「このマンション、年をとってから大変になるって思わなかった?」と彼女は言う。

 その建物はブラフと呼ばれる崖の石段を約百五十段登り切った場所にある。眺望はバツグン。部屋の三方の窓からはいつでも海と空が見える。周辺は人通りも少なくてとても静かだ。

bluff

Summilux 35mm f1.4 2nd + M4 + XP2 400

「買い物はどうしてる?」「ネットで注文すれば何でも届けてくれる」「ずっと部屋に籠もりっぱなし?」「天気が悪い日はそうだね」「退屈?」「まだまだ読みたい本がたくさんあるから、いくら時間があっても足りない」「そう」「で、今日みたいに奇跡みたいに天気が良くなった日曜日にだけ、坂を下りていって街でパンを買ったりカフェで珈琲を飲んだり」「奇跡みたいって?」「初夏なのに風がヒンヤリとして空気が乾燥してる。今年こそはジメジメした梅雨も猛暑の夏も全部スキップしてくれるんじゃないか……そんな奇跡が起きそうな気がする日」「相変わらずのアナタの言い回し」「そうかな」「で、相変わらずひとり?」「ああ、でも、この部屋にいると毎日いろんな人たちに会えるんだ。キミみたいな昔の友だちにも、昨日会ったばかりの新しい友だちにも。みんな同じように若くて生き生きとして、この部屋でいろんなことを語り合う。日が暮れるとみんな帰って行くけれど、そのあとひとりになって考える。ひとりになって書く。とてもおだやかな毎日だ」「アナタ自身も昔のママ?」「鏡を見てないからよく分からないけど、キミが言うように言い回しも変わらないみたいだし、毎日考えることも毎晩見る夢も変わらない。ただちょっと足腰が弱くなって階段の登り降りがキツくなってきただけのこと」