naotoiwa's essays and photos

カテゴリ: art


 東京都写真美術館にコレクション展「Don’t think.Feel.」を見に行った。第3室に展示されていた川内倫子さんの《Illuminance》《M/E》シリーズの写真、映像が圧巻だった。解説文には以下のように記されていた。

 タイトルは「Mother Earth(母なる地球)」の頭文字であり、また「Me(私)」を意味します。その言葉は「地球と自分自身が反転して一体化したような不思議な感覚を想起させた」と川内は述べています。

 また、第2室の、川村邦光さんの著作『家族写真の歴史民俗学』を紐解いた展示も大変興味深かった。有名な植田正治さんの《綴方 私の家族》の構図と、戦前の天皇家の家族写真の構図を比較した考察等。

 第5室には大好きな中山岩太さんの《長い髪の女》とともに、この言葉が紹介されていた。著名な写真評論家の飯沢耕太郎さんもこの言葉を何度か紹介されている。https://tokinowasuremono.blog.jp/archives/53227435.html

 「私は美しいものが好きだ。運悪るく、美しい者に出逢はなかった時には、デツチあげても、美しいものに作りあげたい」
(「カメラクラブ」1938年1月号)

 同時開催中の「W.ユージン・スミスとニューヨークロフトの時代」展も見に行った(なんと満65歳を迎えると入場料が半額ということで思わずセット券を購入。嬉しいやらちょいと切ないやら。。)セロニアス・モンク等、ジャズの巨匠達も集まったニューヨーク・マンハッタンのアパートでの、「As from My Windows I sometimes Glance... 」と「The Loft from Inside In... 」のふたつのシリーズ、そして日本での《水俣》シリーズ(使用機材のニコンF2とNikkor N-Auto 24mm f2.8も展示されていた)に圧倒された。そして、この言葉がとても印象に残った。

 Don’t stoop to your own lebel. (自分のレベルまで落ちぶれるな)

 stoopというのはアパート等の玄関前のポーチのことで、ここで物を売りさばく行為を指したスラングだと思われるが、さきほどの中山岩太さんの言葉と相まって、久しぶりにココロが震え、奮えた。

 今の時代、どんなことでも自然体で無理をせず、が基本になってしまっているが、クリエイティブ=何かを創り出すという行為にはやはりこのくらいの気概と決意がないと成立しないものだと思う。


 現在、畠山美術館で開催されている「王朝のみやび」展と「守屋多々志の華麗な歴史画」展、素晴らしかった。

 「王朝のみやび」展では、改めて日本文化の「余白」の粋を堪能できる。例えば、酒井抱一の《富士見業原図屏風》。富士山は比叡山の何倍もの高さであると言葉で綴りながら、在原業平が見上げる先に肝心の富士山は描かれていない。逆に人物を敢えて描かない「留守文様」という手法もあるという。《蔦の細道蒔絵硯箱》では、蔦と楓という借景と、僧が背中に背負う笈(おい)という小道具のを描いて、肝心の主人公(伊勢物語の一節なのでこちらも在原業平)を描かない。あるいは、尾形乾山の《色絵藤透鉢》《色絵菊透鉢》。透かし絵ならぬ透かし鉢。所々、葉や茎の花びらの一部が立体的に刳り抜かれている。余白の美学、不在の美学のオンパレード。和歌や短歌で印される署名の「読人不知」(よみ人知らず)だってそうだ。匿名性の美学。

 「守屋多々志の華麗な歴史画」展も新たな発見が多かった。守屋さんが著名な日本画家で故郷が同じ岐阜県大垣市であることは知っていたが、生まれが船町(亡母の実家である)、育ったのは桐ヶ崎(高校まで過ごした家が桐ヶ崎町)で、卒業した小学校も高校も同じ(興文小学校、大垣北高校)だった。故郷の誉れ、尊敬すべき大先輩である。日本画の歴史画ももちろん素晴らしいが、1950年代にイタリアに留学していた時に描いた絵が特に味わい深かった。例えば、フィレンツェのサン・マルコ修道院、フラ・アンジェリコの絵がある窓辺を描いた《アンジェリコの窓》。昭和50年代に朝日新聞社から出版された『イタリア紀行』という画集があるらしい。大垣市にある守屋さんの美術館も改めてゆっくりと訪問してみたい。今年の夏は故郷で亡母の十三回忌の法要もあるし。



 昨年9月にお亡くなりになった大学時代の恩師、河村錠一郎先生を偲ぶ会に伺った。合わせて、歴代のゼミ生で「河村錠一郎先生の想い出」を綴るエッセイ集を編纂することになったと連絡をいただいたので、僭越ながら私も寄稿させていただくことにした。

 高校生の頃、オスカー・ワイルドの芸術至上主義に憧れ、将来はイギリス文学を専攻する気満々(?)だった私ですが、共通一次試験の初年度に当たって散々な目に遭い、翌年、社会科学の大学に入学しました。もちろん一橋大学の社会学部は当時から社会科学と人文科学の融合を目指した学部でしたが、自分が興味を持てる専門科目がなかなか見つからず、受験し直そうかと真剣に悩んでいたそんな時、河村錠一郎先生のゼミを知りました。そして、その日からこの大学が大好きになりました。
 毎週毎週、刺激的なテキストばかりが用意されていました。ある時はイタリアのマニエリスム画家、パルミジャニーノの《長い首のマドンナ》、ある時はイギリスのジャコビアン期の詩人、ジョン・ダンの『エレジー・唄とソネット』、またある時はラファエル前派の画家、ロセッティの《ベアータ・ベアトリクス》、そしてある時は十九世紀末の画家、ビアズリーの《サロメ》。……時空を自在にかけ巡る蠱惑的なゼミナールでした。
 ゼミ以外は授業の出席も成績も芳しくなかった私は、他大学の大学院で学芸員を目指すこともかなわず民間企業に就職しましたが、その後、三十年近く広告会社で、そして今も、クリエイティブ領域の仕事で自分なりの「表現」にこだわり続けてこられたのは、河村先生のおかげです。
 五十歳を過ぎて広告会社を辞め、大学の研究者を目指したのも、学生時代の河村ゼミのあの雰囲気が忘れられなかったからだと思います。
 さて、一橋大学には、その後、大学院に言語社会研究科が設立され、今では美術界はもとより人文科学の各分野においても素晴らしい人材を多数輩出しています。河村先生が一橋大学の地に蒔かれた種が華々しく開花したこと、河村ゼミの卒業生のひとりとして誇らしい限りです。(もう少し遅く生まれていたら、私も母校の大学院目指して猛勉強していたかも?)
 あの夏の日、研究室の冷蔵庫でキリリと冷えたイタリアの白ワインをごちそうになりながら、私たちが交代で「エレジー・唄とソネット」をたどたどしく朗読しているのを見かねて、きれいなクイーンズ・イングリッシュの発音を聞かせてくださった先生の芸術至上主義者たる優美なお姿が、今でも脳裏に浮かびます。
 私が現在、専門の広告分野の論文や研究ノートにおいても、なにかにつけて文学や美術、美学に関連付けてしまうのは、みんな河村先生のせいですね、きっと。

 合掌。

red

FUJINON 35mm f1.4 ASPH. + X-T30Ⅱ


 through red glass.




 先月の終わりから今月の初めにかけての研究出張で、悪天候のため十分な撮影やヒアリング等ができなかった「豊島」再訪。海は荒れていたが、今回は晴天に恵まれ、なんとか予定の場所は全てクリア。帰りのフェリーまでホッとひと息@甲生港。
 
 瀬戸内国際芸術祭2025年の会期は終了したがこちらは常設。もともとは2016年制作のもの。リン・シュンロンさんの「国境を越えて・祈り」。197体の子供の像が197の国の方向を向いている。これはそのうちの一体。

国境を越えて

FUJINON 35mm f1.4 ASPH. + X-T30Ⅱ

自画像

Summicron 35mm f2 1st RF + M9-P


 @中村彝アトリエにて




 美術史学者の松原知生氏が2014年に書いた『物数寄考』が面白くて、ここのところ何度も読み返している。その理由は、本書のテーマである「骨董」にこそ、表現や美の本質が凝縮されているとつくづく感じるからだろう。例えば、本書の中でも度々使われている「現前」と「表象」。表現とはまさにこのふたつの相克であり混淆なのだと思う。ただ鑑賞するだけではなく、実際に手に取って触れられること(現前)、と同時に、距離があればあるほど、手の届かない彼方(遠い過去とか、訪れることの出来ない場所とか)にあればあるほどイメージは増幅されること(表象)。それらを叶えてくれるのが「骨董」というわけである。

 小林(秀雄)にとって、物質としての骨董が帯びる古色とは、歴史が自然の上に残す「極印」のごときものであり、(中略)それは、歴史の物理的痕跡であるという点でインデックス記号をなしており、重要なのはそうした「歴史の形骸」から「歴史の実物」を「類推」する、いわばアナロジー的な推論の技法なのである。
松原知生『物数寄考』(2014年、平凡社)p.70


 わたしは今日のものより昨日のもの、ここでできたものより、あちらでできたものの方が好きだ。つまり時間的にも、空間的にも遠くのものが好ましいわけである。遠くのものには、憧れがあり、夢があり、それ独特の、いうにいわれぬ美しさがある。(青柳瑞穂「壺のある風景」より)
同上『物数寄考』p.107


 で、本書ではそうした「骨董」の美の究極として、後半には「残欠」の話となる。

 残欠とは、残れるものと欠けたもの、現前と不在のあわいに位置する、両義的で曖昧なオブジェである。陶磁器における残欠の具体相は通常、二つのカテゴリーに分類される。すなわち、全体の形は一応のところ保たれているが一部が欠損している「疵物」、逆に、総体としての形状はもはや喪失しつつも部分的になお残存している「陶片」である。
同上『物数寄考』p.186


 彼(安東次男)が疵物の価値としてまず挙げるのは、完璧でないぶん「想像力」を自由にはばたかせる余地を見る者に与えてくれる点である。(中略)第二に、破損によってもたらされる偶然の効果の面白さが挙げられる。(中略)第三に、部分的に欠けることによって、素地や釉などの材質感がいっそう引き立つという点も挙げられる。さらに、すでに疵をおっているため「安心してあたりに投出しておける気安さ」も捨てがたい。
同上『物数寄考』p.208


 自分は古美術に耽溺するほどの素養もないし財力もないが、ひょっとして、昔からオールドレンズやカメラを収集しているのは同じ思いからかもしれない。第二次大戦以前のニッケル仕上げのカメラをいじりながらゼセッションの頃のドイツやオーストリアに思いを馳せる。
 また、以前は神経症のように瑕疵のない美品ばかりを探していたが、最近では、敢えてバルサムが切れていたり白濁したり、銘板が欠けていたりといった「疵物」を好んで買い求めるようになった。いつの間にか「骨董という病」が私の中でも進行しているのかもしれぬ。



 閉幕直前にソール・ライター展をもう一度。写真のみならず、彼の描いた絵もたくさん見られる。50〜60年代の Harper’s BAZZAR の世界が堪能できる展示室がある。イーストヴィレッジにあった彼のアトリエを再現したコーナーがある。そしてホールでは、大型のスクリーン10面にカラースライドプロジェクション。ソファに座って(座る場所を何度も変えながら)1時間ばかり一心不乱に見ていた。一番輝いていた時代のニューヨークのファッショナブルでカラフルな街の情景を、人々の姿を。

 写真家であり画家であり、そして詩人でもあるソール・ライター。彼の謙虚で内省的なまなざしにココロが揺らめく。久しぶりにポジのスライドフィルムを一眼レフカメラに詰めて写真が撮りたくなってしまった。昔使っていたコダックのカルーセルスライドプロジェクターが物置に眠っているハズ。

ソールライター



 晩秋の、冷たい雨の降る日に善福寺公園に行けば、ロンドンのケンジントンガーデンを散策しているような気分になれる。池沿いに建つ洋館、雨に濡れた落ち葉、水辺のベンチ。

zenpukuji


 アートフェスティバル「トロールの森」もやっている。

trolls


 もうまもなく、冬。アタマもカラダも凜となる、大好きな季節。

all photos taken by XF 35mm f1.4 + X-T 30Ⅱ




 先月、館山の布良に行ってきた。敬愛する日本の近代画家、青木繁が坂本繁二郎、森田恒友、福田たねとともにかの《海の幸》を描いた場所である。当時彼らが逗留した小谷家の建物がそのまま残っていて、現在は青木繁「海の幸」記念館になっている。当主の方から大変興味深いお話を伺うことが出来た。例えば、《海の幸》の下絵では漁師たちが女性の着物を着ている姿が描かれているが、これはすぐ隣の布良崎神社の夏の祭礼で神輿をかつぐ際に女装をする習わしがあって、それを青木繁らが見ていたからではないかとか、青木繁が魚類について故郷の友人に宛てた手紙の中で詳しく言及しているのは、農商務省水産局から寄贈された貴重な「日本重要水産動植物之図」が当時小谷家に飾ってあったからだとか。

布良崎神社


 記念館を出て、《海の幸》の舞台となった阿由戸の浜へ下りていく。ここは天富命(あめのとみのみこと)が阿波の忌部一族とともに上陸した場所とされている。男神山、女神山が海岸から連なっている。まさに神話の里である。当時は東京からこの布良にやってくるためには現在の新川あたりにあった霊岸島から船に乗っての長旅だったと聞く。現在はアクアラインを使えば東京湾を横断して陸路だけで辿り着くことが出来るが、それでもバスで2時間半かかる。

阿由戸の浜

男神山と女神山


 さて、青木繁の代表作のひとつ《わだつみのいろこの宮》などを見ても、彼がいかに十九世紀末の欧米の美術を研究していたかがよく分かる。アーティゾン美術館で10月16日まで開催されていた「生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎」で青木繁の描いた旧約聖書物語の挿絵を見て、まさに日本のギュスターブ・モローだと実感した。美術史学、美術評論の第一人者で東京大学名誉教授、現大原美術館長の高階秀爾先生も、竹久夢二との関連性も含めて以下のように述べている。

 今では日本における世紀末芸術の代表的画家として、青木繁、藤島武二、竹久夢二という系譜を考えることができるのではないかということが私の意見である。(中略)そのなかで特に上に引いた三人を日本の世紀末芸術の代表者として挙げたのは、この三人の画業が特に優れて特徴的だと言うことのほかに、この三人には、気質的に十九世紀末の芸術家たちと深くあい通ずるところがあるからである。少なくとも青木繁と竹久夢二の場合は、それは明らかである

高階秀爾「世紀末の画家 『竹久夢二』」『三彩増刊 竹久夢二』(三彩社、昭和四十四年)に所収。pp.56-59


 その青木繁が日本人のルーツとしての神話世界を古事記に求めたのである。その場所のひとつがここ、布良の阿由戸の浜である。

all photos taken by Summilux 35mm f1.4 2nd + M6 + Lomo Grey 100

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