カテゴリ: literature
「時間とは永遠の贈り物である」
最近、ラテンアメリカ文学が人気である。ガルシア=マルケスの大作『百年の孤独』の文庫版が発売されてベストセラーらしい。もちろん、ガルシア=マルケスも大好きな作家のひとりだが、学生時代からずっと耽溺してきたのはホルヘ・ルイス・ボルヘス。小説や詩はもちろん、随筆や文学・哲学評論も素晴しいの一言に尽きる。特に『語るボルヘス』に収録されている「時間」をテーマにした講演文。永遠とは何か、時間とは何か、という哲学上の究極の命題に対して、プラトン以来のこうした発想(最初に永遠ありき。時間はそれを小出しにして我々に見せてくれる継起的なもの)の方がなるほど、腑に落ちる。
プラトンは、時間とは永遠の動的な似姿であると言っています。彼はまず永遠から、永遠の存在から説き起こして、その永遠の存在は他の存在のうちに自らを投影したいと願っている、と言っています。永遠の中では自らを投影できないので、継起的な形でそうせざるを得ないのです。このようにして、永遠の移ろいゆく姿、つまり時間が生まれてきます。イギリスの偉大な神秘主義者ウィリアム・ブレイクは、「時間とは永遠の贈り物である」と言っています。もし万が一われわれに全存在が与えられたら……。ここに言う存在とは、宇宙よりも、世界よりも大きいものなのです。もしそのような存在が突然目の前に現れたら、われわれは消滅し、無と化して死に絶えるでしょう。しかし、幸い時間は永遠からの贈り物です。したがって、永遠はそれを継起的な形でわれわれに体験させてくれます。われわれには昼もあれば、夜もあり、時間も分もあります。記憶もあれば、肌で感じ取れる感覚もありますし、さらに未来、どのようなものかは不明ですが、予感し、恐れている未来があります。
J・L・ボルヘス(著)木村榮一(訳)『語るボルヘス』(岩波文庫、2017年)pp114-115
桜桃忌
ぼんやりした薄明り
梅雨入りが近づいている。自分も気圧の変化には決してタフな方ではないが、でも一般的な低気圧症(低気圧による各種体調不良)とはどうやら違うようである。むしろ、スカッ晴れの真夏日などに偏頭痛が起こる。耳鳴りがひどくなる。そんなことを幼い頃にポロリと口にすると、周りの大人は不思議な生物でも視るようにじぶんのことを見たものだ。でも、のちに(たぶん高校生の頃)、尾崎翠さんの作品をいくつか読んで、なあんだ、自分は間違っていなかったと安心した(?)ことを覚えている。
例えば初期の短編小説『花束』の中で、尾崎翠さんはこんなふうに書いている。
あの日の陽ざしを思うと、私はやはり昔なつかしい心に誘われます。真夏の光線らしいものはどこにもない。それは雲が幾重にも包んでいてくれるのでした。そして幾重にも包んだぼんやりした薄明りを、空中にも海の上にも川面も砂丘にも、そして人の心にも与えてくれました。そして、強い光線の下では、一つ一つ離れ離れになっている何もかもが、この薄暗い世界では、みんな一つに馴付き合っているのです。底までさらけ出されてしまう強い光線の圧迫から遠く遁れて、広い薄暗い自分の部屋の中にいるような気易い心持にしてくれる日でした。それは夕立前の海でたまに出逢う事の出来る懐しい心持です。
尾崎翠『尾崎翠(ちくま日本文学004)』(筑摩書房、2007年)pp.298-299
名作『第七官界彷徨』や『こおろぎ嬢』、戯曲『アップルパイの午後』などを久しぶりに読み返してみたくなる、梅雨入り前の今日この頃である。
自分の ”成分”
自分はいったい何で出来ているのか。
六十歳も過ぎると、もちろんそこにはノスタルジーな気分が多分に含まれているのだろうが、今までの自分を成り立たせてきた “成分” を客観的に分析してみたくなる。
自分の場合はおそらく、若い頃に読み漁ってきたたくさんの小説がそうした “成分” の大半であると考えられるが、中でも「倉橋由美子」が占めるウエイトレシオはかなり高いのではないだろうか。『暗い旅』を読んで吉祥寺や鎌倉に住みたいと願い、『夢の浮橋』を読んで京都に憧れた。十代の頃からフランス被れになったのも「倉橋由美子」のせいだろう。
先日、中公文庫から出ている『桜庭一樹と読む 倉橋由美子』を手に取って、彼女の初期の作品のいくつか(「合成美女」とか「亜依子たち」とか)を再読し、当時、自分の細胞壁のひとつひとつをヒタヒタと浸していた感覚がまざまざと甦ってくる思いがした再認識した。十代で「倉橋由美子」を耽読していた自分が、あの頃、自分のことを、親を含めたまわりの人々のことを、そしてこの世界のことをどのように感じていたのか。
この文庫本の巻末で、桜庭一樹さんと王谷晶さんが対談して、穂村弘さんの言葉を紹介している箇所がある。
穂村弘さんが倉橋由美子について「思春期の薬」というエッセイを書かれています。思春期の“病状”に「現実が怖い、他者が化け者に思える、自分は特別な存在だと無根拠に信じる、自分と同様に特別な他者とだけ美しく交わりたいと願う。」原因は自意識の過剰なんだけど、自分では治ることを望んでいなくて、治って大人になるのは敗北だと思っている。
対談「永遠の憧れ、倉橋由美子(桜庭一樹、王谷晶)より
『桜庭一樹と読む 倉橋由美子』(中公文庫、2023年)p.314
『桜庭一樹と読む 倉橋由美子』(中公文庫、2023年)p.314
まさにその通り。だとすると、あの頃の自分というのは、かなりイケ好かない青年ですよね?
骨董という病
美術史学者の松原知生氏が2014年に書いた『物数寄考』が面白くて、ここのところ何度も読み返している。その理由は、本書のテーマである「骨董」にこそ、表現や美の本質が凝縮されているとつくづく感じるからだろう。例えば、本書の中でも度々使われている「現前」と「表象」。表現とはまさにこのふたつの相克であり混淆なのだと思う。ただ鑑賞するだけではなく、実際に手に取って触れられること(現前)、と同時に、距離があればあるほど、手の届かない彼方(遠い過去とか、訪れることの出来ない場所とか)にあればあるほどイメージは増幅されること(表象)。それらを叶えてくれるのが「骨董」というわけである。
小林(秀雄)にとって、物質としての骨董が帯びる古色とは、歴史が自然の上に残す「極印」のごときものであり、(中略)それは、歴史の物理的痕跡であるという点でインデックス記号をなしており、重要なのはそうした「歴史の形骸」から「歴史の実物」を「類推」する、いわばアナロジー的な推論の技法なのである。
松原知生『物数寄考』(2014年、平凡社)p.70
わたしは今日のものより昨日のもの、ここでできたものより、あちらでできたものの方が好きだ。つまり時間的にも、空間的にも遠くのものが好ましいわけである。遠くのものには、憧れがあり、夢があり、それ独特の、いうにいわれぬ美しさがある。(青柳瑞穂「壺のある風景」より)
同上『物数寄考』p.107
で、本書ではそうした「骨董」の美の究極として、後半には「残欠」の話となる。
残欠とは、残れるものと欠けたもの、現前と不在のあわいに位置する、両義的で曖昧なオブジェである。陶磁器における残欠の具体相は通常、二つのカテゴリーに分類される。すなわち、全体の形は一応のところ保たれているが一部が欠損している「疵物」、逆に、総体としての形状はもはや喪失しつつも部分的になお残存している「陶片」である。
同上『物数寄考』p.186
彼(安東次男)が疵物の価値としてまず挙げるのは、完璧でないぶん「想像力」を自由にはばたかせる余地を見る者に与えてくれる点である。(中略)第二に、破損によってもたらされる偶然の効果の面白さが挙げられる。(中略)第三に、部分的に欠けることによって、素地や釉などの材質感がいっそう引き立つという点も挙げられる。さらに、すでに疵をおっているため「安心してあたりに投出しておける気安さ」も捨てがたい。
同上『物数寄考』p.208
自分は古美術に耽溺するほどの素養もないし財力もないが、ひょっとして、昔からオールドレンズやカメラを収集しているのは同じ思いからかもしれない。第二次大戦以前のニッケル仕上げのカメラをいじりながらゼセッションの頃のドイツやオーストリアに思いを馳せる。
また、以前は神経症のように瑕疵のない美品ばかりを探していたが、最近では、敢えてバルサムが切れていたり白濁したり、銘板が欠けていたりといった「疵物」を好んで買い求めるようになった。いつの間にか「骨董という病」が私の中でも進行しているのかもしれぬ。
老境
最近、川端康成の晩年の小説ばかり読み耽っている。『山の音』『千羽鶴』『波千鳥』『反橋』『しぐれ』『たまゆら』等々。『山の音』の尾形信吾は数えの六十二歳。いつの間にか自分も信吾と同年代になったようで、以下のような文を目にするとリアルに身につまされる思いがする。
「能面は、そうやって、やや高めに手を伸ばして見るんだそうだ。われわれの老眼の距離が、むしろいいわけさ。そうして、目は少し伏目に、曇らせて……。」
「老眼になり始めはね、飯の茶碗をこう持ち上げると、飯粒がぼうとぼやけて来て、一粒一粒が見えなくなる。実に味気なかったね。」
「白毛を抜いているうちに、北本の頭は白くなってゆくんだそうだ。一本の白毛を抜くと、その隣の黒い毛が二三本、すうっと白くなるという風でね。北本は白毛を抜きながら、よけい白毛になる自分を、鏡の中に見据えているわけだ。なんとも言えない目つきでね。頭の毛が目立って薄くなって来た。」
以上、川端康成『山の音』(新潮文庫、初版昭和32年)p.96, p.99, p.127
さて、手元にあるこの新潮文庫、奥付を見ると第41版、昭和53年である。当時、高校二年生の自分に、敗戦後、自らの老境も迎えた川端の(『山の音』を出版した時は55歳か)いったいなにが理解できていたのだろうか。
Elmar 50mm f3.5 (early) + DⅢ + Ilford HP5 plus 400
しぐれ
秋風の国
『街と、その不確かな壁』
今年の四月に村上春樹さんの新作『街とその不確かな壁』を読んで、改めて、1980年に「文學界」に発表した後、封印されてしまった『街と、その不確かな壁』が無性に読みたくなった、と以前に書いた。その後、神田の古本屋を巡ったり、サイトをチェックしたりしたが、この号の古本は高値がついて、もはや手が出せる金額ではない。半ば諦めかけていたところ、先日、古くからの友人が「その号なら、うちにあるよ」とのこと。その場で貸してもらえることになった。感謝。さすが、早稲田一文卒業の友である。
作者はどうしてこの最初のバージョンを封印したかったのだろう。確かに、プロローグやエピローグ部分が概念的過ぎたり、蛇足な感じがしないでもないが、はたして全体の完成度だけの問題なのだろうか?
いや、それよりもなによりも、ラストの主人公の行為である。主人公は自分の「影」とともに、あの「たまり」から壁のある街の外に脱出するのか、内に留まるのか。自分の創り出した概念に責任を持つのか、不条理だらけの現実に立ち戻るのか、いったいどちらを選択すべきなのか。この小説の究極とも思えるテーマについて、改めて考えさせられることになった。