最近、ラテンアメリカ文学が人気である。ガルシア=マルケスの大作『百年の孤独』の文庫版が発売されてベストセラーらしい。もちろん、ガルシア=マルケスも大好きな作家のひとりだが、学生時代からずっと耽溺してきたのはホルヘ・ルイス・ボルヘス。小説や詩はもちろん、随筆や文学・哲学評論も素晴しいの一言に尽きる。特に『語るボルヘス』に収録されている「時間」をテーマにした講演文。永遠とは何か、時間とは何か、という哲学上の究極の命題に対して、プラトン以来のこうした発想(最初に永遠ありき。時間はそれを小出しにして我々に見せてくれる継起的なもの)の方がなるほど、腑に落ちる。

 プラトンは、時間とは永遠の動的な似姿であると言っています。彼はまず永遠から、永遠の存在から説き起こして、その永遠の存在は他の存在のうちに自らを投影したいと願っている、と言っています。永遠の中では自らを投影できないので、継起的な形でそうせざるを得ないのです。このようにして、永遠の移ろいゆく姿、つまり時間が生まれてきます。イギリスの偉大な神秘主義者ウィリアム・ブレイクは、「時間とは永遠の贈り物である」と言っています。もし万が一われわれに全存在が与えられたら……。ここに言う存在とは、宇宙よりも、世界よりも大きいものなのです。もしそのような存在が突然目の前に現れたら、われわれは消滅し、無と化して死に絶えるでしょう。しかし、幸い時間は永遠からの贈り物です。したがって、永遠はそれを継起的な形でわれわれに体験させてくれます。われわれには昼もあれば、夜もあり、時間も分もあります。記憶もあれば、肌で感じ取れる感覚もありますし、さらに未来、どのようなものかは不明ですが、予感し、恐れている未来があります。

J・L・ボルヘス(著)木村榮一(訳)『語るボルヘス』(岩波文庫、2017年)pp114-115