naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: literature



 NHKの朝ドラ「半分、青い。」は岐阜県が舞台である。脚本家の北川悦吏子さんのふるさと。番組中にたくさんの岐阜弁(東濃弁?)が飛び交っている。私も岐阜県の出身なので理解は出来るが、岐阜弁というのはけっこう特殊なのだ。例えば、こんなふうに。……昔、よく母親に「はよ、まわしせんと」となどと言われた。「まわし」とは「準備、支度」の意味である。標準語的にはさっぱり意味がわからぬ。

 幼い頃から私はこの地方の言葉があまり好きではなかった。おとなたちが話している言葉のイントネーションがイヤだったのだ。大仰でなにやらがさつで。もっと柔らかなニュアンスの言葉を話す国で暮らしたいと思っていた。でも、自分の出自を変えることはできない。

 そんな自分の生まれた場所(岐阜県の大垣市である)に初めて誇りを持ったのは本郷の菊富士ホテルのことを知った時であろうか。菊富士ホテル。本郷の菊坂にあった西洋式のホテル。大正から昭和にかけて、文人たちのコミュニティとして有名だった高級下宿。今で言えばコーポラティブハウスといったところか。尾崎士郎、宇野浩二、竹久夢二、谷崎潤一郎、広津和郎、直木三十五、そして坂口安吾といった名だたる文士たちがみんな菊富士ホテルの住人だったのだ。で、この菊富士ホテルをつくったのが岐阜県大垣市平村(現在の安八郡)出身の羽根田幸之助なのである。彼は日本の近代文学の偉大なパトロンだったのだ。

 ホテルは空襲で焼けて、現在では跡地に石碑が建っているだけだが、かつてここに富士山が望める三階建ての、そしててっぺんには坂口安吾が愛用した塔の部屋のあるホテルが建っていたのだと思うと感慨深い。近藤富枝さんが書いた「本郷菊富士ホテル」を片手に界隈を散策してみると、女子美術大学の前身の建物や宇野千代が働いていたレストランが近くにあったこともわかる。

ホテル跡


本郷菊富士ホテル


 岐阜県大垣市出身であることが誇りに思えるひとときである。




 作家が書く小説や随筆は名作コピーの宝庫だと思う。その中でも、なんといっても秀逸なのは太宰治。『斜陽』に出てくる例の、

 恋、と書いたら、あと、書けなくなった。

 句読点の打ち方といい、これはもう絶品である。でも、これと双璧なのが、

 早く『昔』になれば好い。

 普通の言葉を使いつつ組み合わせの意外性でドキリとさせる。コピーライティングの王道。そして、太宰に勝るとも劣らない情緒を醸し出している。

 書いたのは竹久夢二。大正ロマンの有名な画家であるが、詩人でもある。夢二画集には春夏秋冬の4つがあるが、その中の「夏の巻」にその言葉は綴られている。

夏の巻


 僕は、淡暗い蔵の二階で、白縫物語や枕草子に耽つて、平安朝のみやびやかな宮庭生活や、春の夜の夢のよふな、江戸時代の幸福な青年少女を夢みてゐたのだ。あゝ、早く『昔』になれば好いと思つた。
 
竹下夢二 『夢二画集 夏の巻』より


 亡くなられた作家・演出家の久世光彦さんが夢二が大好きでこの言葉をそのままタイトルにした小説を書いているが、改めて、

 あゝ、早く『昔』になれば好いと思つた。

 これ、ほんとうに一番ゼイタクな心情だと思う。早く未来なんか来て欲しくもなんともないけれど、早く昔が来てくれたら。……これほど胸ときめく言葉は他にないのではないだろうか。改めて、春の夜にそんなことを思う。

 



 「銀河鉄道の父」を読んでから改めて宮沢賢治についていろいろ知りたくなって、畑山博さんが書いた「教師 宮沢賢治のしごと」をKINDLE版で読んだ。

教師宮沢賢治

 この本の中で、畑山さんは、かつて農学校での宮沢賢治の教え子だったひと数人から取材して、教師宮沢賢治のいくつかの授業を再現しているのだが、

 学校の教師という仕事は、それをほんとうに誠実に心を賭けてやったら、音楽とか絵とかいうような芸術より、もっとすばらしい芸術行為になるのだと、私は思っています。
畑山博著 「教師 宮沢賢治のしごと」より


 と書いている。これを読んで目が覚める思いがした。残念ながら、ひとにものを教える行為をここまで考えきったことは今までなかったと自分を恥じた。来週からまた新学期の授業が始まる。この文章を肝に銘じて臨みたいと思う。

 さて、宮沢賢治の童話、詩で好きなものはたくさんあるが、教師をしていた頃の短編小説というのかエッセイと言えばいいのか、「イギリス海岸」を再読してみた。

 もっと談してゐるうちに私はすっかりきまり悪くなってしまひました。なぜなら誰でも自分だけは賢こく、人のしてゐることは馬鹿げて見えるものですが、その日そのイギリス海岸で、私はつくづくそんな考のいけないことを感じました。からだを刺されるやうにさへ思ひました。はだかになって、生徒といっしょに白い岩の上に立ってゐましたが、まるで太陽の白い光に責められるやうに思ひました。
宮沢賢治著 「イギリス海岸」より

 花巻のイギリス海岸には二十数年前に行ったきりである。



 さあ、今日から春なのです。ダウンジャケットはクローゼットの奥にしまい込み、ベージュのトレンチコートに着替えましょう。そうして、蕾みが膨らんだ桜の木の下を通り、街外れの公園に向かって歩いていきましょう。

 太陽は輝き、夜は匂い立ち、そうして、時はよみがえる。

 でも、やっぱり。会えなくなってしまったひとに再び会える奇跡は起こらず、過去の悔恨は尽きることもない。けれど、だからといって自分の人生を卑下するなかれ。人生は最終的にはプラスマイナス・ゼロ。今までが良ければこれから下り坂、今まで悪かったひとはこれから上り坂。キミの人生はどうだ? うまくいったか、うまくいっているのか? うまくいってないと思っているあなた、ちゃんと努力すべき時に努力したのか? なんでもひとのせいにするなかれ。なんでも不運のせいにするなかれ。それにしても、いやですねえ。お互い年を取ると、みんななんだか、ひがみっぽくなってイヤですねえ。

 さあ、でも、今日から春なのです。もうすぐあなたも公園にたどり着くでしょう。そこは特別な公園なのです。中原中也がこんなふうに謳っていた、世にも不思議な公園なのです。

park

Illuminar 25mm f1.4 + E-PM1


 林の中には、世にも不思議な公園があつて、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
 
中原中也『いきてかへらぬ』



 ひとの人生はどうやって決まっていくのだろう。けっきょくはひとそれぞれにはあらかじめ定められた運命のようなものがあって、我々はそれに付き従って生きているのに過ぎないと感じることもあるし、いや、人生のさまざまなステージにはいくつかの岐路が用意されていて、その中のどれを選ぶのか、人生とは複雑なパズルの選択の結果なのだと思うこともあるし、いやいや、強く願い一心不乱に努力すれば自分のなりたい自分になれると、それこそ強く思うこともある。

 人生の岐路。昔、あるひとに言われたことがあるのだが、ひとは自分の人生を振り返ってみて、あの時のあの人こそが自分の人生を決定するターニングポイントだったのではないか、そう思える人が必ず誰でも数人思い浮かぶものだけれど、(あの時、あの彼氏彼女と別れずに結婚していたら人生違っていたかも、とか。あの時、あの人のアドヴァイスに従って別の仕事を選んでいたら、とか)実際はそんな単純なものではなくて、自分では気づかないで通り過ぎていたところにけっこうたくさんの切り返し点が紛れていたりするし、人生を決定づけるのに強い影響を及ぼしたひとは、その当時はあまり意識していなかったひとの場合も多いのだと。

 川上弘美さんの「森へ行きましょう」。読み応えのある小説だった。さまざまな可能性が潜在し続ける人生。そのパラレルワールドの幅、そしてそれらがメルティングされる可能性が提示されてゆく。そら恐ろしい小説。でも、ラストは諦念に包まれつつも妙に吹っ切れた気分にさせてくれる小説だった。

森へ行きましょう


 道は、何本にも分かれてつながっており、右を選ぶか左を選ぶか、まんなかを選ぶか端を選ぶかは、常に不確定で、選んでしまった後になってからしか、自分のたどっている道筋はわからない。

(川上弘美著 『森へ行きましょう』より)




 ユルスナールが好きである。ご多分に漏れず、須賀敦子さんの「ユルスナールの靴」を読んでこの作家のことを知った。それから「ハドリアヌス帝の回想」「黒の過程」「なにが?永遠が」と、彼女の作品を続けざまに読んだ。初期の頃の「東方綺譚」も素晴らしい。例えば、「東方綺譚」の中の「老絵師の行方」という短編。

東方綺譚

 沈黙が壁であり言葉がそれをいろどる色彩であるかのように、語ったのだ。

 まさに、この一節が言い表しているような絵画的な作品である。

 幼い頃から博学の父親に連れられて旅を続けたユルスナール。晩年も著作の傍ら旅を愛したという。

 一つの町にとどまるのに倦きていた。そこに住む人々の顔が、美についても醜についても、これ以上の秘密を教えてくれそうもないからだ。

 これも「老絵師の行方」の中の一節。ひとは限られた人生の時間の中で見つけ出さなくてはならない。なにを?……たぶん、永遠を、である。ランボーが「地獄の季節」の中で書いていたように。



 今期の(担当する)授業が終了した。授業の最終日は東京に20センチの積雪。研究室の窓の向こうはいきなりの雪景色。

雪景色

 なにからなにまで初めてづくしの一年間。学部の授業だけで年間5コマとして合計30回×5=150回の授業。講義中心の授業もあればゼミナール形式のものもあるが、一回1時間半の授業内容を150通り考案することの責任の重大さを痛感した一年だった。相手に応じて臨機応変に対応する技量を要求される実業界の仕事とは根本的に異なるのである。まずは自ら150通りのコンテンツを準備しその編集と検証を行わなくてはならない。単なる知識ではダメ。そうしたことを曲がりなりにもなんとかここまでやってこれたのは、信頼に応えたいという思いと、同僚の先生方のアドヴァイス、いつも親身に対応してくださる職員の方々のフォローアップ、そしてなによりも熱心に授業を聞いてくれる学生さんたちの視線に支えられてのことである。お世辞でも「今日の先生の授業、面白かったよ〜」なんて言われたりすると、ちょいとホロリとしてしまう。

 担当する授業は終了したが、定期試験やその他の行政業務が続くので3月まではまだまだ気が抜けない。でも、とりあえず本日でひと段落。自分にご褒美を、などという金銭的な余裕はないのだが、せめて今夜は吉祥寺界隈でおいしい珈琲でも飲んでから帰路につきたいと思う。太宰治の「雪の夜の話」でも思い出しながら。

 白い雪道に白い新聞包を見つける事はひどくむずかしい上に、雪がやまず降り積り、吉祥寺の駅ちかくまで引返して行ったのですが、石ころ一つ見あたりませんでした。溜息をついて傘を持ち直し、暗い夜空を見上げたら、雪が百万の蛍のように乱れ狂って舞っていました。きれいだなあ、と思いました。道の両側の樹々は、雪をかぶって重そうに枝を垂れ時々ためいきをつくように幽かに身動きをして、まるで、なんだか、おとぎばなしの世界にいるような気持になって私は、スルメの事をわすれました。はっと妙案が胸に浮びました。この美しい雪景色を、お嫂さんに持って行ってあげよう。……(中略)…… 人間の眼玉は、風景をたくわえる事が出来ると、いつか兄さんが教えて下さった。電球をちょっとのあいだ見つめて、それから眼をつぶっても眼蓋の裏にありありと電球が見えるだろう、それが証拠だ、それに就いて、むかしデンマークに、こんな話があった、と兄さんが次のような短いロマンスを私に教えて下さったが、兄さんのお話は、いつもでたらめばっかりで、少しもあてにならないけれど、でもあの時のお話だけは、たとい兄さんの嘘のつくり話であっても、ちょっといいお話だと思いました。

太宰治 「雪の夜の話」 より




 辻邦生さんの「美しい夏の行方」〜中部イタリア、旅の断章から〜を読んでいる。シエナの町の、カンポ広場の暮れゆく情景描写があまりにも美しくて、嗚呼、またシエナに行きたい。そしてあの、すり鉢の内側のような広場に時間を忘れてずっと寝転んでいたい。そう思ったら居ても立ってもいられない気分になってきた。どうしよう。。さすがに週末の二泊三日程度で行ける場所ではないしw

美しい夏の行方


 空から藍の色が次第に消えて、黒一色になった。だが、その黒は、ぼくが生涯初めて見たえも言えぬ黒であった。陳腐な言い方をすれば輝く黒、ビロードのような黒とでも言ったらいいのか、その黒は、純粋な黒であり、黒になったばかりの、汚れのない黒、処女の黒であった。黒がこれほど柔かく、高貴で、甘やかであるとは、ぼくは思ったこともなかった。

カンポ広場の暮れ方、より



 清瀬にある国立病院機構東京病院に行ってきた。現在の第一病棟の裏あたりにその建物は建っている。

外気舎

Summicron 50mm f2 L + Ⅲg + Lomo B&W400


 病院の構内を一周して散歩道がある。この季節には、生い茂っていた夏草も枯れ、散歩道を縁取った楢や櫟の木々も落葉する。そうすると散歩道からは病棟の部屋部屋が見え、病棟で寝たきりの患者の眼にも、枯れ落ちた雑木林の向うに、外気小舎のトントン葺きの屋根が幾つも点在するのが眺められた。

 高校生の頃の愛読本のひとつ、福永武彦の「草の花」の一節である。この外気小舎が今でもひとつだけ、第一病棟の裏にある桜の園近くに現存しているのだ。寿康館の跡地だったことを紹介している看板も近くにあった。

寿康館

 「草の花」の冒頭は以下の文章から始まる。

 私はその百日紅の木に憑かれていた。それは寿康館と呼ばれている広い講堂の背後にある庭の中に、ひとつだけ、ぽつんと立っていた。寿康館では、月に一回くらい、サナトリウムの患者達を慰問するための映画会が開かれた。 

 出発点と記された道標もある。その説明文を読んでいたら、なんとも切ない気分になってきて、、

出発点


 炎天下で、堀辰雄と福永武彦の文章に憧れ続けた頃のことを想い出す、今日は今年最後の猛暑日。



 恵比寿のLIBRARIE6でやっている「澁澤龍彦没後30年展」を見てきた。「石の夢」と題して、ミケランジェロやプルドン、そして澁澤龍彦さんが愛したトスカーナのピエトラ・パエジナ(PIERTA PAESINA)が何点か展示されていた。そして、澁澤さんの書斎にあったであろう蔵書の数々。サド、プルドン、ロジェ・カイヨウは言うに及ばず、ブルーノ・シュルツ、ユイスマンス、ランボー、セリーヌ。日本の作家だと瀧口修造、金井美恵子、西脇順三郎の名前が目に付く。いずれも、二十代の頃に(もちろん澁澤さんの影響を受けて)読みあさった本ばかりだ。思い起こせば、ずいぶんと澁澤龍彦にかぶれた二十代を過ごしたものである。ローマに行けば人工廃墟見たさにボマルッツォまで、南仏に行けばサドの生家が見たくてわざわざラコストまで足を運んだ。その澁澤龍彦さんが亡くなって早30年が経つ。。

澁澤龍彦

 さて、ピエトラ・パエジナ(風景石)。はじめて見たひとはこれが天然の石であるとはにわかには信じられないだろう。古色蒼然とした中世のフレスコ画のようであり、マニエリスム期に作られた細密画のようでもある。自然の力だけで、かくも精緻で人工的(に見える)ランドスケープが描き出されることの不可思議さ。悠久の時を静謐に閉じ込めた、まさに「石の夢」である。

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