美術史学者の松原知生氏が2014年に書いた『物数寄考』が面白くて、ここのところ何度も読み返している。その理由は、本書のテーマである「骨董」にこそ、表現や美の本質が凝縮されているとつくづく感じるからだろう。例えば、本書の中でも度々使われている「現前」と「表象」。表現とはまさにこのふたつの相克であり混淆なのだと思う。ただ鑑賞するだけではなく、実際に手に取って触れられること(現前)、と同時に、距離があればあるほど、手の届かない彼方(遠い過去とか、訪れることの出来ない場所とか)にあればあるほどイメージは増幅されること(表象)。それらを叶えてくれるのが「骨董」というわけである。
小林(秀雄)にとって、物質としての骨董が帯びる古色とは、歴史が自然の上に残す「極印」のごときものであり、(中略)それは、歴史の物理的痕跡であるという点でインデックス記号をなしており、重要なのはそうした「歴史の形骸」から「歴史の実物」を「類推」する、いわばアナロジー的な推論の技法なのである。
松原知生『物数寄考』(2014年、平凡社)p.70
わたしは今日のものより昨日のもの、ここでできたものより、あちらでできたものの方が好きだ。つまり時間的にも、空間的にも遠くのものが好ましいわけである。遠くのものには、憧れがあり、夢があり、それ独特の、いうにいわれぬ美しさがある。(青柳瑞穂「壺のある風景」より)
同上『物数寄考』p.107
で、本書ではそうした「骨董」の美の究極として、後半には「残欠」の話となる。
残欠とは、残れるものと欠けたもの、現前と不在のあわいに位置する、両義的で曖昧なオブジェである。陶磁器における残欠の具体相は通常、二つのカテゴリーに分類される。すなわち、全体の形は一応のところ保たれているが一部が欠損している「疵物」、逆に、総体としての形状はもはや喪失しつつも部分的になお残存している「陶片」である。
同上『物数寄考』p.186
彼(安東次男)が疵物の価値としてまず挙げるのは、完璧でないぶん「想像力」を自由にはばたかせる余地を見る者に与えてくれる点である。(中略)第二に、破損によってもたらされる偶然の効果の面白さが挙げられる。(中略)第三に、部分的に欠けることによって、素地や釉などの材質感がいっそう引き立つという点も挙げられる。さらに、すでに疵をおっているため「安心してあたりに投出しておける気安さ」も捨てがたい。
同上『物数寄考』p.208
自分は古美術に耽溺するほどの素養もないし財力もないが、ひょっとして、昔からオールドレンズやカメラを収集しているのは同じ思いからかもしれない。第二次大戦以前のニッケル仕上げのカメラをいじりながらゼセッションの頃のドイツやオーストリアに思いを馳せる。
また、以前は神経症のように瑕疵のない美品ばかりを探していたが、最近では、敢えてバルサムが切れていたり白濁したり、銘板が欠けていたりといった「疵物」を好んで買い求めるようになった。いつの間にか「骨董という病」が私の中でも進行しているのかもしれぬ。