naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: literature

身一点

Elmarit 24mm f2.8 ASPH. of X2 + Color Efex Pro


 ゆふがた、空の下で、身一點に感じられれば、萬時に於て文句はないのだ。
中原中也 「山羊の歌」より「いのちの聲」



 今日の関東地方は真夏に戻ったように30度を超える快晴となった。でも、空気は乾燥して日に日に秋らしさが増している。おととい(21日)の中秋の名月も目が醒めるような美しさだった。
片影

Russar 20mm f5.6 + MM

 こんな、一瞬、夏に戻ったような、でももう秋の清澄さが十二分に感じられる日に思い出す文章がある。竹久夢二が日本橋に港屋絵草紙店を開店した際の挨拶状である。先日脱稿したばかりの夢二に関する論文にも引用したが、季語「片影」の使い方が素敵である。店主である妻、他万喜の名前で書かれているが、文案は竹久夢二もしくはふたりの共同執筆であったろう。


 下街の歩道にも秋がまゐりました。港屋は、いきな木版繪や、かあいゝ木版画や、カードや、繪本や、詩集や、その他、日本の娘さんたちに向きさうな繪日傘や、人形や、千代紙や、半襟なぞを商ふ店で厶(ござ)います。女の手ひとつでする仕事ゆえ不行届がちながら、街が片影になりましたらお散歩かたがたお遊びにいらして下さいまし。

「増訂版 金沢湯涌夢二館収蔵品総合図録 竹久夢二」(金沢湯涌夢二館、2013年、2021年改訂)p.156参照



 久しぶりの38度である。コロナワクチン二回目接種後2日目のことである。事前に友人からけっこう辛いと聞いてはいたが、2017年の1月にインフルエンザを発症したとき以来である。両目の奥の頭重、首筋から肩のひどい張り、腰痛、関節痛。足が異様に冷える。冷房を消した蒸し暑い部屋の中でも汗がかけない。
 まあ、こんなことも予想して、原田マハさんの『リボルバー』をベッドサイドに置いていたのだが、どんなに内容が面白くても文字を読むこと自体が辛い。ので、馴染んだサリンジャーの短編集『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワーズ16、1924年』を手に取ってみる。特に好きなのが『ぼくはちょっとおかしい』で、退学になってしまったホールデンが60歳を迎えた恩師のスペンサー先生の自宅にお別れの挨拶に行く場面である。

「そして、ぼけたような状態なのに、楽しそうだ。それにしても先生はいったいなんのために生きているんだろう、もうすべてが終わっているのに、と思ったりすることがある。だけど、それはちがう。考えすぎだ。(中略)ときどき、老人のほうがうまい生き方をしているような気がする。ただ交代したいとは思わない。」

「人に先んじようとするなら、人生に適応していかなくちゃいけないとか。」

「まだ会っていない女の子が好きだ。後頭部しかみえない女の子がいい。」

 なるほどね、人生、先んじるためにまずは適応か。名言である。あと、『ハプワーズ16、1924年』に出てくる、

「理想的というのは完璧とはまったくちがう。「理想」というのは人類の幸福のために大昔からずっと取っておかれたものなんだ! ぼくはそれを、希望に満ちた、理にかなったゆるさと呼びたい。ゆるさ、ぼくはこのささやかな、ゆるさが大好きなんだ。」

 これもすばらしい。でもね、……というところで意識朦朧となり(38度を超えたようだ)、たまらずカロナール(アセトアミノフェン)に手を出した。

 若い頃はよく熱を出した。あの頃はアセトアミノフェンじゃなくてまだアスピリンが主流だった。風邪を治すためにはアスピリンを飲んで厚着して大汗をかいて一晩ぐっすり眠る。すると翌日、頭の中がミントの葉っぱを噛んだみたいにすっきりとしている。夏の雨も上がっている。病みあがりと雨あがりとアスピリン。「まだ会っていない女の子」に出会える気がしたものだ。

 と、比較的余裕のある思考ができたのもここまで。あとは、Hallelujah。




(追記)おかげさまで、接種三日目の朝、回復いたしました。


引用文献:
J.D.サリンジャー / 金原瑞人(訳)『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワーズ16、1924年』(新潮社、2018年)

引用箇所:
『ぼくはちょっとおかしい』p.24,25,34 『ハプワーズ16、1924年』p.223




 大学時代の恩師である河村錠一郎先生の近著『イギリスの美、日本の美 ラファエル前派と漱石、ビアズリーと北斎』(東信堂、2021年)を読んでいたら、ワッツの描く「パオロとフランチェスカ」が夏目漱石の『行人』の中で言及されているくだりが出てきて(p.31)、数十年ぶりに『行人』を読み返してみたくなった。

 この小説は、兄一郎のニーチェばりの苦悩が手紙形式で描かれている作品で、あの名作『こころ』に通じる新聞小説だと言われているが、まずなによりも感銘するのは、漱石の描く女性たちの魅惑的な姿とその言動である。漱石の小説には、まさにラファエル前派の画家たちが描くファム・ファタルの日本女性版が数多く登場するが(その極めつけは『三四郎』のヒロインの里見美禰子であろう)、この『行人』に出てくる一郎の妻の直(なお)もまた蠱惑的である。それを漱石は、彼女の靨(えくぼ)の描写だけでここまで表現してしまうのである。脱帽。

嫂は平生の通り淋しい秋草のように其処らを動いていた。そうして時々片靨を見せて笑った。

不断から淋しい片靨さえ平生とは違った意味の淋しさを消える瞬間にちらちらと動かした。

それから、肉眼の注意を逃れようとする微細の渦が、靨に寄ろうか崩れようかと迷う姿で、間断なく波を打つ彼女の頬をありありと見た。


 そして、「柔かい青大将に」となる。これではパオロはフランチェスカの魅力にひとたまりもなくやられてしまうだろうと思いながら弟二郎を主人公とした前半の三章を読み終えた。(最終章の展開は、まだ読んだことがない人のためにここに書くことはやめておきます)

彼女の事を考えると愉快であった。同時に不愉快であった。何だか柔かい青大将に身体を絡まれるような心持もした。

 漱石はこの小説を書き終えた3年後に亡くなっているが、同じ墓地に眠る漱石も夢二もどちらも満五十才になることなく四十九才でこの世を去っていることを思うと、(当時としては決して夭折にはならないのかもしれないが)やはり残念でならない。

太字部分は夏目漱石『行人』(新潮文庫)からの引用。p.227、p.328、p.336、p.218




 大学の紀要に掲出予定の竹久夢二に関する研究ノートの原稿もほぼ仕上がったので、お礼方々、雑司ヶ谷のお墓にお参りに行ってきた。「知らせる人—それだけ。外に一人 アリシマ。」と日記に綴った盟友、有島生馬の筆による「竹久夢二を埋む」とだけ書かれた簡素な墓石の前に桔梗の花のブルーが凜として雨に濡れていた。夢二らしいお墓だと思った。

夢二墓

 ここ雑司ヶ谷には文人、画人たちの墓が他にもたくさんある。最も有名なのは夏目漱石の墓であろうが、永井荷風の墓も、そして夢二も大好きだったに違いない(『夢二画集 旅の巻』の中で金沢を訪れた際の紀行文に名前が出てくる)泉鏡花の墓もある。あるいは、生前いろいろといわくのあった画家の東郷青児の墓もある。
 ところで、荷風も鏡花も夢二より早く生まれているが亡くなったのは夢二の方が先である。満五十歳に満たなかった夢二はやはり夭逝だったと言うべきなのかもしれない。

 さて、研究ノート執筆のために日記や書簡の中で夢二の言葉をいろいろ調べていたところ、「『人生は芸術を模倣する』とフランスで死んだイギリス人が言ひました。私の人生は私の幼い時受けた芸術の影響を脱し得ないばかりでなく、或は実践してゐるかも知れません」というくだりに行き着いた。オスカー・ワイルドのことである。
 これを知って、いったい何十年ぶりだろう、オスカー・ワイルドの芸術論の『嘘の衰退』を読み耽っていた若い頃のことを思い出した。かつて、大学を卒業した後、就職をせずそのまま勉学を続けたいと考えたこともあった。研究したかったのはマニエリスム芸術論とオスカー・ワイルドの芸術至上主義。夢二研究のおかげで、今頃になって当時のことを思い出すこととなった。これもシンクロニシティ、なのだろうか。


引用文献:
長田幹雄(編)『夢二日記 4』(筑摩書房、昭和62年)p.347およびp.286

参考文献:
竹久夢二『初版本復刻 竹久夢二全集 夢二画集 旅の巻』(ほるぷ出版、1985年)
オスカー・ワイルド / 西村孝次 訳『オスカー・ワイルド全集 4』(青土社、1989年)



 ここのところ、「鼻」のことでアタマの中が一杯なのである。花粉症がひどくなったわけではない。蓄膿がひどくなったわけでもない(若い頃からずっと慢性の副鼻腔炎ではあるが)。

 原因は谷崎潤一郎の『武州公秘話』にある。『乱菊物語』に引き続き、この歴史小説のスタイルを取った『武州公秘話』を久しぶりに読み返してみたのであるが、合戦の最中、討ち取った相手の首を持ち帰る余裕がない時に鼻だけを削いで持ち帰ってくる「女首」の話に始まり、この小説の中で連綿と続いていく表象が「鼻」なのである。あるいは「鼻のない顔」である。

 となると、次に再読すべきなのはもちろんゴーゴリの『鼻』であり、芥川龍之介の『鼻』となる。特にゴーゴリの『鼻』は最初に読んだのは中学生の頃だろうか。カフカの『変身』と同じ匂いを感じた。カフカを戯作文学風にした感じ。

 ま、それはさておき、人はなぜにこんなに「鼻」にフェティッシュに興味を抱くのであろうか。自己のアイデンティティの要である「顔」の、そのまた中心に隆起しているからだろうか。



 文豪、谷崎潤一郎の著作は中学生の頃から始まって(我ながらずいぶんマセたガキだった)ほぼほぼ全部読んでいたつもりだったが、この「乱菊物語」だけは不覚にも今の今までスルーしてしまっていた。去年から竹久夢二に関する論文というか研究ノートの執筆にあたり、兵庫のたつの市の室津についていろいろ調べていて、谷崎がこの室津の「室君」について書いた小説があることを知り、さっそく取り寄せてみたのであるが(すでに文庫も廃刊になっているようで、取り寄せた古本も結構高値が付いている)、読み始めてみて、思わず唸ってしまった。おお、これはスゴイ。期待通り、以下のような室津や「室君」に関する精緻で詳細な著述があるばかりでなく……、


そもそも室という所は、ずっと昔、遠くは神武天皇の東征、神功皇后の三韓征伐の時代から内海における良港の一つに数えられていたから、上り下りの船の人々の相手となって旅情を慰める女、—「室の遊女」というものも久しい以前からあったに違いない。伝説によると、延喜の御代にいずこともなく天女のような一人の美女が流れて来て、名を「花漆」と呼んで、この津に住んでいた。それが初代の室君であって、本邦における遊女の濫觴(らんしょう)をなしたといわれる。

谷崎潤一郎『乱菊物語』(中公文庫、1995年)p.9

港の町の地勢と云えば、大概はうしろに山を背負い、海岸沿いの細長い地域に人家がぎっしりと軒を連ねる。室の津の町もその例に洩れず、一方に明神の山を控え、一方に荒戸の浜を控えた入り江の縁に沿いながら弓なりに続いているのであるが、祭礼の時の神輿の渡御は、弓の一端にある明神の鼻から船で海上を乗り越えて、他の一端に設けられたお旅所に着き、此処に七日間安置される。有名な小五月の行列というのは、七日の後に神輿を守護してお旅所から明神の社へ、その弓なりの線を縫いつつ町の中を練って帰るのである。

谷崎潤一郎『乱菊物語』(中公文庫、1995年)p.201

 かたや主従の若武者とその家来たちのドタバタ劇がなんとも軽やかな口語調で始まり、その剛と柔が一章ごとにめくるめく展開していくのである。けっこうな分量の小説であるが、あっという間に読んでしまった。新聞に掲載された大衆小説とのことであるが、こんなにもすんなりと読めた谷崎文学(しかも歴史小説)は初体験だった。そして、この変幻自在の語り口こそが谷崎の谷崎潤一郎たる所以であると再認識した次第。で、この「乱菊物語」、クライマックスで突然断筆し前編終了、なんと後編がないのである。残念無念、でも、この続きは、書こうと思えばいくらだって、どんなバリエーションだって書けるさと「云っているような、なんともさわかやな断筆なのである。天晴れ。

 なお、池澤夏樹氏が個人編集した文学全集でもこの「乱菊物語」がフィーチャーされているようなので合わせて読んでみたい。



 本日誕生日を迎えました。くぅー、還暦だそうです。60歳だそうです。目眩がします。クラクラ。

 けっこう長い時間を生きてきましたのでね、このくらいのトシになると、正直言って「昔恋しい」ときも多いです。でもこの一年、おかげさまで、今までにない自分を規定してくれる新しい「他者」、新しい「物語」にたくさん巡り会うこともできました。「我ン張」らなくてはと思っておりマス。はい、中原中也の「頑是ない歌」のごとくです。

 思えば遠く来たもんだ 此の先まだまだ何時までか 生きてゆくのであろうけど 
 生きてゆくのであろうけど 遠く経て来た日や夜の あんまりこんなにこいしゅては 
 なんだか自信が持てないよ さりとて生きてゆく限り 結局我ン張る僕の性質(さが)


 「頑是ない歌」、大好きな作品のひとつですが、こうして読み返してみると、今の自分の半分以下の年齢で、既にこれほどのノスタルジーと達観を決め込める中原中也はやっぱり天才だわいと、改めて恐れ入ってしまう訳です。

 長く生きていると、どうしてもその分、自分のアイデンティティなるものを勝手に作り上げてしまいがちです。還暦を迎え、これからはそういうものをどんどんユルくしていけたらなあと思います。あるいは、九鬼周造言うところの「そこではまだ可能が可能のままであったところ」に遡っていけたらなあと思っています。

 それにしても。神社に行って厄年年齢表なんぞを見たりすると、なんと60歳は男も女も厄年なわけでして、還暦になった人がみんな厄年というのもなんだかなあと思ってしまう今日この頃です。「思えば遠く来たもんだ」

 *本日は、本務校の卒業式。近くの野川の桜はほぼ満開でした。 

野川

Elmarit 28mm f2.8 2nd + fp







 



 今年は丑(うし)年である。自分の干支と同じ。ということは、年男? ということは、つまり……。そうなのである。今年の誕生日で五回目の年男、還暦を迎えるのである。(目眩がしますw)
 昔、実家の和室の床の間に二頭の牛の置物が飾ってあった。大きな牛と小さな牛。父が昭和四十年代に買ったものである。私は父が三十六歳の時の子で、どちらも干支が同じなのである。親牛と子牛。

 さて去年は、……六星占星術によると私は去年から大殺界に入っているのだが、全世界がパンデミックな状態で、どこまでが自分ひとりの運気の問題だったのかまるで見当がつかない。

 そんな中、大学の研究分野では論文をひとつ仕上げた。現代の広告クリエイティブにおける実在論的傾向に関する考察で、今年2月に公開予定。そして、引き続き次の論文ももうすぐ第一稿があがる。(こちらは竹久夢二のノスタルジア研究)大学の授業も試行錯誤の連続だった。でも、オンラインだってここまでのことは出来るという目処が自分なりには付いたと思っている。ご多分に漏れず個人でお受けしている仕事は激減した。これから、大学の教育と研究と個人の仕事の両立をどのように図っていくべきか、思案のしどころではある。でも、戸惑っていても何も解決しない。事態が安易に元に戻るとは考えない方がいい。去年一年間でこの世界の価値観が大きく変わってしまった。今年もそれを受け入れて前に進むだけである。

 年末年始は安藤鶴夫さんの古い小説なんぞを読んでいた。『巷談 本牧亭』。この作品が直木賞を受賞したのは昭和三十八年。私が生まれた二年後である。親牛が若かった頃の時代の匂いを嗅いでみたくて。親牛は六回目の年男を迎えた年に(誕生日を迎えることなく)この世を去ったが(生きていたら今年八回目の年男)、さて、子牛の方はいかに。



 この夏に取り組んでいた現代広告に関する論文の執筆もほぼ終了。それではということで、次のテーマに取りかかるべく、先日久しぶりに研究出張に出かけた。訪れたのは岡山の邑久と牛窓、そして、兵庫はたつの市の室津である。テーマは竹久夢二。
 夢二が生涯かけて行ったことのいくつかは、現代の広告クリエイティブを考察するにあたっても参考になることが多々ある。グラフィック広告のコピーとデザインの組み合わせは、夢二の言うところの画賛(絵の余白に添えられた文章)に原型があるようにも思われるし、日本橋の港屋絵草紙店で取り扱われていた商業デザインのアイテムは斬新なアイデアの宝庫だ。
 デザイナー、イラストレーターとしての夢二については語り尽くされているけれど、マニエリスム美術を専攻していた者にとって、夢二式美人のあのS字型にくねらせた細い体、傾けた首、長い手足はまた格別のものである。

 さて、今回論文のテーマとして書いてみたいのは、詩人として、コピーライターとしての夢二の表現についてである。「文字の代りに絵の形式で詩を画(か)いて見た。」というのは『夢二画集 春の巻』の中にある有名な文句であるが、夢二にとっては言葉と絵は分かちがたい一体のものであったのだろう。プライベートでも殺し文句の達人だ。例えば、最愛の彦乃に送った手紙の中の一節。

 話したいことよりも何よりもたゞ逢ふために逢ひたい。

 そして、『夢二画集 夏の巻』の中にあるこの文章。

 あゝ、早く『昔』になれば好いと思つた。

 この文章だけを切り出してみると、なんとも甘ったるい個人的なノスタルジアのように思われるが、決してそうではない。その前の文脈は以下の通り。

 僕は、淡暗い蔵の二階で、白縫物語や枕草子に耽つて、平安朝のみやびやかな宮庭生活や、春の夜の夢のよふな、江戸時代の幸福な青年少女を夢みてゐたのだ。あゝ、早く『昔』になれば好いと思つた。

 夢二は少年の頃から、過去の時代そのものの郷愁にとらわれていたということなのだろう。彼が最初に「中学世界」に投稿したポンチ絵は伊勢物語の中の「筒井筒」へのオマージュであったし、のちに吉井勇が「新訳絵入 伊勢物語」を上梓した際にはその挿絵を夢二が描いている。
 大正というモダンでロマンチックな時代の申し子のような竹久夢二は、生涯をかけていにしえの時代そのものに憧れ続けた人だったのではあるまいか。私は心理学には門外漢であるが、ノスタルジアには個人的ノスタルジアと歴史的ノスタルジアがあるという。夢二のつぶやく言葉、描く世界のそれは、一見、極めて個人的なものに見えて、その実かなり客観的な歴史的ノスタルジアだったのではないだろうか。そのあたりのことを次の論文では書いてみたいと思っている。

 岡山からの帰りに室津に寄った。宿泊したのは「きむらや」。夢二はこの地で「室之津」と題した絵を数点描いている。この絵のモデルとなった女性のお孫さんに当たる方が現在の女将である。
 室津と言えば、お夏清十郎物語。そして遊女発祥の地。夢二はおそらくこの町の過去、歴史そのものに憧れていたのだろう。大正6年の彦乃宛ての手紙の中では以下のように書いている。

 そこに住む人たちはみんな近松の浄瑠璃にあるやうな言葉をつかふ。なんといふ静かなものかなしい趣きをもった港だらう。西鶴の五人女のお夏のくだりに<春の海静かに室津は賑へる港なり>とある

 この町の浄運寺には法然上人に帰依した遊女の元祖と言われている友君の碑や、その座像、あるいはお夏ゆかりと称される木像も残っている。夢二も間違いなくここを訪れ、そのインスピレーションもあって「お夏狂乱」を描いたのだろうと勝手に想像力をたくましくしている。

浄運寺1

浄運寺2


参考文献
竹久夢二『夢二画集 春の巻』(洛陽堂、明治42年)
竹久夢二『夢二画集 夏の巻』(洛陽堂、明治43年)
長田幹雄 編『夢二書簡 1』(夢寺書坊、平成3年)
高階秀爾 他監修『夢二美術館 2 恋する女たち』(学習研究社、1988年)


all photos taken by Summilux 35mm f1.4 2nd + M10-P


このページのトップヘ