naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: literature



 今年の四月に村上春樹さんの新作『街とその不確かな壁』を読んで、改めて、1980年に「文學界」に発表した後、封印されてしまった『街と、その不確かな壁』が無性に読みたくなった、と以前に書いた。その後、神田の古本屋を巡ったり、サイトをチェックしたりしたが、この号の古本は高値がついて、もはや手が出せる金額ではない。半ば諦めかけていたところ、先日、古くからの友人が「その号なら、うちにあるよ」とのこと。その場で貸してもらえることになった。感謝。さすが、早稲田一文卒業の友である。

文學界

 作者はどうしてこの最初のバージョンを封印したかったのだろう。確かに、プロローグやエピローグ部分が概念的過ぎたり、蛇足な感じがしないでもないが、はたして全体の完成度だけの問題なのだろうか?
 いや、それよりもなによりも、ラストの主人公の行為である。主人公は自分の「影」とともに、あの「たまり」から壁のある街の外に脱出するのか、内に留まるのか。自分の創り出した概念に責任を持つのか、不条理だらけの現実に立ち戻るのか、いったいどちらを選択すべきなのか。この小説の究極とも思えるテーマについて、改めて考えさせられることになった。

 
 吉田修一さんの「横道世之介」シリーズ第三弾。そして、おそらくはこれが完結編。第一弾から読んでいるので主人公の運命はあらかじめ分かっているのに、こんなにも明るく楽しい気持ちになれるのはなぜだろう? その答えは世之介が書いた手紙の中にあった。

 人生の時間ってさ、みんな少し多めにもらってるような気がするんだ。自分のためだけに使うには少しだけ多い。だから誰かのために使う分もちゃんとあって、その誰かが大切な人や困ってる人だとしたら、それほどいい人生はないと俺は思います。
吉田修一『永遠と横道世之介』(毎日新聞出版、2023)下巻、p.382


 舞台は吉祥寺(の南)、そして鎌倉。綿100%の生成のTシャツで十分に心地良かった頃の、穏やかな夏の日を思い出させてくれる小説である。

kamakura

Summilux 35mm f1.4 2nd + α7s

熊本の礎石

Elmar 50mm f3.5 (nickel,full rotation) + Ⅲ (DⅢ) + Acros100 II


 熊本の五高記念館にて。




 村上春樹さんの新作『街とその不確かな壁』読了。良くも悪くも、長年村上作品を読み続けてきた者にとっては想定内の読後感だった。第一部はかつての中編小説の書き直しなので当然と言えば当然なのだが(その後、既に一度書き直しにトライされているので今回は二度目ということになる)。
 読者である自分も40年近く前にそのままタイムスリップしていく。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。新卒で会社に入社して二年目の夏、この分厚い本を徹夜で読み切って会社に出社した日のことを思い出す。当時23歳。あの時の「壁」「古い夢」「影」たちが再び甦ってくる。その後、自分も30歳になり40歳になり、50歳になり、そして今では60歳を超えた。その中途中途で何度、こう思ったことだろう。

私はどうやら本格的に、習慣を自動的になぞって生きていく孤独な中年男になりつつあるようだ。
村上春樹『街とその不確かな壁』(新潮社、2023年)p.467

 それでもまだ、今でもこう思えるから、読者は村上作品を読み続けるのだと思う。

私の心には、私が十分に知り得ない領域がまだ少しは残っているのだろう。時間にも手出しできない領域が。
村上春樹『街とその不確かな壁』(新潮社、2023年)p.545

 改めて、最初に1980年に「文学界」に発表した後、封印されてしまった「街と、その不確かな壁」が無性に読みたくなった。同じ事を考えている読者が大勢いるだろうから「文学界」1980年9月号は更にプレミアムがついてますます入手困難だろうけれど。ならば国会図書館にでも行ってコピーを取ってくるしかないか(これも同じ事を考える人が大勢いそうだけれど)。



 都内にお花見の名所は多々あれど、江戸情緒を感じたいならやはり浅草、隅田公園。普段は台東区側から隅田川を望んでそのまま帰路につくことも多いが、久しぶりにリバーウォークを経由して墨田区側に渡ってみた。このあたりは堀辰雄の旧居跡としても知られている。堀辰雄と言えば軽井沢だが、幼少の頃は向島に住んでおり、当時のことは『幼年時代』などに細やかに描かれている。ここに記されている牛嶋神社の撫で牛もしかり。

 おばあさんは私の家にくると、いつも私のお守りばかりしていた。そうしておばあさんは大抵私を数町先きの「牛の御前」へ連れて行ってくれた。私はそのどこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった。「まあ何んて可愛い目んめをして!」なんぞと、幼い私はその牛に向って、いつもおとなの人が私に向って言ったり、したりするような事を、すっかり見よう見真似で繰り返しながら、何度も何度もその冷い鼻を撫でてやっていた。その石の鼻は子供たちが絶えずそうやって撫でるものだから、光ってつるつるとしていた。それがまた私には何んともいえないなめらかな快い感触を与えたものものらしかった。……

堀辰雄『幼年時代・晩夏』(新潮文庫、昭和30年)p.12

牛

Summilux 35mm f1.4 2nd + M10-P



 ついに上映も最終日となったので、やっぱり、映画「月の満ち欠け」、見に行くことにした。

 原作は大好きな佐藤正午さん。直木賞を受賞されたときは自分ゴトのように喜んだ覚えがある。

 こうした文学作品の映画化はやや期待外れになることも多いが、廣木隆一監督は原作のかなり交錯した話をうまくシンプルに収束させてストレートに「泣かせる」映画に仕上げている。おかげさまで、けっこう泣かせていただきました(汗)。
 ま、あのジョン・レノンの名曲「WOMAN」を使われた日にゃ仕方がない。でも、かの「However distance don't keep us apart. After all it is written in the stars」の歌詞は、この生まれ変わりのストーリーにすんなりとマッチしていると思う。




 早稲田松竹で映画を見た80年代の日々がとても懐かしゅうございました。



 久しぶりに村山由佳さんの「天使」シリーズを読み返したせいだと思うが、練馬の石神井公園に無性に行きたくなる今日この頃である。ここは、太宰治らの「青春五月党」の合コン(?)ピクニックの場所でもある。商店街には坂口安吾100人カレーで有名な「辰巳軒」も健在。蕎麦処の「中屋敷」はずいぶんモダンになってしまったけれど。

 『天使の卵』を初めて読んだのはいつぐらいだろうか? 1995年ごろ? そのあと10年して続編『天使の梯子』が出版された。どちらも二十歳前後の男性が年上の女性と恋に落ちる極め付けのピュアな恋愛小説だ。舞台は石神井公園から大泉学園駅にかけて。閉園前の「としまえん」にあったあの回転木馬「エルドラド」の話も出てくる。

 石神井公園自体はあの頃とそんなに変わっていないようだ。ボート池もその中之島にかかる太鼓橋も、そして、道路を隔てて西側に広がる三宝寺池。

三宝寺池

Tessar 2.8cm f8 ( pre war ) + Contax I + Fuji 100


 照姫伝説のある石神井城跡のこのあたりは今でも鬱蒼と森が広がって、いつ来ても異界に迷い込んだような気分になる。

石神井

Sonnar 5cm f1.5 ( pre war ) + Contax I + Kodak 200

恒春園

VPK Dallmeyer Rapid Rectilinear 72mm f8 + α7s


 @芦花恒春園

 「人間は書物のみでは悪魔に、労働のみでは獣になる。」徳冨蘆花




 54歳の時に独立して早や6年。56歳からは大学教員として遅まきながらアカデミズムの世界にもチャレンジし、研究に教育に、そして制作業務にと多忙な毎日を送らせていただいている。
 まだまだ若いモンには負けないぞ、と言うは容易いが、でも、冷静に考えてみれば、クリエイターとしてのピークはとっくの昔に過ぎているわけで、そういう意味では今の時間は「余生」なのかもしれない。
 「余生」と書いてしまうとなにやら残り火みたいだが、人生の後半から終盤に向けてこそ、自分にとって一番大切な仕事は何なのかを見極めつつ、それをきちんと仕上げていかなくちゃ、それがきっと自分の天職になるのではと思う今日この頃である。

 こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて 死なむと思ふ
石川啄木『一握の砂』より


啄木

XF 23mm f2 + X-T30 II + Color Efex Pro

*雪の日の、小樽公園の啄木歌碑



 「死ぬ前に最後に食べたいもの」とか「最後に行きたい場所」というフレーズはよく耳にするが、「人生最後に読みたい本は?」と尋ねられたら、自分はいったいなんて答えるだろう? 
 思えば、この年になるまでにずいぶんとたくさんの本を読んできた。捨てきれない蔵書は千冊は優に超えるだろう。人文系、美術系の本がほとんどだが、そのなかでも小説の類いが圧倒的に多い。ということは自分も……

 三上延さんのベストセラー『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズの第6巻では、ラストにこんな独白がある。誰が言った言葉かはネタバレになるのでここには書かないけれど。

 「わたしは、『晩年』を切り開いて、最初から読みたい……最後まで読み終えて、その日に死にたいの……それを、人生最後の一冊にしたい」(中略)「あの作品は太宰の出発点で……匂い立つような青春の香気があるわ。わたしはそれを、自分の晩年に味わってから死にたい……」

 うむ。大好きな太宰の小説を人生最後の一冊にするのも確かにアリだけれど、人生のラストはもうちょっと惚けた感じで締めくくりたい気もする。日本文学だったら内田百閒あたり、だろうか。

 ちなみに、この『ビブリア古書堂の事件手帖』の第6巻は全篇すべて太宰治で、太宰が他のペンネームで書いたミステリー小説風『断崖の錯覚』や、「太宰治論集」に出てくる『晩年』の自家本の話、そして、引用部分もあるように当時のアンカット本の話など、太宰ファン垂涎のエピソードが満載である。

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