naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: daily life



 非常事態宣言が解除になって、東京の街はまたまた人で溢れ始めている。で、けっこうなパーセンテージでマスクを付けない人の数も目立ってきた。ランニング中にマスクをしてたら熱中症になりかねないとか、マスクでどこまで飛沫感染を防げるのかその精度が疑問、といった考え方もわからないではないが、万が一でも自分から相手に感染させることがないよう、その意思表示のためだけにも完全に終息するまでは外出時にはマスクをすべきだと思うのだけれど。

 さて、私自身はマスクをつける生活が完全にスタンダードになりつつある。ファッション性も気になるので倉敷の工房からデニムマスクも購入した。で、そんな生活が2ヶ月以上も続くと、実はこっちの方が理にかなっているような、外出先で他人に自分の「口」を見せたままにしていた今までの生活スタイルの方が不自然なような、そんな気分にもなってくる。よくよく考えると、「口」およびその奥に拡がる口腔というのは、呼吸もするし食物も摂取するし、はたまた愛情表現のメディアにもなるし、これはなかなかに多義的でそれゆえにこそなかなかにエロティックな存在ではないだろうか。イスラムの女性たちが外出時にはニカブやブルカといった黒布のフェイスマスクを常時付け、家族以外には口も鼻も見せないという風習を思い出す。

 そんなことをぼんやり考えていたら、クラシック音楽のプロデュース・ディレクションをやっている友人の方から、こんな素敵な動画を紹介してもらった。黒マスクを付けた黒ずくめの衣装のソプラノ歌手の表情とマスク越しの歌声が、なんとも。。座ったままというのがまた。。



 なんでもかんでもさらけ出して、それが自分のアイデンティティ(individual)いうのが近代以降の発想だが、それだけじゃ、美意識は深化しないよね?



 生まれた街の、今はもう廃業してしまったデパアトの入り口に、死んだ父親と母親が立っている。ふたりの後をついて行き、デパアトの誰もいない一階のフロアを抜けると、一機だけエスカレーターが動いている。でもそれはキューブのトンネルみたいなエスカレーターで、五十センチ四方の開口部に上半身を潜り込ませると、中には薄暗くて酸いた匂いが立ちこめていた。古くなったワインがあちこちに零れているような匂いである。こんなエスカレーターの中に入ったら体中に葡萄の滓が付いて服がダメになってしまうよ、というところで一度目が覚めた。(これが3時半頃のことか)次に、誰かの部屋で、僕はアンティックな瓶に入った香水を嗅いでいる。瓶にはゴールドのリボンが巻き付けられている。香水は昔流行ったゲランの「夜間飛行」みたいにとても濃密な香りだ。(これが5時半頃のこと)

autosleep


 深い眠りが3時間を超えて表示されたのは久しぶりである。このautosleep、本当によくできている。apple watch を手首にはめて寝るだけで、心拍数の変化等でレム睡眠、ノンレム睡眠の詳細な可視化が可能である。いったいどうやって? といささか疑問に思うのだが、朝起きた時に感じる睡眠実感と、夢を見たタイミングは見事にこのグラフと一致している。



 最近は、毎日がその日暮らしなのである。明日あさってのために今日何を準備すべきか、今日処理しなくてはならないことは何なのかで、小刻みに日々が過ぎていく。それは大学の授業の準備であったり、論文の準備のために読んでいる資料のとりまとめであったり、学生の皆さんへのさまざまなフィードバックであったり、講演やミーティングのための資料作りであったり。個人で依頼いただいている仕事のアイデア出しであったり、スタッフィングであったり、今書いている本の校正であったり。年末調整の準備であったり、確定申告のための各種インプット作業であったり、そろそろ生命保険見直さなくちゃの手続きであったり。そこに学会出張や講演や友人との旅行の日程が入ってきて、今週は健康診断も受けなくちゃ、インフルエンザの予防接種もそろそろ、あ、でも、このカンファランスはなんとしてでも参加しないと、そして、どうしてもあの小説だけは今すぐ読みたい!といった状況がずっと続いている。

 まさかこの年になってこんなふうになろうとは。五十も半ばを過ぎたら余裕シャクシャクの人生を送れるものと思っていたが、どうしてどうして。毎日が自転車操業なのである。日々コンテンツのインプット・アプトプットでいっぱいいっぱいなのである。なんなんだろう、この感じ。忙殺ではないけれど、没頭という訳でもないし。でも、この感じ、悪くないなと思う。この年でアタマとカラダをフル回転しながらその日暮らしが出来るなんて、とてもありがたいことなのだと思う。さすがに首肩の凝りが限界を超えているようではあるが。…



 ようやく大学の前期が終了する。はじめての経験だったこともあり、ズシリと半期の疲れがアタマと体の至る所に蓄積されているようだ。4月からの四ヶ月間で、学部で5コマ、大学院で2コマ。一時間半の授業が各々15回ずつなので合計すると105通り。その各々のコンテンツを作り込むのにも時間がかかったが、それよりもなによりも、担当させてもらったみなさんたちひとりひとりの思いというのか心情というのか、真情とまで言ってしまってもいいのか。それぞれ15名程度のゼミナールは担任制みたいなもので、それが1年から4年まで4クラスあるのである。ひとはひとの心を受け止めることにこそやはり一番ズシリとさせられるもので、そういうのはもちろん、家庭でも親戚の間でも、そして以前の会社においても当たり前のようにあったのであるが、ハタチ前後のみなさんの真情を受け止めるのは、今までとはやはり訳が違うのである。まだまだ原形質のカオスの香りがする、定形にプロット化される前の彼ら彼女らのピュアなクオリアに幾度驚かされたり、新たな発見をさせられたりしたことか。それがとても新鮮であり楽しくもあり、でも、時にかなりズシリとさせられて。同僚のみなさんに聞くと、一年目は特にそうですよー、と言ってくれるのだが。

 さあて、リセットしてリフレッシュして、また9月からしっかりと彼ら彼女らのクオリアを受け止められる状態にしておかねばと思う、今週は前期試験ウィークなのである。

ズシリ



 二年前、まだ五十半ばになる前に会社を辞めておいてよかった。最近、つくづくそう思う。とても良い会社だったのだ。でも、あのまま安穏とあの場所に居続けていたら、将来ロクなことにならなかったのではないか。会社では仕事にも恵まれた。部下にも恵まれた。おおよその指示を出せば優秀な若者たちがほぼ期待通りの動きをしてくれた。それをマネジメントと称するのなら私にもそうした能力が少しはあったのかもしれぬ。でも、直感的に思ったのだ。この先、もっと年を取ってからは会社で培った中途半端なマネジメント能力なんぞまったく役に立たなくなると。これからはもう一度「個」の力こそがすべてだと。如何に自分のプロフェッショナリズムを維持し成長させていけるのか。それをメディア化できるのか。ジェネラルな能力だけではこの先70歳まで食ってはいけぬ。そう思ったのだ、直感的に。

 でもまあ、今でも時折昔のクセで、書類のコピーぐらい誰かやってくれないものかと思ったりするのだが、大学ではそんな甘えは通用しない。コピーは全部自分で取るのである。普通のコピーはコストが嵩むからリソグラフを使ってまずは製版するのである。授業開始前のスクリーンや音響のセッテイングも自分でするのである。(と言いつつ、ああ、またMacbookのミラーリングの調子が悪いみたいです、助けてくださいーとAVルームに電話しているワタクシ。)研究費の精算も自分自身でこまめにエクセル表に記入するのである。(ま、これは当たり前かw)

 年を重ねれば重ねるほど、全部自分でやるのである。それが正しい年の取り方なのである。



 若い頃はカッコいいと思っていたが、近頃苦手になったもの。例えば、十二音技法の現代音楽、メタフィジカルなタイトルの哲学書、アヴァンギャルドなアート映画。

 でも、最近見た「ネオン・デーモン」は良かった。カニバリズムまで出て来て、これでよく上映許可が下りたものだと思うほど過激な映画だったが、圧倒的に映像が美しかった。



 近頃苦手になったもの。例えば、ミニマル過ぎるデザインの家具、これ見よがしのデザインホテル。コンクリイト打ちっ放しは特に勘弁だ。

 たぶん同じような理由で、最近はこういう店も苦手なのである。

 たまたま入った東横線沿線駅近くのお蕎麦屋さん。人気店のようで、平日の13時半を過ぎても店内は満席に近かった。ランチメニューは天丼とせいろのセット。とてもおいしかったのである。蕎麦はキリッとして香り高く、天丼の海老も野菜も上品な油で揚げられていて、タレも甘過ぎず辛過ぎず。これで1000円はお値打ちかも。器もモダン、店内のインテリアもモダン。

 で、このお店、BGMにジャズがかかっていたのである。ああ、昔はこういうの、オシャレだなあと思ってた時もあった。ジャズを聴きながら蕎麦を啜る。でも、最近はこういうの、ダメなのである。蕎麦は蕎麦屋らしい設えのところでズルッと啜りたいのである。天丼は頬被りしたおばあちゃんにテーブルまで運んできてもらいたいのである。こじゃれた演出はなにやら落ち着かないのである。

 こういうの、伝統に回帰したと言えば聞こえはいいけど、たぶん年を取ったというだけのことかもしれない。ちなみにこのお店、流れていたジャズはけっこう古いんだけどね。でも、ジョニー・ハートマンの甘いヴォイスで Dedicated to You を聴きながら頬張る海老天というのは、やはりどうも。。




 咽が痛い。チリチリ。咳が出る。コホンコホン。熱を測ってみたら37度7分。うぬ?微妙。とりあえず耳鼻科に行くことにする。まあ、流行の咽風邪ってところだろう。「念のため、インフルエンザの検査しておきましょうね」ということで、「ちょっとモゾモゾしますよー」鼻腔の奥の粘膜採取、その場で、3分。「…A型ですね」「え?」「ほら、ちゃんとクッキリ出てます。A型です」「でも、インフルエンザならもう少し高熱かと」「いろんなタイプがあります。時には36度台でもインフルエンザの場合があります」「…」「薬出しておきます。リレンザ使ったことありますか?」「いえ」「吸引タイプで早く効きます」

 ということで、ここに来てインフルエンザに罹患してしまったのである。何年ぶりだろう?軽井沢の奥の湯の丸スキー場で十年前ぐらいに罹患して以来である。

 これが吸引タイプのリレンザ。そうか、最近は内服のタミフルだけじゃないんだな。

リエンザ

 で、それからずっと大人しく寝ているのだが、全然熱が下がらない。38度5分。これはもうりっぱなインフルエンザである。どうしても辛かったからこの解熱剤を、と渡されたアセトアミノフェンに手が伸びる。頓服である。

 そう言えば、昔は頓服といえば、赤いパラフィン紙で包まれていたなあと思い出す。。今じゃ、処方箋を持って薬局に行くと「お薬手帳」がどうのこうの、ジェネリック推奨に賛同しますかしませんか。…なんとも味気ない。極めて資本主義的な分業である。

 あの頃は、薬はすべてお医者さんで配合していた。看護婦さんが臼のような容器のなかで薬をすりつぶしていた情景を思い出しているうちに、熱のせいで意識が朦朧となってきた。。

 ということで、みなさん、ここ5日間ぐらいは私に近づかないようにお願いいたします。



 雨の日は、たぶん、気分は憂鬱である。特に冬の、朝からずっと冷たい雨が降り続いているような日には身も心もぼんやりと停滞してしまう。外に出る気なんて毛頭起きない。部屋の中で、窓ガラスに付着する雨筋をぼんやり眺めながら、たぶん、薄い音量でかかっているのはミシェル・ペトルチアーニのピアノである。



 ネットで買った古本の(「程度:良い。ただし所々に経年のヤレあり」とコメントされている)カビ臭いペエジをパラパラとめくりながら、たぶん、今よりはずっとリリカルだった頃の小説を読んでいると、案の上、ぼんやりと眠くなってくる。で、昼日中からベッドに潜り込むことになる。ベッドの電気敷き毛布に下半身を横たえていると、なんとも分かり易く守られている心地がして、すぐに睡魔に襲われる。といっても寝入ってしまっていたのは正味一時間程度のことなのだけれども。

 日中の睡眠から復帰すると、案の上、偏頭痛が始まってしまっている。眠っている間に、たぶん頭の中の思考するための襞(のようなもの)の位相がズレてしまうのだ。微熱っぽい。憂鬱な気分が加算される。空はどこまでも灰色で雨は止む気配がない。ますます世界はぼんやりとしてくる。でも、こういうのは決して嫌いではない。偏頭痛は我慢できないほどではない。

 今日は、おそらくは今年はじめての憂鬱な、冷たい雨の降る真冬の一日。



 中高年の御多分に漏れず、ちょいとこだわりの文房具が好きである。万年筆は特に好きで、カランダッシュとかモンブランとかデルタとか、今まで人生の節目に買い集めたものがいろいろあって、さあて、今日はどれを持ち歩こうかと悩んでみたりするのが毎朝の楽しい習慣である。で、数年前にある知人から、モンブランは万年筆もいいけどボールペンも柄がドッシリしてて書き易いよ、よかったらこれ、あげる!と、なんと、頂いてしまったものがあって、以来それをありがたく日常使いをしてきたのだけれど、先日ついにインク切れをおこし、この度、銀座の大手文具店まで換え芯を買いに出かけることに相成った。

 売り場の方に相談すると「はい、モンブランの替え芯ですね、色は同じミステリーブラックでよろしいでしょうか」…奥のストックヤードから部品を持ってくるとその場で入れ替えをしてくれた。なんとも手慣れたものである。ところが、「あれ?」最後のところでうまくいかないようだ。新旧比較してみて「先端のネジのところの形状が微妙に違うみたいですね。おかしいですね…」「同じモンブランなのに形状にいくつかバリエーションがあったりするのでしょうか?こっちは古いタイプなのかな?」と私。担当してくれた人は売り場の他の方にも何人か聞いてくださったようだが、解決せず。「残念ながら私どもはこの形状のモンブランの替え芯は扱っておりません」とのこと。

 狐につままれたような気分で文具店を後にする。ブランドモノなのにその消耗品が形状違いで現在取り扱いがない、などということがあり得るのだろうか。頂いたものはよほど型が古いものだったのだろうか。…そのままモンブランの銀座本店に直行し、これこれこうで、と事情を説明する。「拝見いたします」…クールでハンサムなお兄さんは右ポケットから魔法のように新しい替え芯を取り出し、先ほどの文具店の方と同じように入れ替えを試みてくれたが、やはり先端のネジの形状が違うらしい。この時点で、クレバーな彼はもうピンと来たようで、今度は胸のポケットからルーペを取り出すと、芯も本体も子細に点検した後に「お客さま、大変申し上げにくいのですが、お客様のこちらのボールペンはモンブランの商品ではございません」「…」

 穴があったら入りたいというのはこうした状況を言うのであろう。なんと、このボールペンはニセモノだったのだ。こちらモンブランの本店では以前にもボエムの洗浄とか名入れとか、私もまあそこそこの顧客かも、などと思い込んでいたのに、ホンモノとニセモノの区別も付かなかったなんて。それにしても。このニセモノほんとうに良く出来ている。替え芯にもモンブランのロゴ表記、そしてメイド・イン・ジャーマニーとまでちゃんと刻印されているのだから。これをくれたあのひと、今頃舌を出しているかもしれぬ。まあ、彼一流のユーモアだったのかも。

montblanc?

 ホンモノとニセモノ、リアルとフェイク。そうした境なんて実際はあって無きが如し、などと日頃うそぶいていたりするものの、こうしたあまりにも実際的な模造品というのはさすがにねえ。…うーむ。銀座でとんだ赤っ恥をかきました。




 眼鏡店に行くといつも思うことがある。店員さんたちはみんな眼鏡をかけている。眼鏡店に勤務する人は全員近視なのだろうか。視力を矯正する必要がない人は眼鏡店に勤めてはいけない規則にでもなっているのだろうか。いや、そんなことはあるまい。でも、やっぱり、どの店に入っても、みんながみんな眼鏡をかけているのだ。今、この店でワタクシたちの相談に乗ってくれているこの女性も、素敵な眼鏡をかけている。

 「あのう」ワタクシは意を決して彼女に尋ねてみることにした。「メガネ店に勤めている人は、みんなメガネをかけているのですか?」と。彼女は少し緊張したのか、人差し指で眼鏡のブリッジを押さえながら、それでもキッパリと「はい、当店では全員がメガネをかけています」と応えてくれた。「やっぱりね。ということは、みなさん視力が悪いということ?視力1.5の人はメガネ店にはいないの?」「いえ、そんなことはありません。正常な視力の者もたくさんいます」「それでも、みなさんメガネをかけているんですね?」「はい、ですから人によっては度のまったく付いていないレンズを付けている場合もあります」「つまりは、伊逹メガネってこと?」「そういうことになりますでしょうか。でも」と彼女はもう一度ブリッジの部分に人差し指を添えながら、…

 あれ、この仕草、誰かに似てるなあ。数分間記憶の中を辿っているうちにようやく思い出した。ユミヨシさんだ。村上春樹の昔の小説の中に出てきた女の子。札幌のホテルのフロント係の女の子。ホテルの精。

 「やはり、私たちはお客様にメガネを提供させていただく仕事ですから、掛け具合とか、私たちも日々お客様と同じ立場でメガネを体験し研究していたいと思っております」…なるほど、素晴らしきプロフェッショナリズムである。納得。

 「すみません、ヘンなこと聞いちゃって」「いえ、こうした質問をされるお客様はけっこういらっしゃるので」…え、そうなの?こんなこと考えているの自分だけだと思ってたら、なあんだ、けっこうノーマルな質問だったのね。よかった、でも、ちょいとショック。ワタクシの視点などユニークさのカケラもなかったということか。

 そんなワタクシの心の中の葛藤を見透かしてでもいるように、彼女はもう一度メガネのブリッジ部分に人差し指を添えて、にっこりと微笑んでくれている。まるで、メガネの精みたいに。

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