naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: life



 年齢を重ねるにつれ、世界を見る画角が狭くなっていく。写真家の高梨豊さんはレンズの焦点距離と年齢の関係について興味深い説を唱えていたらしい。60歳のひとには焦点距離60ミリあたりのレンズあたりが相応しいとのこと。でも、そう言われると天邪鬼な私は俄然反対のことがしたくなる。最近よく使うレンズは、広角・超広角ばかり。エルマリート28ミリ、ビオゴン21ミリ、スーパーアンギュロン21ミリ、ルサール20ミリ。年齢換算すれば20歳から28歳向けのレンズということになろうか。

 望遠で切り取れば余計な物は写らない。さすれば精神も安堵するというものだ。でも、予期せぬものがノイズとしてどこかに写り込んでいるかもしれないからこそ世界は面白いのではないか。きちんと結像して見えるのは中央の部分だけかもしれない。周辺部は滲み、ぼやけ、歪み、流れているかもしれない。
 それでも、ひとはパースペクティブに世界を見つめ続けないとダメだと思う。そう自分に言い聞かせつつ、今日も、シャッター幕にレンズガードが抵触しないかとオドオドしながら、後玉が突き出た対称系のレンズをカメラのマウントに取り付けてみたりする。ま、後玉フリークなだけという説もあるがw

21ミリ

Super Angulon-R 21mm f3.4 + α7s + Color Efex Pro



 八月もあと一週間ほどとなった。今年もそろそろ夏の終わりである。案の定、蜩は「カナカナカナ」と鳴いている、ように聞こえる。実際は「キキキキ」であるが。あるいは「ケケケケ」であるが。
 でも、昔から蜩は「カナカナカナ」と鳴くものと決まっている。「哉、哉、哉」。こういうのを「聞き倣(なら)し」と言うそうである。意味が先にありきで聞こえる音を解釈してしまうこと。
 蜩は「日暮」とも書く。日を暮れさせる蝉、ということだろうか。まあ、確かに朝夕にしか鳴かないようであるが。そして、夏の終わりに鳴く蝉というイメージが定着している(実際は6月ぐらいから鳴いているようであるが)。だから我々は、ちょっと「哀」しくなって、ちょっと人生そのものの諸行無常を感じたりして、詠嘆の間投詞を綴る。「哉、哉、哉」と。

 八月もあと一週間ほどとなった。ここぞとばかりに蜩の鳴き声が茜色の中に響き渡る。「キキキキ」と。あるいは「ケケケケ」と。それを我々は勝手に「カナカナカナ」と置き換えて、今年も夏の終わりを感じようとしている。

 *百合の花もそろそろおしまい。

百合

G.Zuiko Auto-S 40mm f1.4 + α6000



 久しぶりの38度である。コロナワクチン二回目接種後2日目のことである。事前に友人からけっこう辛いと聞いてはいたが、2017年の1月にインフルエンザを発症したとき以来である。両目の奥の頭重、首筋から肩のひどい張り、腰痛、関節痛。足が異様に冷える。冷房を消した蒸し暑い部屋の中でも汗がかけない。
 まあ、こんなことも予想して、原田マハさんの『リボルバー』をベッドサイドに置いていたのだが、どんなに内容が面白くても文字を読むこと自体が辛い。ので、馴染んだサリンジャーの短編集『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワーズ16、1924年』を手に取ってみる。特に好きなのが『ぼくはちょっとおかしい』で、退学になってしまったホールデンが60歳を迎えた恩師のスペンサー先生の自宅にお別れの挨拶に行く場面である。

「そして、ぼけたような状態なのに、楽しそうだ。それにしても先生はいったいなんのために生きているんだろう、もうすべてが終わっているのに、と思ったりすることがある。だけど、それはちがう。考えすぎだ。(中略)ときどき、老人のほうがうまい生き方をしているような気がする。ただ交代したいとは思わない。」

「人に先んじようとするなら、人生に適応していかなくちゃいけないとか。」

「まだ会っていない女の子が好きだ。後頭部しかみえない女の子がいい。」

 なるほどね、人生、先んじるためにまずは適応か。名言である。あと、『ハプワーズ16、1924年』に出てくる、

「理想的というのは完璧とはまったくちがう。「理想」というのは人類の幸福のために大昔からずっと取っておかれたものなんだ! ぼくはそれを、希望に満ちた、理にかなったゆるさと呼びたい。ゆるさ、ぼくはこのささやかな、ゆるさが大好きなんだ。」

 これもすばらしい。でもね、……というところで意識朦朧となり(38度を超えたようだ)、たまらずカロナール(アセトアミノフェン)に手を出した。

 若い頃はよく熱を出した。あの頃はアセトアミノフェンじゃなくてまだアスピリンが主流だった。風邪を治すためにはアスピリンを飲んで厚着して大汗をかいて一晩ぐっすり眠る。すると翌日、頭の中がミントの葉っぱを噛んだみたいにすっきりとしている。夏の雨も上がっている。病みあがりと雨あがりとアスピリン。「まだ会っていない女の子」に出会える気がしたものだ。

 と、比較的余裕のある思考ができたのもここまで。あとは、Hallelujah。




(追記)おかげさまで、接種三日目の朝、回復いたしました。


引用文献:
J.D.サリンジャー / 金原瑞人(訳)『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワーズ16、1924年』(新潮社、2018年)

引用箇所:
『ぼくはちょっとおかしい』p.24,25,34 『ハプワーズ16、1924年』p.223




 この春からうちの学生さんも企業に勤めることになったが、コロナ禍が続いていて研修もテレワーク中心である。これからの時代の企業における勤務形態、オフィス環境はいったいどうなっていくのだろう?

 数十年前、自分が新入社員だったときのことを思い出してみる。今も昔も、企業で働くということは、学生時代とは一線を画した別次元の集団生活の中で、今までとは違うパブリックな自分になることを意味する。でも、公私の境は完璧に区分されていたわけではなく、バブル前夜ということもあって5時半過ぎても残業があるのは日常茶飯事だったが、あの頃の5時半を過ぎた後のオフィスの雰囲気は悪くなかった。
 スマホもケータイもない時代である。プライベートの電話もオフィスの固定電話にかけるしかなかった。新入社員君にも恋人から今夜のデイトのお誘いが。……その電話を運悪く職場のセンパイに取りつがれてしまうと「○○く〜ん、カノジョからデンワ〜」。職場の人たち全員が耳をダンボにしている前で、新入社員君はワザとぶっきらぼうな電話応答をしなければならなくなる。
 あるいは、最近ちょっと気になり始めた同じ職場の女性社員が5時半のチャイムと共にダッシュで帰路に着いたのを知ると(当時は、帰宅する際に出退勤簿に手書きでサインをするのだ)、あんなに急いでこれから誰とどこに行くのだろうかと新入社員君のココロがざわめく。

memories

 当時のそうした職場の感じ、悪くなかったなあと思う。仕事をする公共の場がちゃんとリアルにあって、でも、そこでは公私が割とおおらかに混ざりあって……、だからこそいろんなドラマが生まれたのだし、自分自身で自在にオンとオフを切り替える面白さがあったのだ。
 さて、これからの時代。このワークスタイルの大きな変化に現代の若者たちはなにを思い、それにどのように対処しながら新しいドラマを作っていくのだろうか。我々世代とは違う感性とやり方で、自分たちのアドレッサンスを愉しんで欲しいと切に願う。



 昔からの友人に「オマエ、若い頃からずっと耽美派のままだよね」とからかわれることが多い。ようはいい年をして相も変わらず社会性が足りないということなのだろう。おっしゃる通りかもしれぬ。でも、それって自分固有の特性なんだろうか。ひょっとしてそれは、80年代に青春の真っ只中にあった我々世代全体に共通する特性だったりするのではないだろうか。近頃、ふとそんな風に思う。
 あの頃、我々の最大の関心事は「社会」ではなく「個人」にあった。「個人」対「個人」、そして、その究極が「恋愛」だった。今から思えば、我々はかなりの時間とお金と戦略と情緒を「恋愛」に惜しげもなく注ぎ込んでいたのではないだろうか。誠心誠意、ロマンティックに身も心も捧げていたのだ。耽美的に。

 1981年に大橋純子が唄った「シルエット・ロマンス」(作詞:来生えつこ、作曲:来生たかお)の歌詞の一節は「ああ あなたに 恋心盗まれて もっとロマンス 私に仕掛けてきて ああ あなたに 恋模様染められて もっとロマンス ときめきを止めないで」であり、1985年にC-C-Bが歌った「Romanticが止まらない」(作詞:松本隆、作曲:筒美京平)の歌詞の一節は「誰か Romantic 止めて Romantic 胸が 胸が 苦しくなる 走る 涙に 背中 押されて Hold me tight せつなさは 止まらない」である。
 あるいは、1984年にアン・ルイスが唄った「六本木心中」(作詞:湯川れい子)、1986年に中森明菜が唄った「DESIRE-情熱」(作詞:阿木燿子)、どちらも曲のタイトルや歌詞がきわめて刹那的かつ耽美的。そして、どちらの曲もリードギターがむせび泣く。

 時代はその後80年代の後半に入り、いわゆるバブル期を迎えるわけで、そうした社会動静の中で、どうして我々の嗜好がかくも耽美的、刹那的、アンニュイな方向に向かっていたのか。改めて80年代の文化論を研究してみたくなるのである。自分自身の青春の出自を見つめ直すことも兼ねて。

yellow

Oplar 5cm f2.8 + FOCA PF3☆ + Fuji100 +Color Efex Pro






 本日誕生日を迎えました。くぅー、還暦だそうです。60歳だそうです。目眩がします。クラクラ。

 けっこう長い時間を生きてきましたのでね、このくらいのトシになると、正直言って「昔恋しい」ときも多いです。でもこの一年、おかげさまで、今までにない自分を規定してくれる新しい「他者」、新しい「物語」にたくさん巡り会うこともできました。「我ン張」らなくてはと思っておりマス。はい、中原中也の「頑是ない歌」のごとくです。

 思えば遠く来たもんだ 此の先まだまだ何時までか 生きてゆくのであろうけど 
 生きてゆくのであろうけど 遠く経て来た日や夜の あんまりこんなにこいしゅては 
 なんだか自信が持てないよ さりとて生きてゆく限り 結局我ン張る僕の性質(さが)


 「頑是ない歌」、大好きな作品のひとつですが、こうして読み返してみると、今の自分の半分以下の年齢で、既にこれほどのノスタルジーと達観を決め込める中原中也はやっぱり天才だわいと、改めて恐れ入ってしまう訳です。

 長く生きていると、どうしてもその分、自分のアイデンティティなるものを勝手に作り上げてしまいがちです。還暦を迎え、これからはそういうものをどんどんユルくしていけたらなあと思います。あるいは、九鬼周造言うところの「そこではまだ可能が可能のままであったところ」に遡っていけたらなあと思っています。

 それにしても。神社に行って厄年年齢表なんぞを見たりすると、なんと60歳は男も女も厄年なわけでして、還暦になった人がみんな厄年というのもなんだかなあと思ってしまう今日この頃です。「思えば遠く来たもんだ」

 *本日は、本務校の卒業式。近くの野川の桜はほぼ満開でした。 

野川

Elmarit 28mm f2.8 2nd + fp







 



 また、右眼が痛いのである。

 去年の夏、右の眼球を傷つけてしまった。不注意にも紙の束が眼に入ってしまって、まるでブニュエル監督の「アンダルシアの犬」の冒頭シーンみたいに(というのは大げさであるが)、サアっと角膜を鋭利にトレースされるのが自分でもわかった。翌朝、大きな異物が混入したような痛みで眼が開けていられなくなり涙がとまらず、眼科に行った。「ああ、たしかに角膜に傷が付いてますね。線状に上皮が剥がれています。これは痛いでしょう。でも、眼球も他の皮膚と同じです。擦り傷が次第によくなっていくように一週間もすれば徐々に治っていきますからと」と点眼薬をふたつ処方してくれた。「ティアバランス」という角膜の傷を治す成分のものと「ガチフロ」という炎症止めの抗菌剤である。確かに、一週間程度で痛みは治まっていった。時折違和感は少しばかり感じるものの、幸いにも傷は黒目の部分にはかかってないようで視力に影響はない。

 しかし、十一月頃からまた痛みがぶり返してきたのである。夏に行った眼科医は「また別の場所が傷ついたのかも」とのことだったが、なかなか痛みが治まらないので別の眼科に行ったところ「正式の病名は、再発性角膜上皮びらんです。半年前の傷が再発しているんでしょう。冬になって空気が乾燥してきたことも原因だと思われますが、ちょっとしたことで、せっかく埋まったはずの角膜の上皮の傷がまた剥がれてしまうんです」とのこと。治療方法は同じだが、痛みが治まっても当分は点眼を欠かさない方がいいというアドバイスを受けた。「あの、先生、コンタクトはいつ頃からまた付けられるようになりますか?」「……もう、お付けにならない方がよろしいかと」

 昨年末のこの宣告はちょっとショックであった。ふだんは眼鏡ばかりであるが、スポーツ、特にスキーをする時にはソフトコンタクトが欠かせなかったのだが、それももうダメである。そして、最後に先生が言ったひとことが身に染みた。「加齢とともに角膜の傷も治りにくくなります。そして、治ってもちょっとのことで再発してしまいます」……眼球だけではない。年を取ると、体中のどこもかしこも、一度でも怪我や病気をするとなかなか完治しないということなのだろう。もう無茶はできないのだ。六十歳が間近なことを身をもって知らされる「再発性角膜上皮びらん」である。



 今年は丑(うし)年である。自分の干支と同じ。ということは、年男? ということは、つまり……。そうなのである。今年の誕生日で五回目の年男、還暦を迎えるのである。(目眩がしますw)
 昔、実家の和室の床の間に二頭の牛の置物が飾ってあった。大きな牛と小さな牛。父が昭和四十年代に買ったものである。私は父が三十六歳の時の子で、どちらも干支が同じなのである。親牛と子牛。

 さて去年は、……六星占星術によると私は去年から大殺界に入っているのだが、全世界がパンデミックな状態で、どこまでが自分ひとりの運気の問題だったのかまるで見当がつかない。

 そんな中、大学の研究分野では論文をひとつ仕上げた。現代の広告クリエイティブにおける実在論的傾向に関する考察で、今年2月に公開予定。そして、引き続き次の論文ももうすぐ第一稿があがる。(こちらは竹久夢二のノスタルジア研究)大学の授業も試行錯誤の連続だった。でも、オンラインだってここまでのことは出来るという目処が自分なりには付いたと思っている。ご多分に漏れず個人でお受けしている仕事は激減した。これから、大学の教育と研究と個人の仕事の両立をどのように図っていくべきか、思案のしどころではある。でも、戸惑っていても何も解決しない。事態が安易に元に戻るとは考えない方がいい。去年一年間でこの世界の価値観が大きく変わってしまった。今年もそれを受け入れて前に進むだけである。

 年末年始は安藤鶴夫さんの古い小説なんぞを読んでいた。『巷談 本牧亭』。この作品が直木賞を受賞したのは昭和三十八年。私が生まれた二年後である。親牛が若かった頃の時代の匂いを嗅いでみたくて。親牛は六回目の年男を迎えた年に(誕生日を迎えることなく)この世を去ったが(生きていたら今年八回目の年男)、さて、子牛の方はいかに。


 
 男の私に対しては、姉ほどの思い入れはなかったのかもしれない。けれども、姉と同じように、小さい頃から、よくもまああれだけのものを当時の地方都市で見つけ出せたと感心するくらい、たくさんの習い事を見つけてきては私にあてがった。習字、ピアノ、シロフォン、少年合唱団。それだけではない。パリ帰りの画家先生を見つけてきて、油絵も習いに行かされた。毎週、先生のアトリエに行って風景画や静物画を描かされる。今でもテレビン油の匂いを嗅ぐとあの頃のことを思い出す。かといって、母は私を芸術家にさせたかったわけではないのだ。
 中学に入ってからは、弁護士になれ、医者になれ、という定番のことを言い出した。で、まずは英語塾。そして、数学が苦手だと察知するやいなや家庭教師を探した。たいがいは当時大学生の姉のボーイフレンドたちが、弟の私を手なずけようとして(?)その役を買って出てくれたのだけれど。しかし、いくら家庭教師を付けられても典型的な文系のアタマしか持ち合わせていなかった私に数学や物理の上達は無理。それでも高校三年生の時、この母の思いに感化されたのか情にほだされたのか、理系に転向し(医学部を目指すためだ)、結果、案の定一年間棒に振って浪人生活を送る羽目になった。翌年にはさすがに母も諦めて、当初の予定通り文系の大学に再チャレンジすることを黙認するのだが、行きたいと思っている学部名を告げると、「そんなところに行って、将来いったいなんの役に立つと言うのかねえ」。でも、その母が美しい筆致で半紙に和歌を書いたり、古風な日本語で日記を綴っていたのを私は知っている。その後、私は東京の大学に通った後に広告会社に入社することになるのだが、幸い入社できたのが業界一位の会社だったこともあって母の自尊心はかろうじて満たされたようである。
 さて、私は東京で四年間一人暮らしをしていたが、私のアパートに母が訪ねてきたのはたったの一度きりである。それは、大学四年の冬のこと。その頃はまだマスコミの就職活動の解禁は名実共に秋以降で、当時は各企業からの合否の連絡は電話か電報のみで(メールなんてまだ存在しなかった)、本人不在時に代理で連絡を受けられるのは肉親に限られていた。ゆえにこればかりは近所に住んでいる友人にも、付き合っていたガールフレンドにも頼めず、やむなく母に上京して来てもらうことにしたのだ。当時私が住んでいた下宿は井の頭公園のそばにあって、母は部屋を見るなり、「なんて古くさい部屋なのかねえ」と感想を述べた。ベッドも机もクローゼットもアンティークの家具で揃えていたのが彼女のお気に召さなかったらしい。「若者らしくない部屋だねえ。それに、このアパート、駅から遠過ぎる。なんでこんなところをわざわざ選ぶのかねえ」。でも、この部屋の窓からは井の頭公園が一望だし春には公園の桜が散ってベランダが花びらでいっぱいになるんだ、などと私が言っても、「風流なことだねえ。でも、そういうのがいったい何の役に立つと言うのかねえ」。あの時、二十一歳の男と五十三歳のその母親という、なんとも居心地の悪い組み合わせのふたりが狭い部屋の中で数日間いっしょに寝起きをともにし、いったいどんな話をしていたのだろうか。今となっては詳細を思い出すことはできないが、なぜだか一言、私は母に「ありがとう」と言ったことだけは覚えている。母はなんのことだかと怪訝な顔をしていたが。おそらくあの時、私はそれまでの人生の中でいかにたくさんのチャンスを母から与えられ続けてきたのか、そのことを改めて思い起こしていたのだと思う。習字もピアノもシロフォンも少年合唱団も、そして油絵も、それらがみんな現在の自分の糧になっていることを直感的に理解したからもしれない。
 そんな母は、父が死んでから十六年間、ひとりで大垣の家に暮らした。「よお、未亡人」と私がおどけて声をかけるとまんざらでもない顔をしていた。父の残したいくばくかのお金で生活に不自由することはなかったが、預金通帳の金額が増えることがいっさいなく、ただただ毎日減っていくだけのを見ているのはなんとも恐ろしいものだ、と言っていた。やはり姉か私と同居したかったのではないだろうか。でも、それぞれの配偶者に気をつかって生活するのはイヤ、ひとりの方が気ままでいい、というのも本音だったろう。思ったことをズバズバと、イヤなものはイヤ、と言い切る母。それは美人に生まれついた女性の特権か、はたまた業だったのか。
 その母は八十三歳の時、自分の母親と同じ悪性リンパ腫になった。姉や私が病名の告知に立ち会った時、彼女は「先生、直してください!」と気丈に言いつつも、自分の母親と同じ病気と知って「やっぱりなあ」と覚悟をしていたようでもあった。夏に入院して、その後、計七回にわたる抗がん剤治療で血液中のほとんどのがんが寛解したが、翌年の春に脳に転移をしてしまい、処置の施しようがなくなった。
 大正十四年生まれの父と昭和五年生まれの母が結婚したのは昭和二十五年と聞いているが、戦後、ふたりはどのように出会い、どのような約束をかわしながら家庭を築いたのだろうか。父が母の実家近くに下宿していたことが縁だったという話を姉から聞いたことはあるが、それ以上の詳しいふたりのなれそめは知らない。母が自分の父親が持ち込んできた縁談を断るために父と駆け落ちした、なんて話を誰かから聞いたこともあるが、真偽のほどはわからない。その秘密はそのままにしておいて、最後に、以下のようなふたりの新婚直後のエピソードをもって両親のことを語るのはいったん終えることとしたい。この話を私は、母が亡くなる四年前の春、珍しくふたりで根尾谷へ花見に行ったときに聞いた。薄淡桜はもうほとんど散ってしまった後だったけれど。

 戦後まもなく結婚したふたり。父は若くして奮起し自分たちのマイホームを建てた。ある日、その新築の家を留守にして、ふたりは夕刻、近くのダンスホールに行った。母は流行のモガ系のファッションに身を包み、父は髪をリーゼントでキメて白いエナメルの靴を履いて。そして、ダンスホールから帰ってくると自分たちの家に明かりが灯っているではないか。あら、消し忘れて出てきたのかしら?
 ところが、どうやらそうではなかったのである。裏口から覗いてみると、居間に見知らぬ男が座っていた。なんと、泥棒である。そして、その泥棒は、ふたりが帰ってから食べようと戸棚にしまっておいた鮭の切り身の焼いたのをむしゃむしゃと食べていたのである。父はその現場に踏み込んだ。泥棒は逃げるに逃げられない。母は泥棒の顔を見た。なんとも気の弱そうな顔をしていた。ふたりは怒るタイミングを逸してしまった。まあ、いいんじゃない、と彼女は言った。他には何も取られていないようだし。そうして三人で食卓を囲むことにした。「どこのどなたか知らないけれど、ここに白米も少しだけならあるわよ」。

 なんともなごやかなエピソードである。おそらく昭和二十年代にはそういうことも起こり得たのだろう。それにしても、気性の激しい母の人間としての優しさ、柔らかさの一面を感じさせてくれるエピソードである。自分が生まれるずっと前に、父と母がそんな素敵な若き日々を送っていたことを知って私はとても嬉しく思った。
 でも、時は残酷そのものである。そんな若き美しき日々も、やがては跡形もなく消え去っていく。そして、最後にひとは誰もが白骨となるのだ。まさに「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」(蓮如上人)である。残された者にできることは、せめて野辺送りに相応しい場所を彼女にかわって探すことぐらいだった。深い山の懐へ彼女の魂が帰って行ってくれたのなら、と思うばかりだ。



 今年もあと二日で終わりである。夏に父のことを書いた。では、寒波が近づきつつある年の瀬に、母のことも。

 私の母は大垣市の船町に生まれた。四人姉妹(ひとりは弟)の次女。昭和五年生まれ。終戦の時は十五歳。女学校に通っていたときの写真が何枚かある。美少女である。理知的な目をしている。そして、とても意志が強そうな表情をしている。
 とにかく、物事をハッキリとしないと(そして言わないと)気が済まないタチのひとだった。イヤなものはイヤ。おべっかは使わない。近所に年の少し離れた姉が住んでいて、ときどき遊びに来ていた。実家を弟が継ぐようになってからは互いに行き来もあったようだが、せいぜいがそのくらい。親戚付き合いも近所付き合いも好きじゃない。
 悪性リンパ腫で五十代に早世した自分の母親のことをとても慕っていた。のちに、母自身もこの同じ病気で八十三歳の生涯を閉じることになる。反対に、自分の父親のことはあまりよく思っていなかったようだ。
 物心がついた後の私が知っている母は、とにかく美しい人だった。そして、激しい人。同時に憂鬱な人。佐久間良子に似ている、とよく言われた。小学校の授業参観の時には級友たちに羨ましがられた。でも、来ないときも何度かあった。母は何度か入退院を繰り返していた。私が中学生の頃はとくに多かったように思う。入院といっても器質的な大病を患っていたわけではない。食欲不振とか吐き気とか頭痛が続くといった不定愁訴で、そうした症状が出始めると母はさっさと自分で荷物をまとめて病院に電話をかけ、院長先生と交渉して入院手続きを取る。そして二週間ほど病室に入り、元気を回復して戻ってくるのだ。ある意味、入院することで日常のストレスを解消しているようにも思えた。
 健康面でなにか不安なことがあったら、すぐに病院に行って検査を受ける。胃カメラでも大腸カメラでも、脳のCTスキャンだってなんだってあっという間に済ませてしまう。すぐに結果を知りたい人だった。ウジウジしているのが大嫌い。「果報を寝て待」ったりはしない。ノロノロしているひとを見ているとイライラする。口癖は「はよ、はよ」(早く早く)である。「はよ、まわしせんかね」(「まわし」も岐阜や名古屋の方言で「支度」の意)。家に帰るとき、家に近づく百メートルも手前から既に鍵をハンドバックから取り出している。鍵に付いていた鈴の音を聞く度に、隣にいる私は、ああ、また母はせっかちにこんなに早くからもう家に帰る「まわし」をしているのだなと思ったものだ。
 父にも喧嘩っ早くて短気なところがあったが、母の場合はレベルが違った。ふたりが仲違いをするときはいつも決まって先に啖呵を切るのは母の方である。あれは私が小学校の五年生頃だったか、家族でドライブをしていて車中で父と母が口論になったことがあった。場所がどのあたりだったかは定かではないが、他の車が全く通らない山間の淋しい道でのこと。突然、母は「ここで降りる!」と宣言すると助手席のドアをバタンと閉め、ひとりで山奥に向かって歩いていった。父はクルマを徐行させながら窓を開けて体を乗り出してしきりになだめているが、母は頑としてクルマに戻らない。「ついてこないで」。時刻は五時を過ぎ、もうすぐ日が暮れる。次第にまわりの視界が暗くなっていく。そんな中、母はひとりでどんどん薄闇に向かって歩いて行ってしまう。それを、後部座席に座っていた私はじっと見つめていた。今でも鮮明に脳裏に残っているのは、あのときのシャネルスーツを着た母のすらりときれいに伸びた脚とマロン色をしたハイヒールである。
 母は料理をつくるのがあまり好きではなかったようだ。朝食はいつも同じメニュー。厚焼きのトーストにハムとゆで卵、飲み物はアッサムティー、デザートはイチゴが五粒と決まっていた。昼は、夏は冷や麦、冬はうどん。夜は何を食べていたのだろう? ハンバーグ? エビフライ? 残念ながら、これぞ母親の味というような料理を思い出すことができない。ただ、日曜日の昼によくつくってくれたお好み焼きのことだけは覚えている。大きな鉄板プレートの上で小麦粉をしゃもじの裏側でのばして焼くのだ。母のお好み焼きはソースを使わない。醤油で味付けをして、乗せる具も薄切りの豚肉とネギとショウガぐらいで、京都の一銭焼きみたいにさっぱりとしていて何枚でも食べられる。でも、それ以外の料理のことはなかなか思い出せない。その代わり、父とふたり、今日はどこで何を食べようかと外食の相談をしていた記憶ばかりが残っている。
 しかし、同じ家事でも掃除は大好きだったようである。というよりも、几帳面にいつも掃除機ばかりかけていた。父や姉や私が服を脱ぎ散らかしたり、あちこちにモノを置いたりすると、次の瞬間、それらはたちどころに洗濯機や戸棚の中に収まっていく。カオスが許せないのだ。おそらく、母は何事につけてもかなりの潔癖症だったのでないだろうか。
 そんな母が生涯かけて一番熱心にやってきたこと。それは、自分の子どもたちに対する教育だったのだと思う。まずは、私の姉に対して。姉は私より九歳年上で、私が小学三年生の頃には既に高校生。県内一の進学校に入学していた。彼女は父の運動神経の良さを受け継いで陸上競技の選手だったし、幼い頃からピアノレッスンを続けていて、音楽大学に入ってプロになる可能性も十分あったという。けれども、彼女は陸上競技やピアノでプロになることはやめて進学校を選んだ。それには母の強い意志が働いていたのかもしれない。これからの女性は職業婦人として自分ひとりの力で稼ぐ力を身につけなくてはならない。そのためにはまずは学歴を積み重ねることが大切。それが将来安定した収入を得る最善の道。ピアニストになるというのは母にしてみれば賭博性が強すぎたのだろう。
 母は自分がやりたくてできなかったことを自分の娘に託したのであろうか。戦中戦後のあの状況下で、女学校を出てからも学問を続けるのは困難なことであったろう。自分の父親に学問の道を閉ざされてしまったのかもしれない。その後、父と結婚して専業主婦になるが、自分の娘には、男に引けを取らない学問と教養と身につけさせ、安定した収入を稼げる職業に付いてもらいたかったのだろう。

(続く)

このページのトップヘ