naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: literature



 この夏に取り組んでいた現代広告に関する論文の執筆もほぼ終了。それではということで、次のテーマに取りかかるべく、先日久しぶりに研究出張に出かけた。訪れたのは岡山の邑久と牛窓、そして、兵庫はたつの市の室津である。テーマは竹久夢二。
 夢二が生涯かけて行ったことのいくつかは、現代の広告クリエイティブを考察するにあたっても参考になることが多々ある。グラフィック広告のコピーとデザインの組み合わせは、夢二の言うところの画賛(絵の余白に添えられた文章)に原型があるようにも思われるし、日本橋の港屋絵草紙店で取り扱われていた商業デザインのアイテムは斬新なアイデアの宝庫だ。
 デザイナー、イラストレーターとしての夢二については語り尽くされているけれど、マニエリスム美術を専攻していた者にとって、夢二式美人のあのS字型にくねらせた細い体、傾けた首、長い手足はまた格別のものである。

 さて、今回論文のテーマとして書いてみたいのは、詩人として、コピーライターとしての夢二の表現についてである。「文字の代りに絵の形式で詩を画(か)いて見た。」というのは『夢二画集 春の巻』の中にある有名な文句であるが、夢二にとっては言葉と絵は分かちがたい一体のものであったのだろう。プライベートでも殺し文句の達人だ。例えば、最愛の彦乃に送った手紙の中の一節。

 話したいことよりも何よりもたゞ逢ふために逢ひたい。

 そして、『夢二画集 夏の巻』の中にあるこの文章。

 あゝ、早く『昔』になれば好いと思つた。

 この文章だけを切り出してみると、なんとも甘ったるい個人的なノスタルジアのように思われるが、決してそうではない。その前の文脈は以下の通り。

 僕は、淡暗い蔵の二階で、白縫物語や枕草子に耽つて、平安朝のみやびやかな宮庭生活や、春の夜の夢のよふな、江戸時代の幸福な青年少女を夢みてゐたのだ。あゝ、早く『昔』になれば好いと思つた。

 夢二は少年の頃から、過去の時代そのものの郷愁にとらわれていたということなのだろう。彼が最初に「中学世界」に投稿したポンチ絵は伊勢物語の中の「筒井筒」へのオマージュであったし、のちに吉井勇が「新訳絵入 伊勢物語」を上梓した際にはその挿絵を夢二が描いている。
 大正というモダンでロマンチックな時代の申し子のような竹久夢二は、生涯をかけていにしえの時代そのものに憧れ続けた人だったのではあるまいか。私は心理学には門外漢であるが、ノスタルジアには個人的ノスタルジアと歴史的ノスタルジアがあるという。夢二のつぶやく言葉、描く世界のそれは、一見、極めて個人的なものに見えて、その実かなり客観的な歴史的ノスタルジアだったのではないだろうか。そのあたりのことを次の論文では書いてみたいと思っている。

 岡山からの帰りに室津に寄った。宿泊したのは「きむらや」。夢二はこの地で「室之津」と題した絵を数点描いている。この絵のモデルとなった女性のお孫さんに当たる方が現在の女将である。
 室津と言えば、お夏清十郎物語。そして遊女発祥の地。夢二はおそらくこの町の過去、歴史そのものに憧れていたのだろう。大正6年の彦乃宛ての手紙の中では以下のように書いている。

 そこに住む人たちはみんな近松の浄瑠璃にあるやうな言葉をつかふ。なんといふ静かなものかなしい趣きをもった港だらう。西鶴の五人女のお夏のくだりに<春の海静かに室津は賑へる港なり>とある

 この町の浄運寺には法然上人に帰依した遊女の元祖と言われている友君の碑や、その座像、あるいはお夏ゆかりと称される木像も残っている。夢二も間違いなくここを訪れ、そのインスピレーションもあって「お夏狂乱」を描いたのだろうと勝手に想像力をたくましくしている。

浄運寺1

浄運寺2


参考文献
竹久夢二『夢二画集 春の巻』(洛陽堂、明治42年)
竹久夢二『夢二画集 夏の巻』(洛陽堂、明治43年)
長田幹雄 編『夢二書簡 1』(夢寺書坊、平成3年)
高階秀爾 他監修『夢二美術館 2 恋する女たち』(学習研究社、1988年)


all photos taken by Summilux 35mm f1.4 2nd + M10-P




 路地裏を歩いていたら、キンモクセイの優しくて甘い香りがした。毎年この季節にこの香りを嗅ぐ度、私は九鬼周造のあのエッセイの一節を想い出す。

「今日ではすべてが過去に沈んでしまった。そして私は秋になってしめやかな日に庭の木犀の匂を書斎の窓で嗅ぐのを好むようになった。私はただひとりでしみじみと嗅ぐ。そうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまう。私が生れたよりももっと遠いところへ。そこではまだ可能が可能のままであったところへ。」

九鬼周造『音と匂 ―偶然性の音と可能性の匂―』より





 時折、無性に小川洋子さんの初期の小説を読み返したくなることがある。『完璧な病室』とか『薬指の標本』、あるいは先日ブッカー国際賞の最終候補にも選出された『密やかな結晶』などなど。たぶん、あのロマネスクな抽象性や、あのカフカ的な不条理性が無性に恋しくなるからだと思う。

 いま、英文のペーパーバックで『密やかな結晶』(英文タイトルは『the memory police』)を再読しているのだけれど、改めて、彼女の小説はどれも日常的な湿気た風土から完全に解放されていると感じる。だから「物語」がピュアなのだ。

 『the memory police』。記憶狩り。中世的な話である。近未来的な監視社会の話でもある。あっという間に季節が巡りすぎてしまった後の、晩秋の乾いた絶望を感じさせる話である。



 毎年、梅雨時から夏にかけて読み返す本がある。それは、江國香織さんの『なつのひかり』。今の季節の描写がなんとも瑞々しいのだ。例えば、

 「やわらかでかなしげな、とろとろとした夏の風。」

 「貼れた真昼の日盛りよりも、こんな風に曇って湿度の高い遅い午後の方が、夏の息づかいというか
 体温というか、ある種邪悪な匂いが濃いと思った。」

 「雨は、爽快なほどはげしい音をたてて降り始めた。夕立ち特有の、不穏でほこりっぽい匂いがたち
 まちあたりにたちこめる。」

江國香織『なつのひかり』(集英社文庫、1999年)より


 でも、この『なつのひかり』、江國さんの作品としては珍しく、かなりシュールな小説である。ふしぎな「やどかり」が出てきたり、ふしぎな双子が出てきたり。

 夜更けまでこの本をずっと読んでいたからだろうか、今日の明け方に見た夢は、なんともシュールなものだった。たっぷりと雨を吸い込んだ草木たちに両側を囲まれた一本道を、僕はただひとりどこまでも歩いて行く。春に鳴いていた鳥たちの声が遙か彼方から微かに聞こえているばかり。百時間ぐらい歩いたところでようやく誰かの声が足元から聞こえた。もうすぐ満天の星空が見える広場に着くからと。その声の主が「やどかり」だったという夢だ。

坂道








 土日はどこにも出かけず、部屋で竹久夢二の画集ばかりを見ている。夢二といえば、ザ・大正浪漫で片付けてしまう人も多いが、夢二は正当な(という言い方もヘンだが)マニエリスム&世紀末美術の画家である。夢二の描く女性たち、道行きの男女たちは、みなメランコリックで虚無的な表情をして、か細くうつむき加減、S字型に体をくねらせている。まさにフィグーラ・セルペンティナータ。道行きの男女の脚は二人三脚、サンボリックに融合している。
 そして夢二はセンティメンタルなだけではない、正当な詩人でもある。

「忘れたり。思ひ出したり。思ひつめたり。思い捨てたり。」

 なんて連句、ナカナカのものだ。そして、コピーライターの資質も抜群。

「あゝ、早く『昔』になれば好いと思つた。」

 これほどドキリとするコピーはない。もちろん、甘いだけの文章もいっぱいあるけれど。

「そしてまた、夕方の散歩とか郊外の小旅行とか、しめやかな五月の夜のことなど、を、あまい心持で空想しても見る。」(彦乃宛、大正六年四月四日の手紙より)








 緊急事態宣言が発令となった。少なくともゴールデンウィーク明けまで。長く生きてきたが、これほどにもリアルな場所やリアルな人びとのことをいとしく思う経験は今までにない。例年だったら今頃は、さあて、大好きな5月、何処に行こうか。少し遅めの春を楽しむために北に向かおう。弘前はどうだろう。いや、函館。まだ冷たい風が時折吹き付ける函館がいい。……そんなことを考えて、仕事の合間のスケジュールをやりくりしている頃である。

 函館が好きである。函館を舞台にした小説はいくつもあるが、特に好きなのは吉田篤弘さんの『つむじ風食堂の夜』と、筒井ともみさんの短編『北の恋人(スノーマン)』(『食べる女』に収載)だ。中島廉売所が出てくる。啄木の歌碑のある函館公園のレトロな遊園地も出てくる。風と路面電車の街、函館。今年は文庫本を読み返しながら、これから遅い春を迎える函館の情景を脳裏に浮かべるほかはない。

 太平洋と日本海に挟まれた半島のような地形をしているという地理的条件から、雪はあまり降らない。そのかわりに風がつよい。一年中、風が吹きぬけている。この街は風の街だ。

 かつては栄えたけれど、今は人口も減ってひっそりとしている。そんな街を吹きぬける風にはサラサラとした距離感のようなものがあって。その感触が私を和ませる。

 私がこの街を好きになったもうひとつの理由が、この路面電車だ。風の吹きぬけるひっそりとした街を路面電車が走りぬけていく。

筒井ともみ『食べる女 決定版』(2018年、新潮文庫)


 筒井ともみさん。日本を代表する脚本家である。向田邦子原作、森田芳光監督の『阿修羅のごとく』が印象に残っている。久世光彦演出の『センセイの鞄』の脚本もたしか彼女だったはず。



 ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『21 Lessons』、読了。今回も前作の『サピエンス全史』『ホモ・デウス』同様、とても示唆に富んだ内容だった。特に考えさせられたのは20番目のレッスン、「意味」。サブタイトルに「人生は物語ではない」と記されている。物語。我々のこの世界は、そして我々自身のこの人生は、さまざまな「物語」の虚構の力で作動している。つまりは、

 人間の力は集団の協力を拠り所としており、集団の協力は集団のアイデンティティを作り出すことに依存しており、どんな集団のアイデンティティの基盤も虚構の物語であって、科学的事実ではなく、経済的な必要性でさえない。(p.180)

 ということ。それが、情報テクノロジーとバイオテクノロジーの行き着く先において、世界の「物語」、私という「意味」が瓦解する。

 あなたはけっきょく、自分の核を成すアイデンティティが神経ネットワークによって創り出された複雑な錯覚であることに気づく。(p.322)

 人生はばらばらになり、人生の各期間の間の連続性がしだいに弱まる。「私は何者なのか?」という疑問は、かつてないほど切迫した、ややこしいものとなる。(p.341)

 あれ、この考えは私ではないぞ。ただの生化学的な揺れにすぎない!」といったん悟ると、自分が何者か、どんな存在か、見当さえつかないことにも気付く。(p.387)


 「語れない」世界、「語れない」私。コミュニケーションの世界では、物語(storytelling)は欠くことのできないもの。表現を生業にしてきた自分にとって、人生とは「いかに語るか」の連続だったと言っても過言ではない。何度も惑い悩んで、さまざまな分野の「物語論」「ナラティブ論」を読み漁ったりもした。物語はすでに語り尽くされているのか? いや、メディアの一大変革期にはまったく新しい物語が出現しうる可能性もあるのではないか?……そんな思いを込めて、個人で仕事をするときの屋号を「もの・かたり。」にもした。その「物語」が一新されるどころか、消失してしまいかねない時代。これはかなりタフな話である。というか、コミュニケーションのシステムそのもののコペルニクス的転回である。

 そんな時代には、

 自己の狭い定義を脱することが、二十一世紀における必須のサバイバルスキルになってもおかしくない。(p.331)

 アルゴリズムが私たちに代わって私たちの心を決めるようになる前に、自分の心を理解しておかなくてはいけない。(p.408)

 とユヴァル・ノア・ハラリ氏は言う。

*引用部分はすべて、
ユヴァル・ノア・ハラリ / 柴田裕之訳 『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』(河出書房新社、2019)より。




My heart leaps up when I behold
A rainbow in the sky:
So was it when my life began;
So is it now I am a man;
So be it when I shall grow old,
Or let me die!


The Rainbow by William Wordsworth
 


年とってもそうあるべき、だよね。さもなくば、だよね。



 屋号「もの・かたり。」で活動している仕事のレパートリーが増えました。今回は文芸作品にチャレンジ。

 著者:十和野 葵(とわの あおい)、企画・脚本・編集:もの・かたり。


さくさくさく、表紙

 太宰治が死の前年に発表した『フォスフォレッスセンス』。二百字詰め原稿用紙三十枚にも満たないこの小品に魅せられた著者が、太宰治生誕110周年の2019年、すべての太宰ファンのために書いた、もうひとつの『フォスフォレッスセンス』物語。

 わたしは月に一度、日向(ひなた)さんの家に行く。

「男の人と女の人は、どういうふうにしたらいちばん親密になれるのかしらね」
「こうして手を繋ぎあっているのがイチバン幸せかもしれませんね」


 わたしは、いつも心のどこかで探している。別のやり方を。そして、ある秋の日、わたしが見つけてしまったものとは?

 東京近郊の古都K市を舞台にした、わたしと日向(ひなた)さんの、12ヶ月限定の恋物語。

「でも、どうして一年? たぶん、あと一年ぐらいはわたし、やっぱりここに通い続けるだろうし、そしてあと一年ぐらいが、わたしのモラトリアムを終わらせるにはちょうどいい期間だと思うから。」

 毎月、ふたりの間で交わされる、花とブンガクと、夢と現実と「あの世」のお話。

 太宰治、堀辰雄、中原中也、内田百閒他、大正・昭和の文士たちの言葉が今よみがえる。

 春夏秋冬、毎月一篇ずつ。古都K市のブンガク観光ガイドとしてもお役立ていただけたらと思います。


 2019年12月25日初版発行、2020年1月22日より発売開始です。



さくさくさく。
十和野葵
パブリック・ブレイン
2020-01-22








 年が明けました。去年の末にも書いたのですが、今年はワタクシ、大殺界なのです。こういう年はとにかくおとなしくしているに限ります。欲張っちゃいけない。整理するのです。自分がほんとうにやりたいこと、やらなくてはならないことを見極めて、それだけに専心するのです。

 やらなくてはならないこと。はい、これはもう、よくわかっています。粛々とひとつずつ丁寧に課題解決に励みたいと思っています。で、やりたいこと。これが、いくつになってもたくさんあり過ぎて(というか、年を取るたびに増え続けて)困ってしまうのですが、そろそろこのあたりで、自分は何をしているときがいちばんシアワセか、自分のココロに正直に尋ねてみるべき時なのかもしれません。

 で、その答えはと言うと、実は割とすんなりと出てくるわけで、……物心ついた頃から今までずっと、自分という人間は、文章を書いているときにいちばんシアワセを感じるのだと思います。

 たぶん、言葉が好きなのです。特に日本語で書くこの言葉が好きなのです。自分の意識の奥底に潜むもの、世界が一瞬見せるなにやら永遠めいたもの。それらを観察し、それらになんとか言葉で意味づけをし、カタチを作っていく作業が好きなのです。つまりは、言葉で表現することが好き、と言ってしまえば元も子もないのですが、靴を丁寧に磨くように、コトバのひとつひとつを磨いているとき、コトバとコトバのつながりをあーでもないこーでもないと考えているとき、それが至福のときなんです。そういうときの自分は、かなり几帳面なんだと思います。そして、かなり頑固なんだと思います。

 今年は、たぶん、そういう仕事を、とにかくコツコツとやっていきたいと思っています。大学での研究や授業内容はもちろんのこと、個人でお引き受けしている広告関連の仕事もみんな、もう一度、そこから、コトバを磨くことの原点から、丁寧に見つめ直していきたいと思っています。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

黒板

Dallmeyer 1inch f1.8 + E-PM1 + Color Efex Pro



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