naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: literature



 ついに上映も最終日となったので、やっぱり、映画「月の満ち欠け」、見に行くことにした。

 原作は大好きな佐藤正午さん。直木賞を受賞されたときは自分ゴトのように喜んだ覚えがある。

 こうした文学作品の映画化はやや期待外れになることも多いが、廣木隆一監督は原作のかなり交錯した話をうまくシンプルに収束させてストレートに「泣かせる」映画に仕上げている。おかげさまで、けっこう泣かせていただきました(汗)。
 ま、あのジョン・レノンの名曲「WOMAN」を使われた日にゃ仕方がない。でも、かの「However distance don't keep us apart. After all it is written in the stars」の歌詞は、この生まれ変わりのストーリーにすんなりとマッチしていると思う。




 早稲田松竹で映画を見た80年代の日々がとても懐かしゅうございました。



 久しぶりに村山由佳さんの「天使」シリーズを読み返したせいだと思うが、練馬の石神井公園に無性に行きたくなる今日この頃である。ここは、太宰治らの「青春五月党」の合コン(?)ピクニックの場所でもある。商店街には坂口安吾100人カレーで有名な「辰巳軒」も健在。蕎麦処の「中屋敷」はずいぶんモダンになってしまったけれど。

 『天使の卵』を初めて読んだのはいつぐらいだろうか? 1995年ごろ? そのあと10年して続編『天使の梯子』が出版された。どちらも二十歳前後の男性が年上の女性と恋に落ちる極め付けのピュアな恋愛小説だ。舞台は石神井公園から大泉学園駅にかけて。閉園前の「としまえん」にあったあの回転木馬「エルドラド」の話も出てくる。

 石神井公園自体はあの頃とそんなに変わっていないようだ。ボート池もその中之島にかかる太鼓橋も、そして、道路を隔てて西側に広がる三宝寺池。

三宝寺池

Tessar 2.8cm f8 ( pre war ) + Contax I + Fuji 100


 照姫伝説のある石神井城跡のこのあたりは今でも鬱蒼と森が広がって、いつ来ても異界に迷い込んだような気分になる。

石神井

Sonnar 5cm f1.5 ( pre war ) + Contax I + Kodak 200

恒春園

VPK Dallmeyer Rapid Rectilinear 72mm f8 + α7s


 @芦花恒春園

 「人間は書物のみでは悪魔に、労働のみでは獣になる。」徳冨蘆花




 54歳の時に独立して早や6年。56歳からは大学教員として遅まきながらアカデミズムの世界にもチャレンジし、研究に教育に、そして制作業務にと多忙な毎日を送らせていただいている。
 まだまだ若いモンには負けないぞ、と言うは容易いが、でも、冷静に考えてみれば、クリエイターとしてのピークはとっくの昔に過ぎているわけで、そういう意味では今の時間は「余生」なのかもしれない。
 「余生」と書いてしまうとなにやら残り火みたいだが、人生の後半から終盤に向けてこそ、自分にとって一番大切な仕事は何なのかを見極めつつ、それをきちんと仕上げていかなくちゃ、それがきっと自分の天職になるのではと思う今日この頃である。

 こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて 死なむと思ふ
石川啄木『一握の砂』より


啄木

XF 23mm f2 + X-T30 II + Color Efex Pro

*雪の日の、小樽公園の啄木歌碑



 「死ぬ前に最後に食べたいもの」とか「最後に行きたい場所」というフレーズはよく耳にするが、「人生最後に読みたい本は?」と尋ねられたら、自分はいったいなんて答えるだろう? 
 思えば、この年になるまでにずいぶんとたくさんの本を読んできた。捨てきれない蔵書は千冊は優に超えるだろう。人文系、美術系の本がほとんどだが、そのなかでも小説の類いが圧倒的に多い。ということは自分も……

 三上延さんのベストセラー『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズの第6巻では、ラストにこんな独白がある。誰が言った言葉かはネタバレになるのでここには書かないけれど。

 「わたしは、『晩年』を切り開いて、最初から読みたい……最後まで読み終えて、その日に死にたいの……それを、人生最後の一冊にしたい」(中略)「あの作品は太宰の出発点で……匂い立つような青春の香気があるわ。わたしはそれを、自分の晩年に味わってから死にたい……」

 うむ。大好きな太宰の小説を人生最後の一冊にするのも確かにアリだけれど、人生のラストはもうちょっと惚けた感じで締めくくりたい気もする。日本文学だったら内田百閒あたり、だろうか。

 ちなみに、この『ビブリア古書堂の事件手帖』の第6巻は全篇すべて太宰治で、太宰が他のペンネームで書いたミステリー小説風『断崖の錯覚』や、「太宰治論集」に出てくる『晩年』の自家本の話、そして、引用部分もあるように当時のアンカット本の話など、太宰ファン垂涎のエピソードが満載である。



 ここ二年余のコロナ禍にあって大人数でどこかに集まるという発想はずいぶんと影を潜めたように思うが、個人的にはコロナ以前よりずっと、大規模な施設に多くの人が集まることに対して違和感のようなもの(あるいは不条理?)を感じ続けてきた気がする。
 もちろん、駅や空港といった交通のターミナルには大勢の人々を集客するための空間が必要であろう。でも、街の至る所に巨額のコストをかけてガラス張りのモダンな商業施設やオフィスビルをいくつもいくつも建設するのはいかがなものか。多種多様な店舗が一堂に集まっている方が便利だし、館内のデザインは現代的で洒落ている方が気分も自ずと「アガる」わけだが(最近では館内はとても「いい匂い」もする)、でも、そのためにどれだけのお金と資源を使わなくてはならないのか。空調費だけでも莫大なはずである。そこまでしないことには現代の生活は成り立たないのか、我々は「素敵な日常」を楽しめないのか、といった違和感である。

 で、これからの話である。未来の街はどうなっていくのだろう。大人数で集まりたいときはバーチャルの世界で済ませてしまって、物理的にはそれぞれパーソナルな空間に戻っていくのかもしれない。いわゆるメタバースの世界だ。でもそうなったら、今までに造ってしまったこれらのリアルな大規模な施設はいったいどうすればいいのか、などとあれこれ、現在のこと、そしてこれからの未来のことを考えてみるのであるが、正直言ってどちらもなんだかしっくりこないのである。現在にも未来にも今ひとつ希望が持てないとすると、我々は過去に戻るしかないわけであるが。

 タイムトラベリングをテーマにしたロバート・F・ヤングの有名な短編小説に「たんぽぽ娘(The Dandelion Girl)」というとてもロマンティックな作品がある。三上延さんの「ビブリア古書店の事件手帖」でも取り上げられていたので最近では若い方も多く読んでいるのではないだろうか。この作品の中で有名なのは、伊藤典夫さんの訳で、

「おとといは兎を見たわ」と夢のなかのジュリーはいった。「きのうは鹿、今日はあなた」

という台詞であろうが、若いジュリー・ダンヴァースが、未来から過去にタイムトラベリングしたくなる人たちの気持ちをシンプルに伝えている以下の箇所が昔から好きである。

「時間旅行局では、許可された人たち以外にはタイムマシンを使わせないの。でも、もっとシンプルな暮らしに憧れる人たちは、歴史学者になりすまして過去の世界へ永住する気で行こうとするから、そういう人たちを逮捕するために時間警察が活動しているわけ。」

太字引用部分は、R・F・ヤング『たんぽぽ娘』(河出文庫、2015年)より。
それぞれ p.103、p.106



 映画「ドライブ・マイ・カー」がベルリン、カンヌ国際映画祭受賞に続き、アカデミー賞作品賞他の候補に、とのことである。原作を読んだ際、SAAB 900のコンバーティブルとか(映画ではサンルーフ付きのハードトップになっていた)、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」とか、ちょいと個人的に苦手(というか自分の青春の恥部と言うべき)ものにヤラれてしまって、今まで映画を見るのを敬遠していたのであるが、こ、これは、……原作に確かに立脚してはいるものの、濱口監督、大江さんがオリジナルに「脚本賞」を受賞した理由に納得させられた。映画「ドライブ・マイ・カー」は東京、広島、北海道、(そして韓国?)をつなぐロードムービー大作である。そして、イマドキ敬遠されがちな言葉の独白だけのロングショットの数々、3時間があっという間に過ぎた。でもって、三浦透子さんがとにかくカッコいい。

 ネタバレになってしまうといけないので映画のストーリーについてはここには書きませんが、また昔に戻って(?)無性に煙草を吸いながら車の運転がしたくなる映画です。車を疾走させながら煙草の煙を肺の深くまで吸い込み(いくら体に悪いと知ってはいても)、ふうっーと吐き出さないことには紛らわすことのできないことが人生にはまだまだたくさんあるような気がします。

 そして、車の運転が上手な女性について。個人的にそうした女性は今までに何人か知っていますが(彼女たちはみんな左ハンドルのマニュアル車を、右手の手首を優雅にくねらせながらシフトチェンジしていた)、その上手さはそのままスピード超過であの世に繋がってしまいそうな浮遊感と表裏一体でした。そうではなく、「渡利みさき」さんみたいに、助手席に座っているひとをこちら側の世界にしっかりと繋ぎとめ、無言で人生の再生を促しながら走り続けてくれる運転の上手な女性には、残念ながらまだ出会ったことがないように思います。



 最近、死んだ父親に無性に逢いたくてしようがなくなる時がある。自分に似ているひとはいても、自分が似ているひとはもはやこの世に存在しない、そのことがどうにもせつないからだろうか。私は死んだ父親とはほとんど同じような体型・体質で、六十歳を過ぎてこれから自分の身体のどの部位がどのように衰えていくのか、その過程もその程度も、父親が辿った十数年間を思い起こせばなんとなく想像がつく。遺伝子というのはつくづくそら恐ろしいが、はてさて、そうした自分の老後についても父親から直接アドヴァイスが聞きたいし、自分が生まれる前、若かりし日の父親がいったいどんな思いで戦争に行き、どんな思いで戦後の人生を始めたのか。そして、七十一歳で死ぬ時、いったい何を想い、何に感謝し何に未練を覚えたのか。そうした本音を直に本人から聞いてみたい。

 でも、そうしたことは決してかなうことがない。生きている者と死んでいる者は、川上未映子さんが「十三月怪談」の中で書いているように、ほんとうに、お互いがお互いに対して「無力」なのだ。そのことがつくづくやるせない今日この頃である。

 でもわたしがいまぼんやりとソファにすわってずっと思ってることっていうのは、死んだ人間っていうのはほんとに無力なんだなって、たぶんそういうことだった。自分が生きているときは、生きてる人間っていうのは死んだひとにたいして、あるいは死んでゆこうとしてる人にたいして無力だなって思ってるところがあった。なんにもいえないし。でも、死んだひとっていうのは生きてるひとになにひとつだってしてあげることはできないし、さわることだってできないし、もうなにもできなくって、ほんとうにちがう世界にいるんだなってそう思う。

川上未映子『愛の夢とか』(講談社、2013年)収録「十三月怪談」より


身一点

Elmarit 24mm f2.8 ASPH. of X2 + Color Efex Pro


 ゆふがた、空の下で、身一點に感じられれば、萬時に於て文句はないのだ。
中原中也 「山羊の歌」より「いのちの聲」



 今日の関東地方は真夏に戻ったように30度を超える快晴となった。でも、空気は乾燥して日に日に秋らしさが増している。おととい(21日)の中秋の名月も目が醒めるような美しさだった。
片影

Russar 20mm f5.6 + MM

 こんな、一瞬、夏に戻ったような、でももう秋の清澄さが十二分に感じられる日に思い出す文章がある。竹久夢二が日本橋に港屋絵草紙店を開店した際の挨拶状である。先日脱稿したばかりの夢二に関する論文にも引用したが、季語「片影」の使い方が素敵である。店主である妻、他万喜の名前で書かれているが、文案は竹久夢二もしくはふたりの共同執筆であったろう。


 下街の歩道にも秋がまゐりました。港屋は、いきな木版繪や、かあいゝ木版画や、カードや、繪本や、詩集や、その他、日本の娘さんたちに向きさうな繪日傘や、人形や、千代紙や、半襟なぞを商ふ店で厶(ござ)います。女の手ひとつでする仕事ゆえ不行届がちながら、街が片影になりましたらお散歩かたがたお遊びにいらして下さいまし。

「増訂版 金沢湯涌夢二館収蔵品総合図録 竹久夢二」(金沢湯涌夢二館、2013年、2021年改訂)p.156参照

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