naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: literature



 屋号「もの・かたり。」で活動している仕事のレパートリーが増えました。今回は文芸作品にチャレンジ。

 著者:十和野 葵(とわの あおい)、企画・脚本・編集:もの・かたり。


さくさくさく、表紙

 太宰治が死の前年に発表した『フォスフォレッスセンス』。二百字詰め原稿用紙三十枚にも満たないこの小品に魅せられた著者が、太宰治生誕110周年の2019年、すべての太宰ファンのために書いた、もうひとつの『フォスフォレッスセンス』物語。

 わたしは月に一度、日向(ひなた)さんの家に行く。

「男の人と女の人は、どういうふうにしたらいちばん親密になれるのかしらね」
「こうして手を繋ぎあっているのがイチバン幸せかもしれませんね」


 わたしは、いつも心のどこかで探している。別のやり方を。そして、ある秋の日、わたしが見つけてしまったものとは?

 東京近郊の古都K市を舞台にした、わたしと日向(ひなた)さんの、12ヶ月限定の恋物語。

「でも、どうして一年? たぶん、あと一年ぐらいはわたし、やっぱりここに通い続けるだろうし、そしてあと一年ぐらいが、わたしのモラトリアムを終わらせるにはちょうどいい期間だと思うから。」

 毎月、ふたりの間で交わされる、花とブンガクと、夢と現実と「あの世」のお話。

 太宰治、堀辰雄、中原中也、内田百閒他、大正・昭和の文士たちの言葉が今よみがえる。

 春夏秋冬、毎月一篇ずつ。古都K市のブンガク観光ガイドとしてもお役立ていただけたらと思います。


 2019年12月25日初版発行、2020年1月22日より発売開始です。



さくさくさく。
十和野葵
パブリック・ブレイン
2020-01-22








 年が明けました。去年の末にも書いたのですが、今年はワタクシ、大殺界なのです。こういう年はとにかくおとなしくしているに限ります。欲張っちゃいけない。整理するのです。自分がほんとうにやりたいこと、やらなくてはならないことを見極めて、それだけに専心するのです。

 やらなくてはならないこと。はい、これはもう、よくわかっています。粛々とひとつずつ丁寧に課題解決に励みたいと思っています。で、やりたいこと。これが、いくつになってもたくさんあり過ぎて(というか、年を取るたびに増え続けて)困ってしまうのですが、そろそろこのあたりで、自分は何をしているときがいちばんシアワセか、自分のココロに正直に尋ねてみるべき時なのかもしれません。

 で、その答えはと言うと、実は割とすんなりと出てくるわけで、……物心ついた頃から今までずっと、自分という人間は、文章を書いているときにいちばんシアワセを感じるのだと思います。

 たぶん、言葉が好きなのです。特に日本語で書くこの言葉が好きなのです。自分の意識の奥底に潜むもの、世界が一瞬見せるなにやら永遠めいたもの。それらを観察し、それらになんとか言葉で意味づけをし、カタチを作っていく作業が好きなのです。つまりは、言葉で表現することが好き、と言ってしまえば元も子もないのですが、靴を丁寧に磨くように、コトバのひとつひとつを磨いているとき、コトバとコトバのつながりをあーでもないこーでもないと考えているとき、それが至福のときなんです。そういうときの自分は、かなり几帳面なんだと思います。そして、かなり頑固なんだと思います。

 今年は、たぶん、そういう仕事を、とにかくコツコツとやっていきたいと思っています。大学での研究や授業内容はもちろんのこと、個人でお引き受けしている広告関連の仕事もみんな、もう一度、そこから、コトバを磨くことの原点から、丁寧に見つめ直していきたいと思っています。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

黒板

Dallmeyer 1inch f1.8 + E-PM1 + Color Efex Pro





 みなさんは、今年のクリスマス、どこでディナーを食べますか? 夜景がきれいな場所でイタリアン? それともフレンチ? 私はと言えば、今年は国分寺で鰻を食べようと思っています。え? 和食? それも鰻? はい、若松屋です。メリイクリスマス。

 今年は太宰治に明け暮れた一年でした。生誕110周年。大好きな太宰の小説を何度も読み返しました。太宰をテーマにした論文にもトライしてみました。そのために久しぶりに津軽まで取材調査にも出かけました。だから、やっぱり、今年は若松屋で〆たいと思うのです。メリイクリスマス。

 若松屋。太宰が三鷹時代によく通ったの鰻屋さんです。全集の口絵に使われた、ビイルを飲んでいるあの有名な写真も、たしか、@若松屋だったはずです。店はその後三鷹から国分寺に移転し、現在は国分寺街道沿いにあります。場所は変われど、太宰が愛した若松屋です。店には太宰関係の書籍がいっぱい並んでいます。ファンにはたまりません。そして、なによりも。初代から受け継がれる鰻がおいしいのです。おまけに刺身もおいしいのです。(二代目の時には寿司屋もやられていたそうです。現代は三代目の方が若松屋を継がれています)

 ここはまさにあの、『メリイクリスマス』の舞台です。だから、今年のクリスマスは若松屋の鰻、なのです。

「ハロー、メリイ、クリスマアス。」


メリークリスマス



 子どもの頃、歳をとった大人たちの歯を鳴らす音がイヤでイヤでたまらなかった。シーシー、チィッチィッ、シーハーシーハー。そうやって、爪楊枝を併用しながら歯の隙間に詰まった食べカスを取り除くのだ。そうして、彼らには厭な口臭があった。近づくと甘ったるい汚臭がぷんとした。幼い頃のボクは、彼らの歯を鳴らす音とその口臭を、憎悪していた。

 昨日、久しぶりに開高健さんのデビュー作『パニック』を読み返していたら(芥川賞作家の大岡玲さんが岩波文庫で『開高健短篇選』を出されています。大岡玲さんとは光栄にも現在の本務校でごいっしょさせていただいていています)以下のような文章が出てきた。

 課長は胃がわるいのでひどく口が匂う。出入業者に招待された宴会の翌朝など、まるでどぶからあがったばかりのような息をしていることがある。生温かく甘酸っぱい匂いだ。口だけでなく、手や首すじからもその匂いはにじみ出てくるようだ。白眼の部分にある黄いろくにごった縞を見ると、いつも、この男はくさりかけているなと思わせられる。

 課長は楊枝のさきについた血をちびちびなめた。俊介は息のかからないように机から体をひき、相手の不潔なしぐさをだまって眺めた。課長はひとしきり派の掃除をすませると、眼をあげ、日報の綴りをちらりとふりかえってたずねた。


開高健 / 大岡玲(編)『開高健短篇選』(岩波文庫)、pp11-12


 『パニック』における鼠のおぞましい異常繁殖と死の舞踏のイメージが、この課長の口臭の描写と見事に呼応している。

 さて、自分も今や、当時憎悪していた大人たちの年齢になってしまった。で、彼らがシーハーしたくなる気持が今ではよくわかる。歳をとると歯茎が後退してどうしても歯の間に隙間や歯周ポケットができてしまうのだ。そこに食べカスが溜まる。手のひらを口の前にかざして自分の息を吹きかけてみたら、ぷんとかすかにあの匂いがした。……自分もついに「くさりかけて」きたのだろうか? 



 喉がチリチリする。風邪かな? 熱はないようだけれど(ま、歳をとると体の反応が鈍くなるからあまり熱も出ないんだけれどね)、でもやっぱり体がだるい。

 ベッドに仰向けに寝ころんで耳にワイヤレスのイヤホンを突っ込み、apple watchでミュージックアプリを開く。チリー・ゴンザレスのピアノソロを選択する。apple watch、アナログの腕時計が好きなので今まではずっと敬遠していたのだけれど、やっぱりこれは便利。手元でほとんどのことがコントロールできる。リューズ部分を回せば音量調節も瞬時だ。




 それから、仰向けになったまま本を読み始める。一年遅れで文庫本になった江國香織さんの小説だ。冒頭でいきなり自分と同じ年齢の男の話が出てきてドキリとしたが、どうやらこれは作中作で、ほんとうの主人公は別にいるようだ。

 三十分も読んでいたらウトウトしてきた。いつのまにかブックカバーが外れてしまっている。ゴンザレスのピアノ曲も二番目のアルバムに移っている。細かい雨が降っている。水滴が窓硝子の表面で蠢いている。

 えっと、どこまで読んだんだっけ? ああ、ここからだ。

 これは地の文なのか、またまた作中作なのか。頭の中がぼんやりしている。頭の中にも少しずつ外の湿気が浸食してきてだんだんよくわからなくなってくる。ただ寝ぼけているだけなのかもしれないし、浅い夢を見ているのかもしれない。あるいはその夢の中でまた別の現実が始まっているのかもしれない。




 いちおう、ワタクシも研究者の端くれなので(汗)、年に一本は論文もしくは研究ノートを執筆すべく格闘している。今年の夏に取り組んでいるのは、現代の広告クリエイティブと近代日本文学を関連付ける考察で、今までにもよく言われていることだが、かの太宰治の文章をコピーライターの資質として改めて検証するというものである。現在、三鷹の太宰治文学サロンにてその名もズバリ「コピーライター太宰治」展だってやっているし、そうしたことを論じる近代日本文学の研究者の方々は以前からたくさんいらっしゃるが、広告クリエイティブの研究者や広告の実務制作者が太宰治のコピーライティングについて詳細分析している書籍や論文はあまり見たことがない。ので、ここは太宰ファン歴かれこれ四十年余のワタクシが奮闘してみようかと。コピーライティングの見地から改めて太宰作品を読み直してみると、やはり女性の一人称文体の「斜陽」や「女生徒」がわかりやすく秀逸である。

 恋、と書いたら、あと、書けなくなった。

 あさ、眼をさますときの気持は、面白い。

 などなど。でも、コピーライティングの究極の奥義は、実は「フォスフォレッスセンス」という小品に隠されているのではないか、というのが現段階での論旨である。その根拠は、……

 さて。コピーライティングとは関係ない話だが、太宰がこの「フォスフォレッスセンス」を書いたのは亡くなる前の年の5月か6月。この作品の後に「斜陽」「人間失格」そして絶筆となった「グッド・バイ」が続くが、ワタクシはこの「フォスフォレッスセンス」にこそ、太宰の死に対する想いが最も表れているように思う。後半に出てくる、夫が南方から帰ってこない「あのひと」は、ともに入水した山崎富栄がモデルであろうし。



 8月である。台風も去ってようやく梅雨が明けた。去年より一ヶ月も遅い。というか、去年の梅雨明けが異常に早すぎたのだけれど。でも、そのせいか、35度を超す猛暑日なのに、明け方には蜩がもうかまびすしく鳴いている。盛夏と晩夏がいっしょにやってきたみたい。まさに、太宰治が『ア、秋』で書いていることだなあとしみじみ思う。

 秋ハ夏ト同時ニヤッテ来ル。と書いてある。
 夏の中に、秋がこっそり隠れて、もはや来ているのであるが、人は、炎熱にだまされて、それを見破ることが出来ぬ。耳を澄まして注意をしていると、夏になると同時に、虫が鳴いているのだし、庭に気をくばって見ていると、桔梗の花も、夏になるとすぐ咲いているのを発見するし、蜻蛉だって、もともと夏の虫なんだし、柿も夏のうちにちゃんと実を結んでいるのだ。
 秋は、ずるい悪魔だ。夏のうちに全部、身支度をととのえて、せせら笑ってしゃがんでいる。


jizoh

Summicron 35mm f2 2nd + MM



 昨日、仕事の合間に三鷹市の芸術文化センターに太宰治を「聴き」に行った。太宰治朗読会は今年で19回目だという。毎年名だたる俳優の方が来る。今回は田中哲司さん。朗読する作品は「恥」と絶筆となった「グッド・バイ」。

グッドバイ


 素晴らしい舞台だった。田中さんの声色、表情は言うに及ばず、演出がいい。といっても大がかりな美術や映像があるわけでもなく、舞台にはシンプルな折りたたみ椅子がただひとつ。でも、田中さんは時に座りながら、時に舞台の袖から袖まで歩き回りながら、読み終える毎に原稿用紙を一枚ずつ床に落としていくのだ。それらが散乱し、やがて床を埋め尽くしていく。あとは最低限の効果音(SE)だけ。でも、役者の肉声とSEのみの究極の引き算の演出だからこそ、見る人、聴く人の感覚を揺さぶるのである。

 さて、太宰の「グッド・バイ」。編集者の田島と鴉声の美女キヌ子のやりとりが抱腹絶倒。最高にウィット&ユーモアに富んだコメディ作品である。

 朗読会が終わった。せっかくなので芸術文化センター隣の禅林寺にある太宰治の墓を久しぶりに訪ねてみることにする。白い百合の花がたくさん供せられていた。



 個人で仕事をする際の屋号は「もの・かたり。」にしている。英語で mono-cataly と表記しているのはカタリスト(catalyst) を意識してのことであるが、表現に携わる仕事をしている者にとって、「物語=ストーリーテリングとはなにか」というのは永遠のテーマである。

 先日、小川洋子さんとクラフト・エヴィング商會の『注文の多い注文書』を読んでいたら、あとがきに相当する『物と時間と物語』の中で以下のような文面を見つけた。まさにまさに。これ、ずっと思っていたことである。


H:そういえば、どうして物語の「もの」って「物」なんだろう。人間の「者」じゃなくて。
O:たしかに、人が語るものなのに不思議です。
A:きっと、「物」の方が物語を知っているんですね。
H:どうして、人も「もの=者」っていうのかな?
A:そういえば、物には魂がある、と昔の日本人は気づいてました。いまはみんな忘れちゃったみたいですけど、昔はそれが当たり前でした。
小川洋子 / クラフト・エヴィング商會『注文の多い注文書』(ちくま文庫、2019年)p.208

*Oは小川洋子さん、Hは吉田浩美さん、Aは吉田篤弘さん




 ガルシア・マルケスの『百年の孤独』。読み返すのはこれで何度目になるだろう? 単行本で400ページ以上。そう易々と読み続けられる本ではない。毎晩寝る前に20ページぐらい読む。その結果、あまりの虚無感で塞ぎ込むように目を閉じてしまうか、あるいは、むせかえるような熱気で目が冴えて、ベッドを抜け出しそのまま朝を迎えることになるか。毎晩、確率はふたつにひとつ。
 さて、そんなガルシア・マルケスの『百年の孤独』。何度読み返しても、いっこうに読み終えた感じがしない。ますます無限ループのなかに迷い込んでいく気分になる。世代が変わっても登場人物たちは親の名前を延々と継いでいく。結果、途中から誰が誰だかわからなくなる。双子のような兄弟は容姿も性格も正反対。けれどもどちらも同じ女と同衾したりする。保守党と自由党の区別は付かなくなり、100歳を過ぎても生き続ける女もいれば、死んだ後も亡霊として生き続ける男もいる。

 若い頃は鮮やかなストーリーメイカーに憧れた。四十代までは巧みなストーリーテラーに脱帽した。でも、最近は、神話の時代のオーラルな物語に立ち返ったような、ストーリーウィーバー(story weaver ストーリーを紡ぐ人)に心ときめく。ガルシア・マルケスは間違いなくその筆頭の作家だと思う。

胞子

GR 18.3mm f2.8 of GRⅢ

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