naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: literature



 猛暑日が続く。こんな酷暑の東京の日々、永井荷風先生ならどんなふうに過ごしていたのだろうか。酷暑なら酷暑なりの風情のある過ごし方をしていたに相違ない、と思って「夏の町」を読んでみた。

 いつぞや柳橋の裏路地の二階に真夏の日盛りを過した事があった。その時分知っていたこの家の女を誘って何処か凉しい処へ遊びに行くつもりで立寄ったのであるが、窓外の物干台へ照付ける日の光の眩さに辟易して、とにかく夕風の立つまでとそのまま引止められてしまったのだ。物干には音羽屋格子や水玉や麻の葉つなぎなど、昔からなる流行の浴衣が新形と相交って幾枚となく川風に飜っている。其処から窓の方へ下る踏板の上には花の萎れた朝顔や石菖やその他の植木鉢が、硝子の金魚鉢と共に置かれてある。八畳ほどの座敷はすっかり渋紙が敷いてあって、押入のない一方の壁には立派な箪笥が順序よく引手のカンを并べ、路地の方へ向いた表の窓際には四、五台の化粧鏡が据えられてあった。折々吹く風がバタリと窓の簾を動すと、その間から狭い路地を隔てて向側の家の同じような二階の櫺子窓が見える。鏡台の数だけ女も四、五人ほど、いずれも浴衣に細帯したままごろごろ寝転んでいた。暑い暑いといいながら二人三人と猫の子のようにくッつき合って、一人でおとなしく黙っているものに戯いかける。揚句の果に誰かが「髪へ触っちゃ厭だっていうのに。」と癇癪声を張り上げるが口喧嘩にならぬ先に窓下を通る蜜豆屋の呼び声に紛らされて、一人が立って慌ただしく呼止める、一人が柱にもたれて爪弾の三味線に他の一人を呼びかけて、「おやどうするんだっけ。二から這入るんだッけね。」と訊く。坐るかと思うと寝転ぶ。寝転ぶかと思うと立つ。其処には舟底枕がひっくり返っている。其処には貸本の小説や稽古本が投出してある。寵愛の小猫が鈴を鳴しながら梯子段を上って来るので、皆が落ちていた誰かの赤いしごきを振って戯らす。自分は唯黙って皆のなす様を見ていた。浴衣一枚の事で、いろいろの艶しい身の投げ態をした若い女たちの身体の線が如何にも柔く豊かに見えるのが、自分をして丁度、宮殿の敷瓦の上に集う土耳其美人の群を描いたオリヤンタリストの油絵に対するような、あるいはまた歌麿の浮世絵から味うような甘い優しい情趣に酔わせるからであった。自分は左右の窓一面に輝くすさまじい日の光、物干台に飜る浴衣の白さの間に、寝転んで下から見上げると、いかにも高くいかにも能く澄んだ真夏の真昼の青空の色をも、今だに忘れず記憶している。

永井荷風『夏の町』より


 さすがである。

 平成30年の八月も、窓一面にはすさまじい日の光である。とにかく夕風の立つまで待つことにしよう。



 小説家の「住野よる」と言えば、とにもかくにも『君の脾臓をたべたい』が有名だが、(映画化された際の浜辺美波の演技はスバラシかった!)小説としてはこちらの方が好きである。『また、同じ夢を見ていた』。文庫本が出たので再読していたのだが、台風の夜に鞄の中に入れて持ち運んでいたためか、こんなになってしまった。(涙)

住野よる

 とても平易な文章で書かれているが、これはある意味、哲学書だと思う。

 「幸せとは、自分が嬉しく感じたり楽しく感じたり、大切な人を大事にしたり、自分のことを大事にしたり、そういった行動や言葉を、自分の意思で選べることです。」

 といった、人生の指南書でありつつ、この世界の認識の仕方についての、これは正当な哲学書でもあるのではないか。読み終えたあと、バートランド・ラッセルの「世界五分前仮説」のことを思い出してしまった。タイトルのせいかもしれない。『また、同じ夢を見ていた』。

テントウムシ

FE 55mm f1.8 + α7s


 🐞@啄木




 先週の鹿児島滞在中、空き時間を利用して磯浜に行ってみた。目的は『細長い海』である。

 向田邦子さんのエッセイには、ドラマの脚本以上にドラマトゥルギーを感じさせる名作が揃っている。中でも鹿児島の天保山や磯浜のことが書かれている『細長い海』(『父の詫び状』に収録)はすばらしい。しかしながら、文章を読んでいるだけではこのタイトルの『細長い海』のイメージがいまひとつつかめないでいた。そこで、実際に行ってみることにしたのである。仙巌園や尚古集成館は大河ドラマ人気もあってか、大型観光バスが何台も駐車場に停まっているほどの賑わいを見せているが、手前の磯浜の方は海開き前の梅雨時、ほとんど誰もいない。

 エッセイの中では磯浜はこんなふうに描写されている。

 鹿児島の磯浜は、錦江湾の内懐にある。目の前に桜島が迫り、文字通り白砂青松、波のおだやかな美しい浜である。近頃は観光名所になってひどくにぎわっているらしいが、戦前は静かなものだった。
 島津別邸もあり、市内に近いこともあって品のいい別荘地でもあったようだ。山が海岸近くまで迫り、海に向って、名物の「じゃんぼ」を食べさす店が何軒か並んでいた。「じゃんぼ」は醤油味のたれをからめたやわらかい餅である。ひと口大の餅に、割り箸を二つ折りにしたような箸が二本差してあるので、二本棒つまり「リャン棒」がなまったのだと、解説好きの父が食べながら教えてくれた。
 母がこの「じゃんぼ」を好んだこともあって、鹿児島にいる自分はよく磯浜へ出かけた。
 海に面した貸席のようなところへ上り、父はビールを飲み、母と子どもたちは大皿いっぱいの「じゃんぼ」を食べる。このあと、父は昼寝をし、母と子どもたちは桜島を眺めたり砂遊びをしたりして小半日を過すのである。
 あれは泳ぐにはまだ早い春の終わり頃だったのだろうか。
 いつも通り座敷に上がって父はビールを飲み、私達は「じゃんぼ」の焼き上るのを待っていた。おとなにとって景色は目の保養だが、子供にとっては退屈でしかない。小学校四年生だった私は、一人で靴をはき、おもてへ遊びに出た。貸席と貸席の間はおとな一人がやっと通れるほどの間で建っている。私はそこを通ってタクシーの通る道路の方を見物にゆき、格別面白いものもないので、また狭い隙間を通って家族のいる座敷へもどっていった。


 いくつか並んでいる店のうち、たぶん向田家が利用したであろう桐原家両棒店で「じゃんぼ」を注文することにした。「焼き上がるのに少々時間がかかります」とのこと。で、貸間に案内される。

桐原家

 嗚呼、これぞ正しき日本の夏休み、な感じの貸間である。確かにここでビールを飲んで午睡をしたらさぞや心地良いだろうなあと思いつつ、ガラス越しに目の前の桜島をぼんやりと眺めやる。15分ほどして出てきた「じゃんぼ」を食べてみると、それはなんとも柔らかく甘く香ばしい味がした。

じゃんぼ
 さて、この桐原家両棒店は道路側の入り口から砂浜までの奥行きがずいぶんと長い。そして、注文するところと貸間の入り口が別々になっている。かつては、その間に奥行きの長い狭い通路があったのではないだろうか。その閉塞感が、この後、通路の中ですれ違った漁師に「軽いいたずら」をされてしまった小学校四年生の向田さんの心情を絶妙に言い表す表現となる。……それが、『細長い海』だったのかもしれない。

 私はしばらくの間、板に寄りかかって立っていた。建物と建物の間にはさまれた細長い海がみえた。


all photos taken by Summilux 35mm f1.4 2nd + M9-P



 NHKの朝ドラ「半分、青い。」は岐阜県が舞台である。脚本家の北川悦吏子さんのふるさと。番組中にたくさんの岐阜弁(東濃弁?)が飛び交っている。私も岐阜県の出身なので理解は出来るが、岐阜弁というのはけっこう特殊なのだ。例えば、こんなふうに。……昔、よく母親に「はよ、まわしせんと」となどと言われた。「まわし」とは「準備、支度」の意味である。標準語的にはさっぱり意味がわからぬ。

 幼い頃から私はこの地方の言葉があまり好きではなかった。おとなたちが話している言葉のイントネーションがイヤだったのだ。大仰でなにやらがさつで。もっと柔らかなニュアンスの言葉を話す国で暮らしたいと思っていた。でも、自分の出自を変えることはできない。

 そんな自分の生まれた場所(岐阜県の大垣市である)に初めて誇りを持ったのは本郷の菊富士ホテルのことを知った時であろうか。菊富士ホテル。本郷の菊坂にあった西洋式のホテル。大正から昭和にかけて、文人たちのコミュニティとして有名だった高級下宿。今で言えばコーポラティブハウスといったところか。尾崎士郎、宇野浩二、竹久夢二、谷崎潤一郎、広津和郎、直木三十五、そして坂口安吾といった名だたる文士たちがみんな菊富士ホテルの住人だったのだ。で、この菊富士ホテルをつくったのが岐阜県大垣市平村(現在の安八郡)出身の羽根田幸之助なのである。彼は日本の近代文学の偉大なパトロンだったのだ。

 ホテルは空襲で焼けて、現在では跡地に石碑が建っているだけだが、かつてここに富士山が望める三階建ての、そしててっぺんには坂口安吾が愛用した塔の部屋のあるホテルが建っていたのだと思うと感慨深い。近藤富枝さんが書いた「本郷菊富士ホテル」を片手に界隈を散策してみると、女子美術大学の前身の建物や宇野千代が働いていたレストランが近くにあったこともわかる。

ホテル跡


本郷菊富士ホテル


 岐阜県大垣市出身であることが誇りに思えるひとときである。




 作家が書く小説や随筆は名作コピーの宝庫だと思う。その中でも、なんといっても秀逸なのは太宰治。『斜陽』に出てくる例の、

 恋、と書いたら、あと、書けなくなった。

 句読点の打ち方といい、これはもう絶品である。でも、これと双璧なのが、

 早く『昔』になれば好い。

 普通の言葉を使いつつ組み合わせの意外性でドキリとさせる。コピーライティングの王道。そして、太宰に勝るとも劣らない情緒を醸し出している。

 書いたのは竹久夢二。大正ロマンの有名な画家であるが、詩人でもある。夢二画集には春夏秋冬の4つがあるが、その中の「夏の巻」にその言葉は綴られている。

夏の巻


 僕は、淡暗い蔵の二階で、白縫物語や枕草子に耽つて、平安朝のみやびやかな宮庭生活や、春の夜の夢のよふな、江戸時代の幸福な青年少女を夢みてゐたのだ。あゝ、早く『昔』になれば好いと思つた。
 
竹下夢二 『夢二画集 夏の巻』より


 亡くなられた作家・演出家の久世光彦さんが夢二が大好きでこの言葉をそのままタイトルにした小説を書いているが、改めて、

 あゝ、早く『昔』になれば好いと思つた。

 これ、ほんとうに一番ゼイタクな心情だと思う。早く未来なんか来て欲しくもなんともないけれど、早く昔が来てくれたら。……これほど胸ときめく言葉は他にないのではないだろうか。改めて、春の夜にそんなことを思う。

 



 「銀河鉄道の父」を読んでから改めて宮沢賢治についていろいろ知りたくなって、畑山博さんが書いた「教師 宮沢賢治のしごと」をKINDLE版で読んだ。

教師宮沢賢治

 この本の中で、畑山さんは、かつて農学校での宮沢賢治の教え子だったひと数人から取材して、教師宮沢賢治のいくつかの授業を再現しているのだが、

 学校の教師という仕事は、それをほんとうに誠実に心を賭けてやったら、音楽とか絵とかいうような芸術より、もっとすばらしい芸術行為になるのだと、私は思っています。
畑山博著 「教師 宮沢賢治のしごと」より


 と書いている。これを読んで目が覚める思いがした。残念ながら、ひとにものを教える行為をここまで考えきったことは今までなかったと自分を恥じた。来週からまた新学期の授業が始まる。この文章を肝に銘じて臨みたいと思う。

 さて、宮沢賢治の童話、詩で好きなものはたくさんあるが、教師をしていた頃の短編小説というのかエッセイと言えばいいのか、「イギリス海岸」を再読してみた。

 もっと談してゐるうちに私はすっかりきまり悪くなってしまひました。なぜなら誰でも自分だけは賢こく、人のしてゐることは馬鹿げて見えるものですが、その日そのイギリス海岸で、私はつくづくそんな考のいけないことを感じました。からだを刺されるやうにさへ思ひました。はだかになって、生徒といっしょに白い岩の上に立ってゐましたが、まるで太陽の白い光に責められるやうに思ひました。
宮沢賢治著 「イギリス海岸」より

 花巻のイギリス海岸には二十数年前に行ったきりである。



 さあ、今日から春なのです。ダウンジャケットはクローゼットの奥にしまい込み、ベージュのトレンチコートに着替えましょう。そうして、蕾みが膨らんだ桜の木の下を通り、街外れの公園に向かって歩いていきましょう。

 太陽は輝き、夜は匂い立ち、そうして、時はよみがえる。

 でも、やっぱり。会えなくなってしまったひとに再び会える奇跡は起こらず、過去の悔恨は尽きることもない。けれど、だからといって自分の人生を卑下するなかれ。人生は最終的にはプラスマイナス・ゼロ。今までが良ければこれから下り坂、今まで悪かったひとはこれから上り坂。キミの人生はどうだ? うまくいったか、うまくいっているのか? うまくいってないと思っているあなた、ちゃんと努力すべき時に努力したのか? なんでもひとのせいにするなかれ。なんでも不運のせいにするなかれ。それにしても、いやですねえ。お互い年を取ると、みんななんだか、ひがみっぽくなってイヤですねえ。

 さあ、でも、今日から春なのです。もうすぐあなたも公園にたどり着くでしょう。そこは特別な公園なのです。中原中也がこんなふうに謳っていた、世にも不思議な公園なのです。

park

Illuminar 25mm f1.4 + E-PM1


 林の中には、世にも不思議な公園があつて、無気味な程にもにこやかな、女や子供、男達散歩してゐて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、表情してゐた。
 
中原中也『いきてかへらぬ』



 ひとの人生はどうやって決まっていくのだろう。けっきょくはひとそれぞれにはあらかじめ定められた運命のようなものがあって、我々はそれに付き従って生きているのに過ぎないと感じることもあるし、いや、人生のさまざまなステージにはいくつかの岐路が用意されていて、その中のどれを選ぶのか、人生とは複雑なパズルの選択の結果なのだと思うこともあるし、いやいや、強く願い一心不乱に努力すれば自分のなりたい自分になれると、それこそ強く思うこともある。

 人生の岐路。昔、あるひとに言われたことがあるのだが、ひとは自分の人生を振り返ってみて、あの時のあの人こそが自分の人生を決定するターニングポイントだったのではないか、そう思える人が必ず誰でも数人思い浮かぶものだけれど、(あの時、あの彼氏彼女と別れずに結婚していたら人生違っていたかも、とか。あの時、あの人のアドヴァイスに従って別の仕事を選んでいたら、とか)実際はそんな単純なものではなくて、自分では気づかないで通り過ぎていたところにけっこうたくさんの切り返し点が紛れていたりするし、人生を決定づけるのに強い影響を及ぼしたひとは、その当時はあまり意識していなかったひとの場合も多いのだと。

 川上弘美さんの「森へ行きましょう」。読み応えのある小説だった。さまざまな可能性が潜在し続ける人生。そのパラレルワールドの幅、そしてそれらがメルティングされる可能性が提示されてゆく。そら恐ろしい小説。でも、ラストは諦念に包まれつつも妙に吹っ切れた気分にさせてくれる小説だった。

森へ行きましょう


 道は、何本にも分かれてつながっており、右を選ぶか左を選ぶか、まんなかを選ぶか端を選ぶかは、常に不確定で、選んでしまった後になってからしか、自分のたどっている道筋はわからない。

(川上弘美著 『森へ行きましょう』より)




 ユルスナールが好きである。ご多分に漏れず、須賀敦子さんの「ユルスナールの靴」を読んでこの作家のことを知った。それから「ハドリアヌス帝の回想」「黒の過程」「なにが?永遠が」と、彼女の作品を続けざまに読んだ。初期の頃の「東方綺譚」も素晴らしい。例えば、「東方綺譚」の中の「老絵師の行方」という短編。

東方綺譚

 沈黙が壁であり言葉がそれをいろどる色彩であるかのように、語ったのだ。

 まさに、この一節が言い表しているような絵画的な作品である。

 幼い頃から博学の父親に連れられて旅を続けたユルスナール。晩年も著作の傍ら旅を愛したという。

 一つの町にとどまるのに倦きていた。そこに住む人々の顔が、美についても醜についても、これ以上の秘密を教えてくれそうもないからだ。

 これも「老絵師の行方」の中の一節。ひとは限られた人生の時間の中で見つけ出さなくてはならない。なにを?……たぶん、永遠を、である。ランボーが「地獄の季節」の中で書いていたように。

このページのトップヘ