最近、死んだ父親に無性に逢いたくてしようがなくなる時がある。自分に似ているひとはいても、自分が似ているひとはもはやこの世に存在しない、そのことがどうにもせつないからだろうか。私は死んだ父親とはほとんど同じような体型・体質で、六十歳を過ぎてこれから自分の身体のどの部位がどのように衰えていくのか、その過程もその程度も、父親が辿った十数年間を思い起こせばなんとなく想像がつく。遺伝子というのはつくづくそら恐ろしいが、はてさて、そうした自分の老後についても父親から直接アドヴァイスが聞きたいし、自分が生まれる前、若かりし日の父親がいったいどんな思いで戦争に行き、どんな思いで戦後の人生を始めたのか。そして、七十一歳で死ぬ時、いったい何を想い、何に感謝し何に未練を覚えたのか。そうした本音を直に本人から聞いてみたい。

 でも、そうしたことは決してかなうことがない。生きている者と死んでいる者は、川上未映子さんが「十三月怪談」の中で書いているように、ほんとうに、お互いがお互いに対して「無力」なのだ。そのことがつくづくやるせない今日この頃である。

 でもわたしがいまぼんやりとソファにすわってずっと思ってることっていうのは、死んだ人間っていうのはほんとに無力なんだなって、たぶんそういうことだった。自分が生きているときは、生きてる人間っていうのは死んだひとにたいして、あるいは死んでゆこうとしてる人にたいして無力だなって思ってるところがあった。なんにもいえないし。でも、死んだひとっていうのは生きてるひとになにひとつだってしてあげることはできないし、さわることだってできないし、もうなにもできなくって、ほんとうにちがう世界にいるんだなってそう思う。

川上未映子『愛の夢とか』(講談社、2013年)収録「十三月怪談」より