室に入り、元気を回復して戻ってくるのだ。ある意味、入院することで日常のストレスを解消しているようにも思えた。
 健康面でなにか不安なことがあったら、すぐに病院に行って検査を受ける。胃カメラでも大腸カメラでも、脳のCTスキャンだってなんだってあっという間に済ませてしまう。すぐに結果を知りたい人だった。ウジウジしているのが大嫌い。「果報を寝て待」ったりはしない。ノロノロしているひとを見ているとイライラする。口癖は「はよ、はよ」(早く早く)である。「はよ、まわしせんかね」(「まわし」も岐阜や名古屋の方言で「支度」の意)。家に帰るとき、家に近づく百メートルも手前から既に鍵をハンドバックから取り出している。鍵に付いていた鈴の音を聞く度に、隣にいる私は、ああ、また母はせっかちにこんなに早くからもう家に帰る「まわし」をしているのだなと思ったものだ。
 父にも喧嘩っ早くて短気なところがあったが、母の場合はレベルが違った。ふたりが仲違いをするときはいつも決まって先に啖呵を切るのは母の方である。あれは私が小学校の五年生頃だったか、家族でドライブをしていて車中で父と母が口論になったことがあった。場所がどのあたりだったかは定かではないが、他の車が全く通らない山間の淋しい道でのこと。突然、母は「ここで降りる!」と宣言すると助手席のドアをバタンと閉め、ひとりで山奥に向かって歩いていった。父はクルマを徐行させながら窓を開けて体を乗り出してしきりになだめているが、母は頑としてクルマに戻らない。「ついてこないで」。時刻は五時を過ぎ、もうすぐ日が暮れる。次第にまわりの視界が暗くなっていく。そんな中、母はひとりでどんどん薄闇に向かって歩いて行ってしまう。それを、後部座席に座っていた私はじっと見つめていた。今でも鮮明に脳裏に残っているのは、あのときのシャネルスーツを着た母のすらりときれいに伸びた脚とマロン色をしたハイヒールである。
 母は料理をつくるのがあまり好きではなかったようだ。朝食はいつも同じメニュー。厚焼きのトーストにハムとゆで卵、飲み物はアッサムティー、デザートはイチゴが五粒と決まっていた。昼は、夏は冷や麦、冬はうどん。夜は何を食べていたのだろう? ハンバーグ? エビフライ? 残念ながら、これぞ母親の味というような料理を思い出すことができない。ただ、日曜日の昼によくつくってくれたお好み焼きのことだけは覚えている。大きな鉄板プレートの上で小麦粉をしゃもじの裏側でのばして焼くのだ。母のお好み焼きはソースを使わない。醤油で味付けをして、乗せる具も薄切りの豚肉とネギとショウガぐらいで、京都の一銭焼きみたいにさっぱりとしていて何枚でも食べられる。でも、それ以外の料理のことはなかなか思い出せない。その代わり、父とふたり、今日はどこで何を食べようかと外食の相談をしていた記憶ばかりが残っている。
 しかし、同じ家事でも掃除は大好きだったようである。というよりも、几帳面にいつも掃除機ばかりかけていた。父や姉や私が服を脱ぎ散らかしたり、あちこちにモノを置いたりすると、次の瞬間、それらはたちどころに洗濯機や戸棚の中に収まっていく。カオスが許せないのだ。おそらく、母は何事につけてもかなりの潔癖症だったのでないだろうか。
 そんな母が生涯かけて一番熱心にやってきたこと。それは、自分の子どもたちに対する教育だったのだと思う。まずは、私の姉に対して。姉は私より九歳年上で、私が小学三年生の頃には既に高校生。県内一の進学校に入学していた。彼女は父の運動神経の良さを受け継いで陸上競技の選手だったし、幼い頃からピアノレッスンを続けていて、音楽大学に入ってプロになる可能性も十分あったという。けれども、彼女は陸上競技やピアノでプロになることはやめて進学校を選んだ。それには母の強い意志が働いていたのかもしれない。これからの女性は職業婦人として自分ひとりの力で稼ぐ力を身につけなくてはならない。そのためにはまずは学歴を積み重ねることが大切。それが将来安定した収入を得る最善の道。ピアニストになるというのは母にしてみれば賭博性が強すぎたのだろう。
 母は自分がやりたくてできなかったことを自分の娘に託したのであろうか。戦中戦後のあの状況下で、女学校を出てからも学問を続けるのは困難なことであったろう。自分の父親に学問の道を閉ざされてしまったのかもしれない。その後、父と結婚して専業主婦になるが、自分の娘には、男に引けを取らない学問と教養と身につけさせ、安定した収入を稼げる職業に付いてもらいたかったのだろう。

(続く)



 今度は、超大型の台風である。

 2020年の夏はなんともひどい夏であった。コロナ禍はもとより、執拗な長雨が続いて8月にならないと梅雨が明けなかったり、かと思うと、その後は一転猛暑、40度超えのところまで出てきたり、で、9月になったらなったで、すぐにこの台風である。

 かつての夏は、もっと心地よい季節だった。真夏でも厭な汗をかくことはなく、ドライ効果をうたう化繊など着なくとも、潮風をなびかせた綿100%のTシャツだけで快適だった。海が好きな女の子たちはきれいに日焼けして、踝のところまでロールアップしたジーンズで夏を謳歌していたし、その背景にはいつもボサノヴァの名曲が流れていた。




 地球は、この世界は、元に戻るのだろうか?
 
 
*沖縄、九州エリア等に甚大な台風被害が出ないことを切に祈っています。



 さて、父のクルマ遍歴についてである。私が物心ついた1965年ぐらいにはすでに我が家には自家用車があった。手元に残っている古い写真をから推察するにダットサン・ブルーバードの初代型だと思われる。それが、小学生にあがる頃にはフォルクスワーゲンのカブトムシに変わった。昭和四十年代半ばの地方都市で、クルマを、しかも外車を走らせている家庭なんてまだほとんどなかった。ドライブの途中、国道の真ん中でのんびり停車していても誰からも文句を言われなかった時代である。VWのカブトムシはその後、同じフォルクスワーゲンのタイプ3、昭和五十年代になるとベーン・ベー(当時はBMWのことをドイツ語発音でこう呼んでいた)の2002へと変遷していった。ずっとドイツ車で通していた。実は、途中で二度ほど国産車に浮気した時期があったが、クラウンはほんの半年、ブルーバードのSSS(スーパースポーツセダン)に至ってはなんと二週間で売り払っていたと記憶している。
 国産車はやはり足回りやハンドリングが緩くて「フィーリングが合わなかった」らしい。カブトムシだけでもバージョンアップする度に三度ほど乗り換えていたし、完全なクルマ道楽である。でも、助手席に乗せてもらう度、父の運転裁きには惚れ惚れしたものだ。とにかくメリハリが効いているのである。スピードを出すときは出す、停まるときはきっちり停まる。マニュアル車で山道のカーブを曲がるときのヒール&トゥの足裁きには色気すら感じた。とにかく運動神経が良いのである。でも、そんな運転上手の父親が事故を起こしたことが一度だけある。追突事故。といってもノロノロ運転中の前方不注意なので相手もむち打ち等にはならず、たいしたことには至らなかったのだが、きれいな空色のVWタイプ3のフロント部分がグチャリとへこんだ。原因は車中での中学生の私との口論だ。口論のきっかけは母のことだったと記憶している。
 父のクルマ好きメカ好き、運動神経の良さは戦時中に鍛えられたものであろう。父は陸軍の少年飛行兵だったらしい。操縦士として偵察機に乗りつつ、整備技術兵としてメンテナンスも担当した。父が配属されたのは各務原の飛行場。昭和二十年の六月、飛行場は大空襲を受けて同期の飛行兵や整備兵たちがたくさん亡くなってしまったという。
 そして、終戦。父の戦時中のことはどこまでが真実でどこまでがそうでないのか、生まれてもいない息子にはわかるはずもないが、あの戦争で九死に一生を得た父は、なにを思ったのだろう。戦友たちが死んで自分が生き残ったことを恥じていたのか。あるいは、さあ、幸せな人生をつかむのはこれからだ、今まで出来なかった贅沢をしてやるのだと強く念じたのだろうか。いずれにしても、父は戦後、ハングリーに生きた。そんな父のことが、私は好きである。カルヴィン・トムキンズではないけれど『優雅な生活が最高の復讐である』と私も思うから。
 そんな父は、七十一歳の時に潰瘍性大腸炎をこじらせ、その後、肝臓の状態が悪化して死んだ。肝硬変、そして肝がん。スキーの大けがのときに輸血が原因でC型肝炎になっていたことが寿命を縮めた。黄疸で体を真っ黄色にして、腹水をいっぱい貯めながら父は死んでいった。死ぬ前に、父はみんなに謝りたいと言った。「どうして?」と聞くと「ちょうすいていたから」と。「ちょうすく」というのは岐阜や名古屋の方言で、「偉ぶっている、生意気なことを言う」といった意味だろう。切った張ったの商売だから、人を出し抜いたりだましたりしなくてはならないこともあったかもしれない。毎週ゴルフをやり、外車を乗り回し、一見優雅に見えるかもしれない自分の人生のことを、仕事仲間に対して申し訳なく思っていたのかもしれない。そして、そのあとぽつりと、あと十年くらいは生きてみたいと言っていた。まだ、乗りたい車がいっぱいあったのかもしれない。メルセデスだってポルシェだって。
 亡くなった翌日、市役所に死亡届を出しに行った。その後、父の戸籍謄本を見てなんとも暗鬱たる気分になったことを覚えている。いつ生まれ、誰といつ結婚し、いつ子どもが生まれ、そしていつ死んだか。ひとの人生なんてたったそれだけの事項でまとめられてオシマイなのだ。父の墓は揖斐川町にある。本家の方にお願いして敷地の一部に建てさせていただいたのだ。死ぬ直前に父がそう希望したからだ。生まれた揖斐川町の小島の山を見ていたいと。かなたには伊吹山も、時には見えたりするのだろうか。



 コロナ禍や猛暑のこともあり、今年は父親の墓に行くことができなかった。お盆も既に過ぎてしまっているし、離れた場所からではあるが、ひととき、亡父を偲びたいと思う。

 私の父は、大垣市の北にある山間部の揖斐郡揖斐川町に生まれた。揖斐川町から北東に向かえば谷汲山華厳寺があり、そこからさらに北に向かえば薄墨桜の根尾谷がある。そして、南西には、かの伊吹山が聳えている。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を退散させた「荒ぶる神」の鎮座する伊吹山である。真冬になると東海道新幹線が米原周辺で徐行運転をすることが多いが、あれは、伊吹山から吹き下ろす雪のせいである。その伊吹山からさらに北に福井の県境を越えて行けば、泉鏡花の小説で有名な夜叉が池もある。などなど、岐阜県の北西部というのはなかなかにミステリアスなエリアである。
 その揖斐郡揖斐川町の小島という村に、父は生まれた。母親が四十過ぎてからの子だと聞いた。手元にある一番古い写真(おそらく1950年代のものだろう。もちろん私はまだ生まれていない)を見ると、髪はリーゼント、ボックス型スーツを着て靴は白のエナメルである(モノクロの写真しか残ってないが、のちに本人がそう言っていたから間違いないだろう)。このスタイルで終戦直後のダンスホールに通っていたらしい。洒落者で、それが高じて衣服を扱う会社に入社した。ところが、すぐに上司と大げんかをして退社。普段は穏やかな物言いをする人だったが、喧嘩っ早いのだ。以来ずっと、七十一歳で亡くなるその日までフリーランスを通した。半世紀もの間、ひとりでどんな仕事をしてきたのかいうと、衣料用の生地や反物の仲買である。工場と販売会社との間に入って手数料を稼ぐのだ。それが「毛織物卸業」である。けれど、ファッションの流行にはリスクが伴う。先に買い付けておいた反物がまったく売れない時もある。手形が落ちない。不当たりが出る。かなり浮き沈みのある商売だったように思う。景気がいい時は家族みんなで郊外のフランス料理店へ。クルマもすぐに新車に乗り換える。けれど、大きな不当たりを出してしまうと大変なことになる。一度、その筋の人が家に数人やって来て、家の中にある家財道具全てにラベルを貼っていったこともある。いわゆる差し押さえである。「子供にだけは手を出すな!」と叫んでいた父の声を今でもよく覚えている。
 でも、商売が順調なときは、なかなかに優雅な生活なのである。サラリーマンではないので定時に出社する必要もない。ゆっくり起きてから自宅の車庫から車を出す。向かう先は愛知県の一宮市が多かった。一宮市は紡績の街で当時は至る所に繊維工場があった。一宮に着くと、まずは馴染みの喫茶店に入る。そこでモーニングセットを頼むのだ。名古屋エリアで有名なこのサービス(午前中に珈琲を頼むとトーストやゆで卵、サラダ等がもれなく付いてくる!)の発祥地は一宮市である。工場の騒音が始まる前の朝の時間帯に喫茶店で打ち合わせをするというのがモーニングセットの始まりだったらしい。父もここで午前中に繊維工場の担当者たちと商談をし、まとまれば、午後、サンプルの反物を車に積んで名古屋や岐阜の販売会社に向かった。で、夕方に自宅に戻ってくる。これが一日の行動パターンだが、毎日毎日真面目に仕事をしていたわけではないようだ。朝、車で出かけるところまでは同じだが、得意先のどこにも立ち寄らずにずっとお気に入りの珈琲店で時間を潰している日もあるし、販売会社の担当者を誘って接待ランチをしたり(事務の女の子を誘って単なるプライベートランチという日もある)、空いている時間に名所旧跡を訪れたり。で、日曜日はゴルフである。ほぼ毎週。ゴルフ会員権も全盛期には三つぐらい所有していたように記憶している。でも実は、ゴルフも仕事のうちなのである。販売会社の担当者をコースに連れて行って、お金は全額父が払うのだ。
 夜、自宅に戻ってからは帳簿付けである。ワープロもパソコンもない時代、すべては手書きである。一円でも金額が合わないと深夜を過ぎても書斎から出てこなかった。私は父から、将来お前はどうしろ、何になれ、と強要されたことはなかったが、一度だけ、あれはたぶん高校に入って間もない頃だったと記憶しているが、「お前にはやっぱり将来定職についてもらいたい。毎月決まった日にお金が入ってくるというのはどんなに安心できることか」とつぶやいていたことを覚えている。半世紀もの間、たったひとりで商売をし続けるのはどんなに大変だったろう。しかもファッションの仕事である。五十過ぎたら自分のセンスにも自信がなくなってくる。付き合う得意先の相手はみんな若者。彼らから嫌われることなくお金を引き出すために、父は毎週彼らをゴルフで接待していたのだ。当時はまだ、サラリーマンが自腹でゴルフコースに出るにはずいぶんとお金がかかる時代だったから。
 父はゴルフのハンディを生涯10で通した。でも実際はハンディ5ぐらいの腕前だったのではないだろうか。何度かスコアブックを見せてもらったことがあるが、常に80前後。書斎にはいろんな大会で優勝したときのトロフィーがいっぱい飾ってあった。実際はシングルの腕前なのに(ハンディ10未満をシングルという)、お得意先の相手を気遣ってハンディを10にしていたのだろうと推察される。何度か練習場やコースに連れて行ってもらったこともあるが、フォームはとても柔らかいのに、インパクトの瞬間は決してブレることなく、ドライバーがよく飛んだ。ゴルフを始めたのは四十五を過ぎてからで、その前はスキー。競技スキーヤー並の玄人はだしだったと聞く。しかし、四十歳の時に大けがをしてスキーをやめた。父は伊吹山のスキー場で後ろから初心者のスキーヤーに激突され、そのストックが顎に刺さって重傷を負った。病院に運ばれて緊急手術。大量に輸血をされたらしい。実は、その時の輸血が原因でウイルス性の肝炎になってしまったようだ。とにかく父は運動神経が良かった。それはゴルフのフォームひとつとってもよくわかったし、いっしょに登山をしたときの身のこなし、あるいは、クルマを運転するときの一挙手一投足にも現れていた。

(続く)

 


 岡康道さんの訃報を聞いてから半月が経った。すぐには反応することができなかった。なんでハンサムな人ほど早く死んでしまうんだろう。ルックスはもちろんのこと、生き方そのものがハンサムな人だった。とにかく格好良かった。いつもスーツ姿で、しかもゴルフがうまいクリエーターなんて、それだけでもアバンギャルドだった。
 直接お仕事をご一緒させていただいたことはなかったけれど、4年先輩の憧れのクリエーター。自分もプロパーのクリエイティブ職ではなかったので、勝手に目標にしていた。なので、初めて同じクライアントさんの仕事をやらせていただくことになった時にはメチャクチャ緊張したことを今でもよく覚えている。彼の仕事で好きだったのはセガ・エンタープライゼスの『湯川専務』やトライグループの『父の夢』等いろいろあるが、やっぱり、独立前の名作、東日本旅客鉄道の『その先の日本へ』が強烈に印象に残っている。
 「その先の日本へ。」コピーはかの秋山晶さんである。広告を見て笑うことは多々あれど、泣くことはあまりない。でも、この広告には「泣いた」。地方出身者(岡さんは佐賀出身、自分は岐阜出身であるが)の故郷に対する感覚に身につまされる思いがしたからだ。のちに岡さんは自伝小説『夏の果て』の中で以下のように書いている。

東北は故郷だ。初めて訪れても懐かしい場所。しかも、そのメランコリーには一種の「罪悪感」が含まれているように感じた。捨てた故郷へ。一年に数日しか会わない親へ。普段忘れている日本という国へ。東京で暮らす我々によって、テレビコマーシャルでは今まで訴求されなかったであろう「後ろめたさ」が表現できれば、多くの人に共感してもらえるのではないだろうか。

岡康道『夏の果て』(小学館、2013年)
 
 当時、このCMを見て「泣いた」理由はおそらくこの「後ろめたさ」にあったのだろうと思う。自分も、お盆か正月か、それこそ一年に一〜二度しか帰らなかった生まれ故郷。別れ際に「またね」と言いながら実家を出て駅に向かう間、ずっと見送ってくれていた亡母の姿を今でも思い出す。本人はさっさと東京に帰りたくて仕方がないのだ。それを名残惜しそうなフリしてごまかしていた。でも、そんな息子の姑息な演技はみんな母親には見透かされていたのかもしれない。そして、そうしたこともまるごと分かった上で、自分は「後ろめたさ」を抱えながら駅に向かって歩いていたのだ。

 音楽も素晴らしい選曲だった。井上陽水さんの『枕詞』『結詞』。普段の陽水さんの曲は色っぽくでモダンなダダイズムがいっぱいだが、この曲の歌詞は極めてストレートで古風である。集合写真風のグラフィカルな映像、素朴なナレーションと相まって、当時、おそらく自分だけでなく、多くの故郷を捨てた人たちがこのCMを見て、泣いたのだ。






 東京も30度を超えた。いよいよ夏到来である。(その前に長い梅雨があるのだが)

 若い頃、夏が好きだった。といっても根っからのヒネくれ者ゆえ、みんなで海に行って泳いだりサーフィンしたり、というわけではなく。ひとりで部屋のベランダでアーウィン・ショーの『夏服を着た女たち』を読んだり、大貫妙子さんの『夏に恋する女たち』を聞きながら海岸線をドライブしたり。

 夏。女の人たちはみんな素敵だった。ワンピースから伸びた脚はすらりとして。少し短めに揃えたワンレングスの髪が潮風に揺らいで。眩しそうに世界を眺める瞳は憂いを含んで。

 あれから35年。時間は現実を押しつける。でも、記憶はどこまでも自由だ。時間に縛られることはない。

 あの曲は『SIGNIFIE』に入っていたっけ? 『CAHIER』だっけ? 『CAHIER』の方はインストゥルメンタルバージョンじゃなかったか。『CAHIER』、洒落たアルバムだったな。フランス語の歌詞の曲や、ワルツ曲。

 ということで、apple musicで検索。すぐに見つかった。ダウンロード完了。

 *サブスクの音楽配信、今ではほとんどの曲が聴けます。『夏に恋する女たち』。もちろんオリジナルもいいけれど、原田知世さんのカバーもいいですね。



 今年、長男は今年院生2年目で、現在就活中。留学等で一年ダブっているから学部卒業生に比べたら3年遅れとなるが、いよいよ来年の四月から就職である。コロナ禍での就活はほとんどがオンライン面接のようだ。来年の春に世の中がどういう状況になっているか現段階ではさっぱり予測がつかないが、まだまだかつての日常は戻っていないだろう。そんな中で彼は新社会人一年目を迎えることになる。(就職浪人にはならないと思うのだが……。)

 そこで、ハタと気がついた。自分は今年59歳。もしもあのまま会社に残っていたら来年の春に満60歳になる。すなわち定年を迎えるのだ。今は60歳になってもほとんどの人が再雇用を願い出ているようだが、いずれにしても広告会社に所属するクリエイターとしての人生は来年の3月に終了。そのタイミングで、親が定年を迎えたその年に子が新社会人一年目を迎えることになる。世代交代というよりも世代が循環している、シームレスに。なんとも人生には不思議な巡り合わせがあるものだなあとつくづく思う。


lion


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