naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: literature



 毎年、梅雨時から夏にかけて読み返す本がある。それは、江國香織さんの『なつのひかり』。今の季節の描写がなんとも瑞々しいのだ。例えば、

 「やわらかでかなしげな、とろとろとした夏の風。」

 「貼れた真昼の日盛りよりも、こんな風に曇って湿度の高い遅い午後の方が、夏の息づかいというか
 体温というか、ある種邪悪な匂いが濃いと思った。」

 「雨は、爽快なほどはげしい音をたてて降り始めた。夕立ち特有の、不穏でほこりっぽい匂いがたち
 まちあたりにたちこめる。」

江國香織『なつのひかり』(集英社文庫、1999年)より


 でも、この『なつのひかり』、江國さんの作品としては珍しく、かなりシュールな小説である。ふしぎな「やどかり」が出てきたり、ふしぎな双子が出てきたり。

 夜更けまでこの本をずっと読んでいたからだろうか、今日の明け方に見た夢は、なんともシュールなものだった。たっぷりと雨を吸い込んだ草木たちに両側を囲まれた一本道を、僕はただひとりどこまでも歩いて行く。春に鳴いていた鳥たちの声が遙か彼方から微かに聞こえているばかり。百時間ぐらい歩いたところでようやく誰かの声が足元から聞こえた。もうすぐ満天の星空が見える広場に着くからと。その声の主が「やどかり」だったという夢だ。

坂道








 土日はどこにも出かけず、部屋で竹久夢二の画集ばかりを見ている。夢二といえば、ザ・大正浪漫で片付けてしまう人も多いが、夢二は正当な(という言い方もヘンだが)マニエリスム&世紀末美術の画家である。夢二の描く女性たち、道行きの男女たちは、みなメランコリックで虚無的な表情をして、か細くうつむき加減、S字型に体をくねらせている。まさにフィグーラ・セルペンティナータ。道行きの男女の脚は二人三脚、サンボリックに融合している。
 そして夢二はセンティメンタルなだけではない、正当な詩人でもある。

「忘れたり。思ひ出したり。思ひつめたり。思い捨てたり。」

 なんて連句、ナカナカのものだ。そして、コピーライターの資質も抜群。

「あゝ、早く『昔』になれば好いと思つた。」

 これほどドキリとするコピーはない。もちろん、甘いだけの文章もいっぱいあるけれど。

「そしてまた、夕方の散歩とか郊外の小旅行とか、しめやかな五月の夜のことなど、を、あまい心持で空想しても見る。」(彦乃宛、大正六年四月四日の手紙より)








 緊急事態宣言が発令となった。少なくともゴールデンウィーク明けまで。長く生きてきたが、これほどにもリアルな場所やリアルな人びとのことをいとしく思う経験は今までにない。例年だったら今頃は、さあて、大好きな5月、何処に行こうか。少し遅めの春を楽しむために北に向かおう。弘前はどうだろう。いや、函館。まだ冷たい風が時折吹き付ける函館がいい。……そんなことを考えて、仕事の合間のスケジュールをやりくりしている頃である。

 函館が好きである。函館を舞台にした小説はいくつもあるが、特に好きなのは吉田篤弘さんの『つむじ風食堂の夜』と、筒井ともみさんの短編『北の恋人(スノーマン)』(『食べる女』に収載)だ。中島廉売所が出てくる。啄木の歌碑のある函館公園のレトロな遊園地も出てくる。風と路面電車の街、函館。今年は文庫本を読み返しながら、これから遅い春を迎える函館の情景を脳裏に浮かべるほかはない。

 太平洋と日本海に挟まれた半島のような地形をしているという地理的条件から、雪はあまり降らない。そのかわりに風がつよい。一年中、風が吹きぬけている。この街は風の街だ。

 かつては栄えたけれど、今は人口も減ってひっそりとしている。そんな街を吹きぬける風にはサラサラとした距離感のようなものがあって。その感触が私を和ませる。

 私がこの街を好きになったもうひとつの理由が、この路面電車だ。風の吹きぬけるひっそりとした街を路面電車が走りぬけていく。

筒井ともみ『食べる女 決定版』(2018年、新潮文庫)


 筒井ともみさん。日本を代表する脚本家である。向田邦子原作、森田芳光監督の『阿修羅のごとく』が印象に残っている。久世光彦演出の『センセイの鞄』の脚本もたしか彼女だったはず。



 ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『21 Lessons』、読了。今回も前作の『サピエンス全史』『ホモ・デウス』同様、とても示唆に富んだ内容だった。特に考えさせられたのは20番目のレッスン、「意味」。サブタイトルに「人生は物語ではない」と記されている。物語。我々のこの世界は、そして我々自身のこの人生は、さまざまな「物語」の虚構の力で作動している。つまりは、

 人間の力は集団の協力を拠り所としており、集団の協力は集団のアイデンティティを作り出すことに依存しており、どんな集団のアイデンティティの基盤も虚構の物語であって、科学的事実ではなく、経済的な必要性でさえない。(p.180)

 ということ。それが、情報テクノロジーとバイオテクノロジーの行き着く先において、世界の「物語」、私という「意味」が瓦解する。

 あなたはけっきょく、自分の核を成すアイデンティティが神経ネットワークによって創り出された複雑な錯覚であることに気づく。(p.322)

 人生はばらばらになり、人生の各期間の間の連続性がしだいに弱まる。「私は何者なのか?」という疑問は、かつてないほど切迫した、ややこしいものとなる。(p.341)

 あれ、この考えは私ではないぞ。ただの生化学的な揺れにすぎない!」といったん悟ると、自分が何者か、どんな存在か、見当さえつかないことにも気付く。(p.387)


 「語れない」世界、「語れない」私。コミュニケーションの世界では、物語(storytelling)は欠くことのできないもの。表現を生業にしてきた自分にとって、人生とは「いかに語るか」の連続だったと言っても過言ではない。何度も惑い悩んで、さまざまな分野の「物語論」「ナラティブ論」を読み漁ったりもした。物語はすでに語り尽くされているのか? いや、メディアの一大変革期にはまったく新しい物語が出現しうる可能性もあるのではないか?……そんな思いを込めて、個人で仕事をするときの屋号を「もの・かたり。」にもした。その「物語」が一新されるどころか、消失してしまいかねない時代。これはかなりタフな話である。というか、コミュニケーションのシステムそのもののコペルニクス的転回である。

 そんな時代には、

 自己の狭い定義を脱することが、二十一世紀における必須のサバイバルスキルになってもおかしくない。(p.331)

 アルゴリズムが私たちに代わって私たちの心を決めるようになる前に、自分の心を理解しておかなくてはいけない。(p.408)

 とユヴァル・ノア・ハラリ氏は言う。

*引用部分はすべて、
ユヴァル・ノア・ハラリ / 柴田裕之訳 『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』(河出書房新社、2019)より。




My heart leaps up when I behold
A rainbow in the sky:
So was it when my life began;
So is it now I am a man;
So be it when I shall grow old,
Or let me die!


The Rainbow by William Wordsworth
 


年とってもそうあるべき、だよね。さもなくば、だよね。



 屋号「もの・かたり。」で活動している仕事のレパートリーが増えました。今回は文芸作品にチャレンジ。

 著者:十和野 葵(とわの あおい)、企画・脚本・編集:もの・かたり。


さくさくさく、表紙

 太宰治が死の前年に発表した『フォスフォレッスセンス』。二百字詰め原稿用紙三十枚にも満たないこの小品に魅せられた著者が、太宰治生誕110周年の2019年、すべての太宰ファンのために書いた、もうひとつの『フォスフォレッスセンス』物語。

 わたしは月に一度、日向(ひなた)さんの家に行く。

「男の人と女の人は、どういうふうにしたらいちばん親密になれるのかしらね」
「こうして手を繋ぎあっているのがイチバン幸せかもしれませんね」


 わたしは、いつも心のどこかで探している。別のやり方を。そして、ある秋の日、わたしが見つけてしまったものとは?

 東京近郊の古都K市を舞台にした、わたしと日向(ひなた)さんの、12ヶ月限定の恋物語。

「でも、どうして一年? たぶん、あと一年ぐらいはわたし、やっぱりここに通い続けるだろうし、そしてあと一年ぐらいが、わたしのモラトリアムを終わらせるにはちょうどいい期間だと思うから。」

 毎月、ふたりの間で交わされる、花とブンガクと、夢と現実と「あの世」のお話。

 太宰治、堀辰雄、中原中也、内田百閒他、大正・昭和の文士たちの言葉が今よみがえる。

 春夏秋冬、毎月一篇ずつ。古都K市のブンガク観光ガイドとしてもお役立ていただけたらと思います。


 2019年12月25日初版発行、2020年1月22日より発売開始です。



さくさくさく。
十和野葵
パブリック・ブレイン
2020-01-22








 年が明けました。去年の末にも書いたのですが、今年はワタクシ、大殺界なのです。こういう年はとにかくおとなしくしているに限ります。欲張っちゃいけない。整理するのです。自分がほんとうにやりたいこと、やらなくてはならないことを見極めて、それだけに専心するのです。

 やらなくてはならないこと。はい、これはもう、よくわかっています。粛々とひとつずつ丁寧に課題解決に励みたいと思っています。で、やりたいこと。これが、いくつになってもたくさんあり過ぎて(というか、年を取るたびに増え続けて)困ってしまうのですが、そろそろこのあたりで、自分は何をしているときがいちばんシアワセか、自分のココロに正直に尋ねてみるべき時なのかもしれません。

 で、その答えはと言うと、実は割とすんなりと出てくるわけで、……物心ついた頃から今までずっと、自分という人間は、文章を書いているときにいちばんシアワセを感じるのだと思います。

 たぶん、言葉が好きなのです。特に日本語で書くこの言葉が好きなのです。自分の意識の奥底に潜むもの、世界が一瞬見せるなにやら永遠めいたもの。それらを観察し、それらになんとか言葉で意味づけをし、カタチを作っていく作業が好きなのです。つまりは、言葉で表現することが好き、と言ってしまえば元も子もないのですが、靴を丁寧に磨くように、コトバのひとつひとつを磨いているとき、コトバとコトバのつながりをあーでもないこーでもないと考えているとき、それが至福のときなんです。そういうときの自分は、かなり几帳面なんだと思います。そして、かなり頑固なんだと思います。

 今年は、たぶん、そういう仕事を、とにかくコツコツとやっていきたいと思っています。大学での研究や授業内容はもちろんのこと、個人でお引き受けしている広告関連の仕事もみんな、もう一度、そこから、コトバを磨くことの原点から、丁寧に見つめ直していきたいと思っています。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

黒板

Dallmeyer 1inch f1.8 + E-PM1 + Color Efex Pro





 みなさんは、今年のクリスマス、どこでディナーを食べますか? 夜景がきれいな場所でイタリアン? それともフレンチ? 私はと言えば、今年は国分寺で鰻を食べようと思っています。え? 和食? それも鰻? はい、若松屋です。メリイクリスマス。

 今年は太宰治に明け暮れた一年でした。生誕110周年。大好きな太宰の小説を何度も読み返しました。太宰をテーマにした論文にもトライしてみました。そのために久しぶりに津軽まで取材調査にも出かけました。だから、やっぱり、今年は若松屋で〆たいと思うのです。メリイクリスマス。

 若松屋。太宰が三鷹時代によく通ったの鰻屋さんです。全集の口絵に使われた、ビイルを飲んでいるあの有名な写真も、たしか、@若松屋だったはずです。店はその後三鷹から国分寺に移転し、現在は国分寺街道沿いにあります。場所は変われど、太宰が愛した若松屋です。店には太宰関係の書籍がいっぱい並んでいます。ファンにはたまりません。そして、なによりも。初代から受け継がれる鰻がおいしいのです。おまけに刺身もおいしいのです。(二代目の時には寿司屋もやられていたそうです。現代は三代目の方が若松屋を継がれています)

 ここはまさにあの、『メリイクリスマス』の舞台です。だから、今年のクリスマスは若松屋の鰻、なのです。

「ハロー、メリイ、クリスマアス。」


メリークリスマス



 子どもの頃、歳をとった大人たちの歯を鳴らす音がイヤでイヤでたまらなかった。シーシー、チィッチィッ、シーハーシーハー。そうやって、爪楊枝を併用しながら歯の隙間に詰まった食べカスを取り除くのだ。そうして、彼らには厭な口臭があった。近づくと甘ったるい汚臭がぷんとした。幼い頃のボクは、彼らの歯を鳴らす音とその口臭を、憎悪していた。

 昨日、久しぶりに開高健さんのデビュー作『パニック』を読み返していたら(芥川賞作家の大岡玲さんが岩波文庫で『開高健短篇選』を出されています。大岡玲さんとは光栄にも現在の本務校でごいっしょさせていただいていています)以下のような文章が出てきた。

 課長は胃がわるいのでひどく口が匂う。出入業者に招待された宴会の翌朝など、まるでどぶからあがったばかりのような息をしていることがある。生温かく甘酸っぱい匂いだ。口だけでなく、手や首すじからもその匂いはにじみ出てくるようだ。白眼の部分にある黄いろくにごった縞を見ると、いつも、この男はくさりかけているなと思わせられる。

 課長は楊枝のさきについた血をちびちびなめた。俊介は息のかからないように机から体をひき、相手の不潔なしぐさをだまって眺めた。課長はひとしきり派の掃除をすませると、眼をあげ、日報の綴りをちらりとふりかえってたずねた。


開高健 / 大岡玲(編)『開高健短篇選』(岩波文庫)、pp11-12


 『パニック』における鼠のおぞましい異常繁殖と死の舞踏のイメージが、この課長の口臭の描写と見事に呼応している。

 さて、自分も今や、当時憎悪していた大人たちの年齢になってしまった。で、彼らがシーハーしたくなる気持が今ではよくわかる。歳をとると歯茎が後退してどうしても歯の間に隙間や歯周ポケットができてしまうのだ。そこに食べカスが溜まる。手のひらを口の前にかざして自分の息を吹きかけてみたら、ぷんとかすかにあの匂いがした。……自分もついに「くさりかけて」きたのだろうか? 



 喉がチリチリする。風邪かな? 熱はないようだけれど(ま、歳をとると体の反応が鈍くなるからあまり熱も出ないんだけれどね)、でもやっぱり体がだるい。

 ベッドに仰向けに寝ころんで耳にワイヤレスのイヤホンを突っ込み、apple watchでミュージックアプリを開く。チリー・ゴンザレスのピアノソロを選択する。apple watch、アナログの腕時計が好きなので今まではずっと敬遠していたのだけれど、やっぱりこれは便利。手元でほとんどのことがコントロールできる。リューズ部分を回せば音量調節も瞬時だ。




 それから、仰向けになったまま本を読み始める。一年遅れで文庫本になった江國香織さんの小説だ。冒頭でいきなり自分と同じ年齢の男の話が出てきてドキリとしたが、どうやらこれは作中作で、ほんとうの主人公は別にいるようだ。

 三十分も読んでいたらウトウトしてきた。いつのまにかブックカバーが外れてしまっている。ゴンザレスのピアノ曲も二番目のアルバムに移っている。細かい雨が降っている。水滴が窓硝子の表面で蠢いている。

 えっと、どこまで読んだんだっけ? ああ、ここからだ。

 これは地の文なのか、またまた作中作なのか。頭の中がぼんやりしている。頭の中にも少しずつ外の湿気が浸食してきてだんだんよくわからなくなってくる。ただ寝ぼけているだけなのかもしれないし、浅い夢を見ているのかもしれない。あるいはその夢の中でまた別の現実が始まっているのかもしれない。


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