naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: literature



 日本の映画監督の中で一番好きなのは、やはり行定勲監督。あのローキーで暗緑色がかった色味、光の滲む映像は病みつきになる。彼の手に掛かると、どんなロケ地でもまるで演劇の舞台のセットの如くメタファーに満ちた趣になる。三島由紀夫の「春の雪」、雫井脩介の「クローズド・ノート」、中谷まゆみの「今度は愛妻家」が特に印象に残っている。最近だと、去年の今頃映画化された島本理生の「ナラタージュ」の映像がとにかく美しかった。

 先日、久しぶりに原作の「ナラタージュ」を読み返してみた。もう十年以上前の作品である。葉山先生と工藤泉。ふたりの最後の合瀬の、あのあまりにも切ない性描写、みごとな筆致である。こんな文章を20歳そこそこで書けるなんて、やはり彼女は天才なのだろう。そして、この「ナラタージュ」、原作も映画も雨の描写が象徴的である。

 雨の午後は昼間と夕方の境界線が曖昧で、窓にはただ全体的に暗くなっていく一枚だけの景色が張り付いていた。

島本理生『ナラタージュ』(角川書店、2005年)


 ナラタージュ。ナレーションとモンタージュの造語。あるいは、過去を再現する手法。

 最近、ナラティブとかナレーション、そしてこのナラタージュといった言葉の響きがとても気になる。そこにこそ「物語」の一番大切なエッセンスが「滲んで」いるようで。




 町田市にある武相荘に行ってきた。ご存じ、白洲次郎・正子夫婦の邸宅跡。ここは、戦時中、当時まだ寒村だった鶴川村の農家をふたりが買い取って改築したものである。現在ギャラリーになっている茅葺き屋根の母屋には正子の書斎が残されている。蔵書の一冊一冊を眺めやる。折口信夫全集、南方熊楠全集。チェーホフも数冊ある。本の重みのせいか床の一部が真ん中で傾いていたりもする。

 書斎近くに「無駄のある家」と題した正子の文章の一部が展示されていた。この文章が素晴らしい。

 鶴川の家を買ったのは、昭和十五年で、……(中略)……もともと住居はそうしたものなので、これでいい、と満足するときはない。綿密な計画を立てて、設計してみた所で、住んでみれば何かと不自由なことが出て来る。さりとてあまり便利に、ぬけ目なく作りすぎても、人間が建築に左右されることになり、生まれつきだらしのない私は、そういう窮屈な生活が嫌いなのである。俗にいわれるように、田の字に作ってある農家は、その点都合がいい。いくらでも自由がきくし、いじくり廻せる。ひと口にいえば、自然の野山のように、無駄が多いのである。……(中略)……あくまでも、それは今この瞬間のことで、明日はまたどうなるかわからない。そういうものが家であり、人間であり、人間の生活であるからだが、……

白洲正子『縁あって』(2010年、PHP研究所)


 普請道楽を極めた人だけが言える言葉だと思う。

武相荘2

武相荘1

Summilux 50mm fd1.4 1st + M9-P



 今までに、どのくらいの数の小説を読んできただろう。家の本棚にあるものだけでも単行本で2000冊ぐらい、文庫本で1000冊以上。それ以外にも図書館で借りたり、すでに売却してしまったものも含めると優に5000冊は超えているのではないだろうか。そのうち、何度も読み返しているのはせいぜいが200〜300冊、全体の5%ぐらいで、あとはあらすじも登場人物もほとんど忘れてしまった。でも、物心ついてからずっと読み続けてきたこれら古今東西の小説たちは、かなりの確率ですべて自分の血となり肉となっているはずで、自分の感受性なるものの大半はこうした小説たちで出来ている。
 その中から特に好きだったものを挙げろと言われたら相当悩むかも知れないが、「一番痛快だった小説は?」と尋ねられれば、わりとたやすく答えられるかもしれない。……それは、(あまりに著名でオーソドックスで、中高の推薦図書っぽくて恐縮だけれど)やっぱり、夏目漱石の「坊っちゃん」なのである。

 「坊っちゃん」……この小説、明治時代に書かれたものとは思えないくらい、平成も終わろうとしている現代人にもとてもテンポよく読める。そして、痛快なのである。主人公や山嵐の気質が竹を割ったようで清々しい。読み返す度にスッキリする。かといって、この小説、単なる青春小説の枠にとどまるものでもなく、赤シャツや野だいこの言動を通じて近代以降の人間のエゴイズムや欺瞞を浮き彫りにしてくれる、人間のさまざまな「こころ」を思索できる小説なのである。

 金や威力や理屈で人間の心が買える者なら、高利貸でも巡査でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。

夏目漱石『坊っちゃん』より





 人間の心で最も制御出来ないのは、嫉妬とプライドだ。だけどその二つがないと人間には何も出来ない。それは生きるための糧でもあるから。

坂元祐二『往復書簡 初恋と不倫』より



 人生100年時代。これからは3ステージではなく4ステージで人生を考えるべきだといろんな人が言っている。それによれば、50歳からこそが円熟の第3ステージ。25歳までの第1ステージ、50歳までの第2ステージに仕込んできたさまざまなモノゴトを花開かせる時期らしい。
 さて、今までの我が人生、たぶん、人並み以上にいろんなことにチャレンジし、さまざまな自分を多角的に創り出そうと努力してきたつもりである。そしてこれからも、それらを組み合わせ、まだまだ新しいことにたくさんチャレンジしていくつもり。少なくとも70歳までは現役を貫く。その気力は十分にあると思っているし、新しい未来の自分にワクワクしている。
 でも、同時に、今までよくやった、もう十分かもしれない、これからは、ほんとうに新しいことなんか起こりはしない。……そう思っている自分もいたりする。
 決して厭世的になっているわけではなく、でも、仮に寿命が100歳まで延びようとも、何かに相応しい季節というのはやはり決まっていて、我々はそれを安易に引き延ばせるものではないのだ。だから、もう。でも、まだ。……このところ、そんな錯綜した気持ちがいつも心の奥底に沈殿していたのであるが、吉田篤弘さんの小説「おるもすと」を読んでいたら、しっくりと合点がゆく文章に出会った。

 もうほとんど何もかも終えてしまったというのに、どうしても自分はそれを終えることができない。

 僕はそうして、もうずいぶんといろいろな物や事を忘れてしまった。忘れてしまったのだから何も覚えていない。ただ、少し前まではいまよりもう少し複雑な何かや、やきもきする気がかりなことや不安なんかを抱えていたように思う。

 その他のほとんどのことは終えてしまったり忘れてしまったりしたけれど、わざと少し色を塗り残すみたいに、想像する思いだけは、手つかずのまま変わらないようにと願っている。


吉田篤弘『おるもすと』より





 猛暑日が続く。こんな酷暑の東京の日々、永井荷風先生ならどんなふうに過ごしていたのだろうか。酷暑なら酷暑なりの風情のある過ごし方をしていたに相違ない、と思って「夏の町」を読んでみた。

 いつぞや柳橋の裏路地の二階に真夏の日盛りを過した事があった。その時分知っていたこの家の女を誘って何処か凉しい処へ遊びに行くつもりで立寄ったのであるが、窓外の物干台へ照付ける日の光の眩さに辟易して、とにかく夕風の立つまでとそのまま引止められてしまったのだ。物干には音羽屋格子や水玉や麻の葉つなぎなど、昔からなる流行の浴衣が新形と相交って幾枚となく川風に飜っている。其処から窓の方へ下る踏板の上には花の萎れた朝顔や石菖やその他の植木鉢が、硝子の金魚鉢と共に置かれてある。八畳ほどの座敷はすっかり渋紙が敷いてあって、押入のない一方の壁には立派な箪笥が順序よく引手のカンを并べ、路地の方へ向いた表の窓際には四、五台の化粧鏡が据えられてあった。折々吹く風がバタリと窓の簾を動すと、その間から狭い路地を隔てて向側の家の同じような二階の櫺子窓が見える。鏡台の数だけ女も四、五人ほど、いずれも浴衣に細帯したままごろごろ寝転んでいた。暑い暑いといいながら二人三人と猫の子のようにくッつき合って、一人でおとなしく黙っているものに戯いかける。揚句の果に誰かが「髪へ触っちゃ厭だっていうのに。」と癇癪声を張り上げるが口喧嘩にならぬ先に窓下を通る蜜豆屋の呼び声に紛らされて、一人が立って慌ただしく呼止める、一人が柱にもたれて爪弾の三味線に他の一人を呼びかけて、「おやどうするんだっけ。二から這入るんだッけね。」と訊く。坐るかと思うと寝転ぶ。寝転ぶかと思うと立つ。其処には舟底枕がひっくり返っている。其処には貸本の小説や稽古本が投出してある。寵愛の小猫が鈴を鳴しながら梯子段を上って来るので、皆が落ちていた誰かの赤いしごきを振って戯らす。自分は唯黙って皆のなす様を見ていた。浴衣一枚の事で、いろいろの艶しい身の投げ態をした若い女たちの身体の線が如何にも柔く豊かに見えるのが、自分をして丁度、宮殿の敷瓦の上に集う土耳其美人の群を描いたオリヤンタリストの油絵に対するような、あるいはまた歌麿の浮世絵から味うような甘い優しい情趣に酔わせるからであった。自分は左右の窓一面に輝くすさまじい日の光、物干台に飜る浴衣の白さの間に、寝転んで下から見上げると、いかにも高くいかにも能く澄んだ真夏の真昼の青空の色をも、今だに忘れず記憶している。

永井荷風『夏の町』より


 さすがである。

 平成30年の八月も、窓一面にはすさまじい日の光である。とにかく夕風の立つまで待つことにしよう。



 小説家の「住野よる」と言えば、とにもかくにも『君の脾臓をたべたい』が有名だが、(映画化された際の浜辺美波の演技はスバラシかった!)小説としてはこちらの方が好きである。『また、同じ夢を見ていた』。文庫本が出たので再読していたのだが、台風の夜に鞄の中に入れて持ち運んでいたためか、こんなになってしまった。(涙)

住野よる

 とても平易な文章で書かれているが、これはある意味、哲学書だと思う。

 「幸せとは、自分が嬉しく感じたり楽しく感じたり、大切な人を大事にしたり、自分のことを大事にしたり、そういった行動や言葉を、自分の意思で選べることです。」

 といった、人生の指南書でありつつ、この世界の認識の仕方についての、これは正当な哲学書でもあるのではないか。読み終えたあと、バートランド・ラッセルの「世界五分前仮説」のことを思い出してしまった。タイトルのせいかもしれない。『また、同じ夢を見ていた』。

テントウムシ

FE 55mm f1.8 + α7s


 🐞@啄木




 先週の鹿児島滞在中、空き時間を利用して磯浜に行ってみた。目的は『細長い海』である。

 向田邦子さんのエッセイには、ドラマの脚本以上にドラマトゥルギーを感じさせる名作が揃っている。中でも鹿児島の天保山や磯浜のことが書かれている『細長い海』(『父の詫び状』に収録)はすばらしい。しかしながら、文章を読んでいるだけではこのタイトルの『細長い海』のイメージがいまひとつつかめないでいた。そこで、実際に行ってみることにしたのである。仙巌園や尚古集成館は大河ドラマ人気もあってか、大型観光バスが何台も駐車場に停まっているほどの賑わいを見せているが、手前の磯浜の方は海開き前の梅雨時、ほとんど誰もいない。

 エッセイの中では磯浜はこんなふうに描写されている。

 鹿児島の磯浜は、錦江湾の内懐にある。目の前に桜島が迫り、文字通り白砂青松、波のおだやかな美しい浜である。近頃は観光名所になってひどくにぎわっているらしいが、戦前は静かなものだった。
 島津別邸もあり、市内に近いこともあって品のいい別荘地でもあったようだ。山が海岸近くまで迫り、海に向って、名物の「じゃんぼ」を食べさす店が何軒か並んでいた。「じゃんぼ」は醤油味のたれをからめたやわらかい餅である。ひと口大の餅に、割り箸を二つ折りにしたような箸が二本差してあるので、二本棒つまり「リャン棒」がなまったのだと、解説好きの父が食べながら教えてくれた。
 母がこの「じゃんぼ」を好んだこともあって、鹿児島にいる自分はよく磯浜へ出かけた。
 海に面した貸席のようなところへ上り、父はビールを飲み、母と子どもたちは大皿いっぱいの「じゃんぼ」を食べる。このあと、父は昼寝をし、母と子どもたちは桜島を眺めたり砂遊びをしたりして小半日を過すのである。
 あれは泳ぐにはまだ早い春の終わり頃だったのだろうか。
 いつも通り座敷に上がって父はビールを飲み、私達は「じゃんぼ」の焼き上るのを待っていた。おとなにとって景色は目の保養だが、子供にとっては退屈でしかない。小学校四年生だった私は、一人で靴をはき、おもてへ遊びに出た。貸席と貸席の間はおとな一人がやっと通れるほどの間で建っている。私はそこを通ってタクシーの通る道路の方を見物にゆき、格別面白いものもないので、また狭い隙間を通って家族のいる座敷へもどっていった。


 いくつか並んでいる店のうち、たぶん向田家が利用したであろう桐原家両棒店で「じゃんぼ」を注文することにした。「焼き上がるのに少々時間がかかります」とのこと。で、貸間に案内される。

桐原家

 嗚呼、これぞ正しき日本の夏休み、な感じの貸間である。確かにここでビールを飲んで午睡をしたらさぞや心地良いだろうなあと思いつつ、ガラス越しに目の前の桜島をぼんやりと眺めやる。15分ほどして出てきた「じゃんぼ」を食べてみると、それはなんとも柔らかく甘く香ばしい味がした。

じゃんぼ
 さて、この桐原家両棒店は道路側の入り口から砂浜までの奥行きがずいぶんと長い。そして、注文するところと貸間の入り口が別々になっている。かつては、その間に奥行きの長い狭い通路があったのではないだろうか。その閉塞感が、この後、通路の中ですれ違った漁師に「軽いいたずら」をされてしまった小学校四年生の向田さんの心情を絶妙に言い表す表現となる。……それが、『細長い海』だったのかもしれない。

 私はしばらくの間、板に寄りかかって立っていた。建物と建物の間にはさまれた細長い海がみえた。


all photos taken by Summilux 35mm f1.4 2nd + M9-P



 NHKの朝ドラ「半分、青い。」は岐阜県が舞台である。脚本家の北川悦吏子さんのふるさと。番組中にたくさんの岐阜弁(東濃弁?)が飛び交っている。私も岐阜県の出身なので理解は出来るが、岐阜弁というのはけっこう特殊なのだ。例えば、こんなふうに。……昔、よく母親に「はよ、まわしせんと」となどと言われた。「まわし」とは「準備、支度」の意味である。標準語的にはさっぱり意味がわからぬ。

 幼い頃から私はこの地方の言葉があまり好きではなかった。おとなたちが話している言葉のイントネーションがイヤだったのだ。大仰でなにやらがさつで。もっと柔らかなニュアンスの言葉を話す国で暮らしたいと思っていた。でも、自分の出自を変えることはできない。

 そんな自分の生まれた場所(岐阜県の大垣市である)に初めて誇りを持ったのは本郷の菊富士ホテルのことを知った時であろうか。菊富士ホテル。本郷の菊坂にあった西洋式のホテル。大正から昭和にかけて、文人たちのコミュニティとして有名だった高級下宿。今で言えばコーポラティブハウスといったところか。尾崎士郎、宇野浩二、竹久夢二、谷崎潤一郎、広津和郎、直木三十五、そして坂口安吾といった名だたる文士たちがみんな菊富士ホテルの住人だったのだ。で、この菊富士ホテルをつくったのが岐阜県大垣市平村(現在の安八郡)出身の羽根田幸之助なのである。彼は日本の近代文学の偉大なパトロンだったのだ。

 ホテルは空襲で焼けて、現在では跡地に石碑が建っているだけだが、かつてここに富士山が望める三階建ての、そしててっぺんには坂口安吾が愛用した塔の部屋のあるホテルが建っていたのだと思うと感慨深い。近藤富枝さんが書いた「本郷菊富士ホテル」を片手に界隈を散策してみると、女子美術大学の前身の建物や宇野千代が働いていたレストランが近くにあったこともわかる。

ホテル跡


本郷菊富士ホテル


 岐阜県大垣市出身であることが誇りに思えるひとときである。


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