naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: art



 東京都美術館で藤田嗣治展を見てきた。没後50年を記念しての大回顧展ということで、初期から晩年に至るまで、フジタを堪能し尽くすことのできる質と量である。大満足。

フジタ

 今まで彼の渡仏後すぐの作品はあまり見たことがなかったが、1917年、18年に描いた『雪のパリの町並み』や『ドランブル街の中庭、雪の印象』の空と雪の色に強く惹かれた。そして、解説のキャプションを読んでピンと来ることがあった。そこにはこう書かれてあったのだ。「それは藤田が『パリの冬の真珠のような空』の灰色の色調を目指したためだろう」と。後にフジタの十八番となるあの乳白色、下地にシッカロールを混ぜて描いていたという説が濃厚だが、あの色のヒントは、二十代のフジタが初めてパリの冬の雪空を見て感じ入った色だったのではないだろうか。

 戦時中日本に戻って髪を丸刈りにしたフジタ。戦争が終わりフランスに戻る許可がおりると、また例のトレードマークのおかっぱ頭に戻している。でも、その時にはすでに髪の毛は真っ白だ。

 狂乱の時代のパリで脚光を浴び、ふたつの世界大戦に翻弄されつつ五人の女を愛し愛され81歳まで生きたフジタ。カトリックの洗礼を受けた後の、絵付陶器などの『晩年の手しごと』と題された作品群を見ていて、何故だか涙が止まらなくなった。



 これは見に行かなくては。葉山だろうがどこだろうが。ブルーノ・ムナーリ展。

munari

 たぶん、自分が今までの人生の中で一番影響を受けたアーティストでありデザイナーであり教育者であり思想家、ブルーノ・ムナーリ。座右の銘は、彼が「木をかこう」の巻末に書いたこの言葉。

 むかしの中国のえらい人が、いったそうです。
 「完全なもの」は美しいが、ばかげている。
 「完全なもの」をつくりあげたら、
 あとはそれをこわしてしまえ、と。


 すべてを動きの中で捉えること。言葉の意味性に対する懐疑。アートディレクションと触覚の親密な関係性。開かれたデザイン、ということ。新しい技術と人間性のあり方について。……等々、ブルーノ・ムナーリの作品や著作物から学んだことは数限りなくある。そしてそれらはすべて、現代のデジタル全盛時代のクリエイティブのあり方を50年以上も前から予見していたものだ。

 ムナーリがつくった心優しい軽やかな「役に立たない機械」たち。無意識の中の想像力を刺激する「本に出会う前の本」たち。それらが一堂に会するとなれば行かなくてはならない。葉山だろうがどこだろうが。今年はムナーリの生誕110周年、没後20周年である。

boat

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ




 時折、従来の広告のやり方にどうしようもなく興味が萎えてしまうときがある。イマドキ、商品や企業イメージをダイレクトにアピールしたところで、いったい誰が面白いと思ってくれるというのだ? ……なんて、不遜にも思ってしまうときが、ある。

 でも、そんなとき、私はサヴィニャックを思い出す。すると、また改めて、ああ、広告っていいなあ、楽しいなあ、見ていると元気になるなあ、って思えてくる。


 練馬区立美術館のサヴィニャック展に滑り込みで行ってきた。明後日日曜日で終了。

練馬区立美術館

 やっぱり、サヴィニャックはいいのである。彼の広告アイデアはとてもシンプル。描かれる人や動物たちが商品と直結している。登場人物がストレートに商品を指さしていたりする。そのダイレクトさがとても清々しい。

savignac

Elmar 5cm f3.5 L + M9-P


 で、案の定、久しぶりにまたノルマンディーに行きたくなってしまったのである。

 ドーヴィルとトゥルーヴィル。パリから2時間でTrouville – Deauville駅に着く。ドーヴィルの方はご存じ映画「男と女」の舞台の高級リゾート地。でも、オフシーズンのオテル・ノルマンディはなかなか枯れた雰囲気があって、これはこれでまたいいのである。で、もうひとつのトゥルーヴィル。こちらは庶民的な食堂がいっぱい並んだ漁師町。サヴィニャックが晩年住み続けたところだ。今では町全体が彼の美術館みたいになっている。……初めてドーヴィル&トゥルーヴィルを訪れたのは、あれは26歳の時だったか。ダバダバダー。vous avez des chambres?



 ハケというのは国分寺崖線だけの固有の名称かと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。関東では一般的に、台地の崖にあたる部分をハケと呼ぶ習慣があるようだ。

 民藝運動の柳宗悦が、志賀直哉、武者小路実篤らと芸術家村をつくっていた我孫子においても、手賀沼に面した台地の崖をハケ、その崖下の道をハケの道と呼んでいた。

 三樹荘(柳が妻兼子と暮らした家)は天神坂を登ったところに建っている。当時は敷地内から手賀沼越しに富士山が見えたらしい。そして、敷地内にはかのバーナード・リーチの窯があった。ここから志賀直哉邸、あるいは村川堅固の別荘あたりまで、ずっとハケの道が続いている。

 そんな場所で、バーナード・リーチは日本の陶芸を究めようとしていたのだ。東洋と西洋の架け橋にならん。手賀沼に彼の碑が建っている。刻まれた文字は『Beyond East and West』からの一節である。素敵な言葉である。香り立つ言葉である。

 I have seen a vision of the marriage of East and West.

vision

G-Zuiko Auto-W 20mm f3.5 + E-PM1





 一年間ゼミを担当させていただいた4年生のみなさん。昨年、期限ギリギリまで卒論の提出がなかった時にはかなりハラハラドキドキさせられたけれど、最終的には各自個性的な卒論や卒制を仕上げてくれた。尊敬するS名誉教授の教え子たちを引き継いだ形の一年間だったので、これでひと安心。ホッ。

 で、みなさんの卒論を読んでいると、30余年前に自分が卒論を書いていた時のことをついつい思い出してしまった。当時私が書いたのは「マニエリスム芸術論」。

 大学三年生の時、一橋大学の河村錠一郎先生のゼミに入って世界観が変わった。毎回16世紀のマニエリスム美術と19世紀のイギリスの世紀末美術を行ったり来たり。美術だけではない。今日はイギリスのジャコビアンドラマ、例えばジョン・ダンの詩、次回は19世紀末のオスカー・ワイルドのドリアン・グレイ。刺激的な教材ばかりだった。先生の研究室はいつもバラの香りがして、まさに19世紀末のロンドンにいる気分になったものだ。

 さて、「マニエリスム芸術論」なんて大それたタイトルでいったい何を書いたのかというと、フィレンツェのヴェッキオ宮にあるフランチェスコ1世の「ストゥディオーロ(書斎)」について書いたのである。ここには錬金術をテーマにしたマニエリスム絵画のコレクションがある。当時は非公開の秘密の部屋だったが、今ではなんと見学ツアーも催されているらしい。時代は変わったものだ。

 フランチェスコ1世。フィレンツェを繁栄に導いたコジモ一1世の後継者だが、息子の方は内省的で政治には不向き。私はなにやらこの手の二世に弱いみたいでw 大好きなのはこのフランチェスコ1世以外にも、かのノイシュヴァンシュタイン城を造ったルードヴィッヒ2世、あるいは、フランツ・ヨーゼフ1世の子でマイヤーリンクで少女と心中事件を起こしたオーストリアのルドルフ皇太子などなど。いずれも憂鬱質でディレッタントなマニエリストたちである。

 あの論文を書いてからずっと、フィレンツェは憧れの都市であり続けている。今もずっと。ピッティ宮の彼方に広がるボーボリ庭園では天国のランドスケープを堪能できるが、そこには数々のグロッタ(マニエリスムの洞窟)が潜んでいたりもする。首が長くて体をS字型(セルペンティナータ)にひねったマニエリスムのマドンナたちの宝庫、フィレンツェ。たぶん、世界でいちばん好きな街である。

grotta


シルエット

Summicron 35mm f2 2nd + M6 + APX400


 silhouette.




 今年のヴェネチアビエンナーレは素晴らしかった。アルセナーレのイタリア館で展示されていた「キリストのイミテーション」やジャルディーノのロシア館が特に秀逸。そして、ビエンナーレ本体とは一線を画している形を取っているが、グラッシー宮とプンタ宮で開催されているダミアン・ハースト展には圧倒された。これは大がかりな美術界のフェイクニュースである。SNS全盛時代のモダンアートはどうあるべきか?…賛否両論だとは思うが、この確信犯的広告手法はアッパレである。難破船から発掘された云々の設定も、ここヴェネチアで開催されてこそのシズル感がある。

 滞在中、宿はフェニーチェ劇場界隈の、かつて須賀敦子さんが定宿のひとつとされていたと思われるホテルの予約が取れた。数年前に泊まったときは、まだこの「ヴェネチアの宿」に書かれている描写通りの風景だったのだけれど…

 宿はフェニーチェ劇場の広場に面しているのだから、わからなくなれば劇場への道をたずねればいい。そうは思ってもひとりになると、はたしてうまくホテルに帰りつけるかどうか、にわかに自信はうすらいだ。二番目、と思われた路地を、パン屑をたよりに歩いたヘンゼルとグレーテルのように、両側の店の看板をたしかめながら曲ってはみたけれど、夕方見ておいたのとは、なにかすっかりあたりの様子が違ってみえて、心細くなりはじめたちょうどそのとき、行手に見おぼえのある橋がみえた。どこにでもある小さな石橋。それを渡ってまっすぐのせせこましい通路の家と家のあいだに、なんのしるしなのか、空色のネオンがぼんやりと光っているのが、またまた夕方見た道の印象とかけはなれてみえた。近づくと、それはさしわたし一メートルほどの、だれかが学校の工作の時間につくったのではないかと思えるほど初歩的な星のかたちをしたネオン・サインで、太い針金で道の両側の建物から宙ぶらりんに吊してある。その星形のまんなかには、これも幼稚なレモン色の、変にぐにゃぐにゃしたネオンの文字と矢じるしで、レストランはこちら、とある。

看板

 宿は劇場とのあいだの細い道路をへだてたところにあって、名もラ・フェニーチェと劇場の名そのままである。鍵をもらって、入りくんだ廊下をまわり、汽船の内部のように磨きあげられた木の階段を五階まで登る。部屋はいかにも海の街ヴェネツィアらしい船室ふうのつくりで、そんなデザインが、天井が傾斜して梁材が大きく出た屋根裏の空間にぴったりだった。

階段

 今回、久しぶりに泊まってみたら部屋の内装が全面改装。清潔な白壁で統一されている。で、なぜだか部屋のドアにクリムトの「接吻」の絵がプリントされていて(ウィーンのヴェルヴェデーレで見るべきものをどうしてここヴェネチアで?)かつての重厚なヴェネチアらしい内装が失われてしまったのが残念だった。でもまあ、お湯の出もいいしベッドも広いし、場所の割には値段の設定もリーゾナブルだし、界隈の雰囲気は昔のままだし。
 
 このフェニーチェ劇場界隈、ヴェネチア本島の中では一番好きなエリアである。サンマルコに近い割には静かだし、アカデミア橋にもザッテレにも歩いてすぐ。サンマルコの裏から狭い路地をつづれ折れに歩いていって、フェニーチェ劇場がふいに現れる瞬間はいつ訪れても心トキメク瞬間である。フェニーチェ。不死鳥。1996年に起きた火災からもこの劇場は見事に復活したのである。

フェニーチェ劇場

Summilux 35mm f1.4 2nd + α7s

hand

Summilux 35mm f1.4 2nd + α7s


 hand.




 恵比寿のLIBRARIE6でやっている「澁澤龍彦没後30年展」を見てきた。「石の夢」と題して、ミケランジェロやプルドン、そして澁澤龍彦さんが愛したトスカーナのピエトラ・パエジナ(PIERTA PAESINA)が何点か展示されていた。そして、澁澤さんの書斎にあったであろう蔵書の数々。サド、プルドン、ロジェ・カイヨウは言うに及ばず、ブルーノ・シュルツ、ユイスマンス、ランボー、セリーヌ。日本の作家だと瀧口修造、金井美恵子、西脇順三郎の名前が目に付く。いずれも、二十代の頃に(もちろん澁澤さんの影響を受けて)読みあさった本ばかりだ。思い起こせば、ずいぶんと澁澤龍彦にかぶれた二十代を過ごしたものである。ローマに行けば人工廃墟見たさにボマルッツォまで、南仏に行けばサドの生家が見たくてわざわざラコストまで足を運んだ。その澁澤龍彦さんが亡くなって早30年が経つ。。

澁澤龍彦

 さて、ピエトラ・パエジナ(風景石)。はじめて見たひとはこれが天然の石であるとはにわかには信じられないだろう。古色蒼然とした中世のフレスコ画のようであり、マニエリスム期に作られた細密画のようでもある。自然の力だけで、かくも精緻で人工的(に見える)ランドスケープが描き出されることの不可思議さ。悠久の時を静謐に閉じ込めた、まさに「石の夢」である。

comme Magritte

Zunow 13mm f1.1 + Q-S1


 comme Magritte.


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