都内にお花見の名所は多々あれど、江戸情緒を感じたいならやはり浅草、隅田公園。普段は台東区側から隅田川を望んでそのまま帰路につくことも多いが、久しぶりにリバーウォークを経由して墨田区側に渡ってみた。このあたりは堀辰雄の旧居跡としても知られている。堀辰雄と言えば軽井沢だが、幼少の頃は向島に住んでおり、当時のことは『幼年時代』などに細やかに描かれている。ここに記されている牛嶋神社の撫で牛もしかり。

 おばあさんは私の家にくると、いつも私のお守りばかりしていた。そうしておばあさんは大抵私を数町先きの「牛の御前」へ連れて行ってくれた。私はそのどこかメランコリックな目ざしをした牛が大へん好きだった。「まあ何んて可愛い目んめをして!」なんぞと、幼い私はその牛に向って、いつもおとなの人が私に向って言ったり、したりするような事を、すっかり見よう見真似で繰り返しながら、何度も何度もその冷い鼻を撫でてやっていた。その石の鼻は子供たちが絶えずそうやって撫でるものだから、光ってつるつるとしていた。それがまた私には何んともいえないなめらかな快い感触を与えたものものらしかった。……

堀辰雄『幼年時代・晩夏』(新潮文庫、昭和30年)p.12

牛

Summilux 35mm f1.4 2nd + M10-P