naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: life



 自分はいったい何で出来ているのか。

 六十歳も過ぎると、もちろんそこにはノスタルジーな気分が多分に含まれているのだろうが、今までの自分を成り立たせてきた “成分” を客観的に分析してみたくなる。
 自分の場合はおそらく、若い頃に読み漁ってきたたくさんの小説がそうした “成分” の大半であると考えられるが、中でも「倉橋由美子」が占めるウエイトレシオはかなり高いのではないだろうか。『暗い旅』を読んで吉祥寺や鎌倉に住みたいと願い、『夢の浮橋』を読んで京都に憧れた。十代の頃からフランス被れになったのも「倉橋由美子」のせいだろう。

 先日、中公文庫から出ている『桜庭一樹と読む 倉橋由美子』を手に取って、彼女の初期の作品のいくつか(「合成美女」とか「亜依子たち」とか)を再読し、当時、自分の細胞壁のひとつひとつをヒタヒタと浸していた感覚がまざまざと甦ってくる思いがした再認識した。十代で「倉橋由美子」を耽読していた自分が、あの頃、自分のことを、親を含めたまわりの人々のことを、そしてこの世界のことをどのように感じていたのか。

 この文庫本の巻末で、桜庭一樹さんと王谷晶さんが対談して、穂村弘さんの言葉を紹介している箇所がある。

 穂村弘さんが倉橋由美子について「思春期の薬」というエッセイを書かれています。思春期の“病状”に「現実が怖い、他者が化け者に思える、自分は特別な存在だと無根拠に信じる、自分と同様に特別な他者とだけ美しく交わりたいと願う。」原因は自意識の過剰なんだけど、自分では治ることを望んでいなくて、治って大人になるのは敗北だと思っている。
対談「永遠の憧れ、倉橋由美子(桜庭一樹、王谷晶)より
『桜庭一樹と読む 倉橋由美子』(中公文庫、2023年)p.314

 まさにその通り。だとすると、あの頃の自分というのは、かなりイケ好かない青年ですよね?



 相応の歳をとったせいであろうが、最近、墓のことを真剣に考えることが多くなった。親の墓は今後どうしたらいいのか、自分の子供の代まで永代供養を望むのはいかがなものか。同世代の友人の中には、既に終活を終えて自身の墓を生前に建立した人もいる。

 まあ、それはさておき。そもそも自分は自分の墓を建立したいのか。新たにつくるのならどんな墓がいいのか。定番の縦型三段は抹香臭くてちょっと苦手。墓碑に戒名が彫るのもノーサンキュー。

 今までいろんなお寺の墓や外人墓地を見てきたが、その中で一番素敵だなあと思ったのは、多磨霊園にある堀辰雄と夫人のお墓である。形はシンプルなプレート型。そこに前と生没年のみが記されている。御影石の墓石も明るい色で、供えられた白い花とマッチして清楚。堀辰雄らしいお墓だなあとつくづく思う。

堀辰雄墓碑



 また誕生日を迎えてしまいました。

 早いもので、大学教員生活もいつの間にか7年目を迎えました。この分だとあっという間に、研究室に溢れかえった膨大な書籍の次の収納場所を心配しなくてはならない日も来てしまいそうですが、これからも新しい広告のあり方、広告とアートの関係性について文理融合(と言葉で言うは易しですが)の立場でアップデートし続けていく決意です(キリッ)。

 でもその一方で、ディレッタントにいろいろなことに首を突っ込む時間をもっと増やしてもいいのではと思ったりもして、ここ数年、近代文学や美学、美術史を専攻する先生方のお仲間の片隅に加わらせて頂いたりしています。

 変化し続けることと、自分の感受性の原点に正直になること、そのどちらをも欲張って両立させたい年頃なのでしょう(笑)。

 さて、毎年3月23日は本務校の卒業式です。今日はあいにくの雨となりましたが、満開の桜の樹の下で巣立っていくゼミ生たちに「おめでとう!」「おめでとう!」。自分の誕生日にこそ、周りの人たちにおめでとうが言えるというのは嬉しい限りです。

大岩ゼミ


 

 ヒトの運気には周期があって、だいたいそれは3年ぐらいのスパンで繰り返されているような気がする。ここ十数年の自分の人生を振り返ってみても思い当たるフシが多い。例えば、2014年から16年にかけては、人生のシフトチェンジに悩みに悩んだ時期で、今までにないような想定外の出来事がいくつも重なった。でも、それを曲がりなりにも通り抜けられたからこそ、2017年から19年にかけて、50代後半にして新しい人生をリ・スタート出来たのかもしれない。しかしながら、2020年からはまたまたいろんなトラブルが頻発し、ちょうどコロナの時期にも重なって鬱屈した日々が続いた。で、それらにもようやく解決の道筋が見えたのが昨年末。今年からの3年間はまた新たな運気がやってくる予感もしている。

 こうした周期は、運命云々と言う前に、人間という生き物はどんなに気を付けていても好運が重なれば必ず慢心したり驕ったりするもので、その戒めが後で必ずやってくる。あるいは、先延ばしにしていたことはけっきょく未解決のママ戻ってくる。で、それらを謙虚に受け止め、地道にやり直すことが出来ればまた運気は回復する。おそらくはそういうことなんだろうと思う。

 でも、ちらりと六星占星術を見てみたら、霊合星人水星人マイナスの私は、まさに去年までの3年間は大殺界に当たっていたようで、今年はようやくそれを抜け出せる時期とのこと。安直に占いを信じるわけではないが、もしもそうならばなおのこと、丁寧に丁寧にこの一年を過ごしていきたいと思う。でないと、せっかく結実したものも肝心の中身がなくなってしまいかねない。

 あと数週間もすればまたひとつ年を重ねることになる日に、改めて。

結実

Elmar 5cm f3.5 (pre war ) + M10-P + Color Efex Pro



 ついに因縁の親知らずを抜いたのである。

 「歯肉炎が治らないのは親知らずのせいですね」「はあ、、」「抜きましょうか。大学病院の口腔外科、紹介しますので」「え?」「完全に埋まってしまっているのでうちでは抜けないんです」とかかりつけの歯医者さんに言われたのが2015年。その後、いったん歯肉炎が治まって数年放置していたのだが、2019年にまた歯茎の腫れがひどくなった。で、覚悟を決めて改めて紹介された大学病院に行ってみるとたくさんの患者さんがウェイティング状態で、施術は半年後になるという。「お急ぎならば別の病院を紹介します」とのことで(こちらも大きな総合病院の)口腔外科で初診の受付をし、改めてレントゲンを撮ってみたところ、「ううむ」。CT撮ってみて、「ううううむ」。「……」「横綱級ですね」「は?」「横綱級に難易度の高い親知らずなので」と全身麻酔の手術を勧められた。「ええっ?  親知らずで全身麻酔、ですか?」

 私の右下顎の親知らずは完全に横向きに埋まっており、しかも、顎の神経と血管に密着しているもようで、抜歯の際に血管および神経を損傷する可能性も高いので万全の体制で行った方がいいとのこと。それが横綱級、の意味であった。で、手術入院前の麻酔医との面談等と相成ったが、どうも納得がいかない。セカンドオピニオンも聞きたくて別の病院でも同じような検査を受けたが診断は同じ「横綱級」。全身麻酔でなくてもいいが、静脈内麻酔の方が痛みも感じにくくくていいのでは、とのこと。でも、全身麻酔にしても静脈内麻酔にしても血管や神経の損傷の可能性は変わらないらしい。ようは位置の問題なのである。下顎に沿って走っている神経と血管に密着している位置の問題なのである。「だったら親知らずの位置が動けばいいのではないですか?」と尋ねてみると「若い方ならそれも有り得ますが、お年を召されていると残念ながら今後歯が動くことはないかと」。

 で、けっきょくこの時も親知らずの抜歯は取りやめにしたのである。理由は三つ。その一。大きな病院でならば血管損傷が起きてもその場でいろいろ対処してくれるだろうが、神経の損傷で後遺症が残った場合、人前で話をする機会が多いので(大学の授業しかり)職業的にも困ってしまう。その二。おかげさまでこの年になるまで大病もなく今まで手術を受けたことがない。ので、今回全身麻酔の手術を受けるとするとこれが人生初の手術ということになる。現代の医学は進んでいるので確率は極めて低いだろうが、全身麻酔の手術にはやはり一定の危険性は伴う。万が一、万万が一の場合、その理由が親知らず抜歯というのは死んでも死にきれない。ま、それはさておき、いちばんの理由はこれである。その三。ほんとうにこの親知らず、ずっと今の場所に居座っているのだろうか。今後位置を変えることは決してないのか? 下顎から離れて歯茎から少しでも頭を出してくれたら、通常のやり方で抜歯できるのではないのか? そうすれば神経や血管に抵触するリスクは解消されるのではないか、という疑問である。

 もともとこの親知らずを抜かなければならないと判断した理由は、奥歯と親知らずの間に生じる狭い隙間に細菌が蔓延って歯肉炎を起こすからである。この隙間をなくす、あるいは、隙間を逆にもっと大きくすれば炎症は起きても対処できるのではないか。というようなことを長年(もう30年近く)お世話になっているかかりつけの歯医者さんに相談してみたところ、じゃあ、歯肉炎を緩和するために逆に手前の奥歯を削って隙間を広げてみましょうかということに相成った。で、奥歯を半分削って様子を見ていたところ、歯肉炎は完治はしないものの、その後ひどくなることもなく、そして、去年の夏あたりから「お、親知らず動き出しましたね」という嬉しいレントゲン結果となった。隙間が広くなって親知らずも身動きしやすくなったようで、そして、ついに歯茎からその一部が姿を現したのである!「では、抜きましょうか。アタマが出てきているし、血管や神経からも離れてきたので、うちでやれますよ」

 そうはいっても親知らずを抜くとその後でかなり腫れると聞く。やるなら大学の授業も終了したこの時期しかないと思い、先週、敢行することになった。通常の局所麻酔で約40分間。「なんとか三つに割って抜けました」「あ、はりがとうごはいまふ」(麻酔で上手く口が動かない)「でも、歯茎に大きな穴が空いてる状態ですからね。数日は痛むし腫れるかも」「あい、かくごしてまふ」

 施術後。はい、腫れました。おたふく風邪みたいに腫れました。現在、まだ人前に出られない状況ですが、因縁の親知らず、ついに抜歯。三十年来お世話になっている〇〇先生、ほんとうにありがとうございました! それにしても、自分が納得できないと専門医のお薦めでも鵜呑みにできない私の頑固さのせいで、御迷惑をおかけした大学病院の先生、セカンドオピニオンをお尋ねした先生方にもこの場を借りてお詫び申し上げます。



 通りを走っていたら、昭和の雰囲気をたっぷり残したラーメン屋さんが一軒。看板には「よなきラーメン」の文字。思わず車を停めそうになったが、今の時間は閉まっている。

夜泣

iPhone 14 pro + Silver Efex Pro


 あれは昭和40年代のはじめ頃。幼稚園の年少ぐらいの頃の私はずいぶんと夜泣きがひどかったらしい。で、そういうときは、父が私をおんぶして駅まで連れて行ってくれた。汽車がホウムに発着するの見せると泣きやんだという。で、帰りに駅近くの屋台でラーメンを食べさせて貰った。

 「よなきラーメンだよ」と父は言った。「よなき?なんでよなき?」「チャルメラの音を夜に鳴らしているから夜鳴き」と父親は説明してくれた。「よる、なるから、よなき?」「そう、でも、ナオトくんが、夜、泣きべそかいた後に食べるラーメンだから夜泣き、かな?」

 優しい父の背中を今でもよく覚えている。



 早いもので、義父が亡くなってはや半年以上が経過した。遺影に手を合わせながら、この写真を選んだ去年の初夏のことを思い出す。柔らかな表情の写真がなかなかなくて、唯一見つけたのがこの一枚だった。実の父親や母親の時もそうだったが、いちおう写真はセミプロのつもりなので、遺影をどれにするのかどのように加工するのかを葬儀屋さん任せにすることはない。すべて自分でトリミングし若干の修正を入れ、そして、背景を抜く。それを普段通り他の写真と同じように淡々とやろうとするのだが、遺影の場合は簡単にはいかない。その理由が今ひとつ分からないでいたが、先日、平野啓一郎さんの『空白を満たしなさい』を読み直していて、なるほどと思った。遺影から背景を取り除く行為はやはりちょっと特別なのだ。

「遺影も背景を消しちゃうからね。だから、亡くなってすぐに見つめることが出来るのかな。もうこの世にいない人って、わかるから。……背景が無いから、誰にとっても自分との分人に見えるのかな?……」
平野啓一郎『空白を満たしなさい』(下)(講談社文庫)p.212


 写真館で撮影する場合は別として、通常、写真というのは誰かとその特有のシチュエーションのもとで撮られるもの。それを、すべての遺族にとってニュートラルなものへと抽象化させるために加工するのだから、難しいのも当然かもしれない。

 改めて、合掌。

遺影




 書庫の整理をしていたら35年前に買った文庫本が出てきた。森瑤子さんの「渚のホテルにて」。買ったときの領収書がそのまま挟んであった。栞がわりに使っていたらしい。購入したのは代官山文鳥堂書店。今はない。日付は昭和62年5月6日。

森瑤子

Nikkor-P 10.5cm f2.5 ( S mount) + α7s


 26歳のゴールデンウィークに、僕はこの文庫本を読みながらいったいどんなことを考えていたのだろうか。「渚のホテル」のイメージを追い求めて、取り壊しになる直前の逗子のなぎさホテルまで車を飛ばそうとでも思っていただろうか? 森瑤子さんの官能的でアンニュイな文章に耽溺していたあの頃。

 35年ぶりに読み返してみると、第三章の「ウィークエンド」などは特に、複数の登場人物のセリフとそのト書きが過去と現在で交差し合って、シアターの桟敷席から上質な演劇を見ているような、そんな空気感に溢れた筆致である。改めて脱帽。



 人生100年時代。日本人の平均寿命は男性でも80歳を超えている。でも、いくら長生きしたって人に迷惑をかけるのでは意味がない。ということで、最近は平均寿命よりも健康寿命と言われることも多い。となると年齢がグッと下がって男性だと70歳ちょっと。なんだ、あと十年もないじゃないか、亡父が亡くなったのも71歳だし…と「死」はあっという間に身近なものとなる。

 では、まずはその健康寿命とやらを引き伸ばそう。何人かの人に、テニスは健康寿命を延ばすのに最適なスポーツなんだよと言われたことがある。シメシメ、もうかれこれ20年ぐらい毎週テニスクラブに通っている。テニスってけっこう特殊な部位の筋肉を酷使するし、健康スポーツってイメージがいまひとつ湧かないのだけれど、たしかに全身運動だしアタマも使うから認知症になりにくいのかも。

 60歳を過ぎて、いよいよいろんなことを考えなくてはいけなくなってきた。正真正銘の下り坂である。人に迷惑をかけることなく健康寿命を維持するのはもちろんのこと、もうひとつ、いやそれ以上に「寿命」の基準として自分が大切に思っていることがある。それは「演劇的生活寿命」とでも言えばいいのだろうか。毎日をただ単に日常生活の繰り返しだけに終わらないための人生の時間があとどれだけ残されているかということである。

 70歳になっても80歳になっても(ものすごく上手くいったら90歳になっても)、毎日毎日前頭葉に新たな想念が湧き、いたずらっ子のように企んで、家族や仲の良い友人たちとチャーミングな嘘をつき合える、そんな老人に私はなりたい。そのためには、まだまだ読むべき本は無尽蔵にあるし、訪れるべきリアルな場所も尽きることはない。

flower

Sonnar 5cm f1,5 (c mount black/nickel/chrome, pre war) + M10-P




 先日、某広告専門誌の方から取材を受けた。研究者としての今までの自分の履歴とこれからの専門領域についてのインタビューである。自分は実務家教員であり、アカデミズムの世界でずっとやってこられた他の研究者のみなさんのように系統だった学術的履歴は持ち合わせてはいない。ので、こうした話ができる資格は毛頭ないが、恥を承知ではるか昔を思い起こすと、高校生の頃、オスカー・ワイルドに傾注し原文を読み耽っていたのが最初なのかもしれない。その後、一浪して大学に入るまでいろいろあったが、大学では尊敬する河村錠一郎先生のゼミに入り、そこでマニエリスム美術や世紀末芸術に心酔した。シュニッツラーの小説を読み、セセッションの美術に憧れた。

 だから、もしも自分の研究の原点みたいなものがあるとしたら、おそらくはそのあたりなのだろうと思う。ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」やシュニッツラーの「夢小説」「闇への逃走」等のペエジを開く度、今でも特別なトキメキがまざまざと甦ってくる。彼らの生きた時代の空気を吸いたくて、ロンドンのサヴォイホテル周辺やウィーンのリング通りを徘徊したこともある。また、日本近代文学では、中学生の頃からずっと太宰治と中原中也に恋い焦がれ続けている。ワイルドやシュニッツラーとは一見関係なさそうにも思えるが、その根底に共通して流れているのは「芸術至上主義」への憧れではなかったか。

 さて、これからの自分の研究は、まずもって専門領域である広告コミュニケーション分野のクリエイティブ論やデザイン論の深度を高めていくことにあるのは言うまでもないが、その合間を縫って、今まで自分が直感的に興味を持ち続けてきたこうした文学や美術と広告芸術の繋がりを模索し学際的に体系化することができたらと思っている。そのヒントはやはり「芸術至上主義」にあるのではないかと改めて気づくことができたインタビューだった。

 話は脇にそれるが(でも、ひょっとしてこれも関係あるかも)、自分が1920年〜30年代の古いコンタックスやライカのヴィンテージカメラの、あの黒とニッケルの色合いにどうしようもなく心引かれるのも、その色味とデザインがウィーン分離派の流れを受けているからではないだろうか。以下、竹田正一郎著『コンタックス物語』の冒頭の蠱惑的な文章を引用しておく。

 パリのカフェでの談笑が被写体になり、ベルリンのキャバレーの舞台に人はカメラを向けた。音楽、ざわめき、シャンパングラス、キャビアのサンドイッチ、照明の輝き、香水の匂い、ボブ(断髪)、燕尾服の給仕、紫煙、ビロードのドレスの胸のスミレのコルサージュ(花束)、「コンタックス」や「ライカ」は、これらの都会の風物の、一部となったのである。

 しかしそれと同時に、カメラは世界の深層に下りてゆく道であり、過去と死に通じる手段でもある。ヴァルター・ベンヤミンが指摘するごとく、それは精神分析がわれわれの内部から無意識を引きずり出すように、世界の中からもう一つの世界、つまり世界の無意識とでもいうべきものを、引きずり出すのに貢献している。つまり撮影のときに見えていなかったものが、写真によって明らかになり、それによってわれわれは、世界の中に埋没していた深い世界、普通に見ているときの世界よりも、もっと複雑でもっと大きい世界があることに、気づかされるのだ。


竹田正一郎著『コンタックス物語 ツァイス・カメラの足跡』(朝日ソノラマ、2006年)より





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