中島敦の『光と風と夢』を再読中。これ、中島作品の中ではかなりの長編なので全集にしか収録されていないが、『かめれおん日記』や『山月記』以上に中島敦の代表作だと思う。芥川賞の候補にもなったという。『宝島』『ジギル博士とハイド氏』で有名なロバート・ルイス・スティヴンソンのサモア諸島での日記を装った小説。中島自身も同じく太平洋のパラオに滞在していたし、スティヴンソンは結核、中島は喘息。どちらも早逝している。スティヴンソン44歳、中島33歳。死生観も似ているのかもしれない。
さて、自分も六十代も半ばを迎え、終活を考えることも多くなった。死ぬ時にどんな思いでいるのが自分らしいのか。中島やスティヴンソンには足下にも及ばないが、小さい頃から書くこと・表現することを存在の拠り処にしてきた者のひとりとして、以下のような文章を読むと感慨深い。自分もずっとそうしてきたし、今もそうしている。
彼は外出の時いつも一冊のノートをポケットに持ち、路上で見るもの、聞くもの、考えついたことの凡てを、直ぐ其の場で文字に換えて見ることを練習した。其のノートには又彼の読んだ書物の中で「適切な表現」と思われたものが悉く書抜いてあった。
だとしたら、
死の冷たい手が彼をとらえる前に、どれだけの美しい「空想と言葉との織物」を織成すことが出来るか?
これが、やっぱり人生の集大成としての価値基準なのではないだろうか。でも、こんな死に方もいい。キャプテン・ハミルトンが亡くなった夜に主人公が弔問に行った時の描写。
一礼して私は表へ出た。月が明るく、オレンジの香が何処からか匂っていた。既に此の世の戦を終え、こんな美しい熱帯の夜、乙女等の唄に囲まれて静かに眠っている故人に対して、一種甘美な羨望の念を私は覚えた。
そして、もしもこんな覚悟を持てたら最高の人生なんだろうなと思いつつ、『光と風と夢』を再読中。
イエールでの喀血後、凡てのものに底が見えて来たように感じた。私は最早何事にも希望を抱かぬ。死蛙の如くに。私は、凡ての事に、落着いた絶望を以て這入って行く。宛(あたか)も、海へ行く場合、私が何時も溺れることを確信して行くのと同様に。ということは、何も、自暴自棄になっているのではない。それ所か、私は、死ぬ迄快活さを失わぬであろう。此の確信ある絶望は、一種の愉悦でさえある。
中島敦『光と風と夢』より
中島敦全集1(筑摩書房、1992年)所収
引用は順に、p.193、p.195、p.149、p.191
中島敦全集1(筑摩書房、1992年)所収
引用は順に、p.193、p.195、p.149、p.191

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