男の私に対しては、姉ほどの思い入れはなかったのかもしれない。けれども、姉と同じように、小さい頃から、よくもまああれだけのものを当時の地方都市で見つけ出せたと感心するくらい、たくさんの習い事を見つけてきては私にあてがった。習字、ピアノ、シロフォン、少年合唱団。それだけではない。パリ帰りの画家先生を見つけてきて、油絵も習いに行かされた。毎週、先生のアトリエに行って風景画や静物画を描かされる。今でもテレビン油の匂いを嗅ぐとあの頃のことを思い出す。かといって、母は私を芸術家にさせたかったわけではないのだ。
 中学に入ってからは、弁護士になれ、医者になれ、という定番のことを言い出した。で、まずは英語塾。そして、数学が苦手だと察知するやいなや家庭教師を探した。たいがいは当時大学生の姉のボーイフレンドたちが、弟の私を手なずけようとして(?)その役を買って出てくれたのだけれど。しかし、いくら家庭教師を付けられても典型的な文系のアタマしか持ち合わせていなかった私に数学や物理の上達は無理。それでも高校三年生の時、この母の思いに感化されたのか情にほだされたのか、理系に転向し(医学部を目指すためだ)、結果、案の定一年間棒に振って浪人生活を送る羽目になった。翌年にはさすがに母も諦めて、当初の予定通り文系の大学に再チャレンジすることを黙認するのだが、行きたいと思っている学部名を告げると、「そんなところに行って、将来いったいなんの役に立つと言うのかねえ」。でも、その母が美しい筆致で半紙に和歌を書いたり、古風な日本語で日記を綴っていたのを私は知っている。その後、私は東京の大学に通った後に広告会社に入社することになるのだが、幸い入社できたのが業界一位の会社だったこともあって母の自尊心はかろうじて満たされたようである。
 さて、私は東京で四年間一人暮らしをしていたが、私のアパートに母が訪ねてきたのはたったの一度きりである。それは、大学四年の冬のこと。その頃はまだマスコミの就職活動の解禁は名実共に秋以降で、当時は各企業からの合否の連絡は電話か電報のみで(メールなんてまだ存在しなかった)、本人不在時に代理で連絡を受けられるのは肉親に限られていた。ゆえにこればかりは近所に住んでいる友人にも、付き合っていたガールフレンドにも頼めず、やむなく母に上京して来てもらうことにしたのだ。当時私が住んでいた下宿は井の頭公園のそばにあって、母は部屋を見るなり、「なんて古くさい部屋なのかねえ」と感想を述べた。ベッドも机もクローゼットもアンティークの家具で揃えていたのが彼女のお気に召さなかったらしい。「若者らしくない部屋だねえ。それに、このアパート、駅から遠過ぎる。なんでこんなところをわざわざ選ぶのかねえ」。でも、この部屋の窓からは井の頭公園が一望だし春には公園の桜が散ってベランダが花びらでいっぱいになるんだ、などと私が言っても、「風流なことだねえ。でも、そういうのがいったい何の役に立つと言うのかねえ」。あの時、二十一歳の男と五十三歳のその母親という、なんとも居心地の悪い組み合わせのふたりが狭い部屋の中で数日間いっしょに寝起きをともにし、いったいどんな話をしていたのだろうか。今となっては詳細を思い出すことはできないが、なぜだか一言、私は母に「ありがとう」と言ったことだけは覚えている。母はなんのことだかと怪訝な顔をしていたが。おそらくあの時、私はそれまでの人生の中でいかにたくさんのチャンスを母から与えられ続けてきたのか、そのことを改めて思い起こしていたのだと思う。習字もピアノもシロフォンも少年合唱団も、そして油絵も、それらがみんな現在の自分の糧になっていることを直感的に理解したからもしれない。
 そんな母は、父が死んでから十六年間、ひとりで大垣の家に暮らした。「よお、未亡人」と私がおどけて声をかけるとまんざらでもない顔をしていた。父の残したいくばくかのお金で生活に不自由することはなかったが、預金通帳の金額が増えることがいっさいなく、ただただ毎日減っていくだけのを見ているのはなんとも恐ろしいものだ、と言っていた。やはり姉か私と同居したかったのではないだろうか。でも、それぞれの配偶者に気をつかって生活するのはイヤ、ひとりの方が気ままでいい、というのも本音だったろう。思ったことをズバズバと、イヤなものはイヤ、と言い切る母。それは美人に生まれついた女性の特権か、はたまた業だったのか。
 その母は八十三歳の時、自分の母親と同じ悪性リンパ腫になった。姉や私が病名の告知に立ち会った時、彼女は「先生、直してください!」と気丈に言いつつも、自分の母親と同じ病気と知って「やっぱりなあ」と覚悟をしていたようでもあった。夏に入院して、その後、計七回にわたる抗がん剤治療で血液中のほとんどのがんが寛解したが、翌年の春に脳に転移をしてしまい、処置の施しようがなくなった。
 大正十四年生まれの父と昭和五年生まれの母が結婚したのは昭和二十五年と聞いているが、戦後、ふたりはどのように出会い、どのような約束をかわしながら家庭を築いたのだろうか。父が母の実家近くに下宿していたことが縁だったという話を姉から聞いたことはあるが、それ以上の詳しいふたりのなれそめは知らない。母が自分の父親が持ち込んできた縁談を断るために父と駆け落ちした、なんて話を誰かから聞いたこともあるが、真偽のほどはわからない。その秘密はそのままにしておいて、最後に、以下のようなふたりの新婚直後のエピソードをもって両親のことを語るのはいったん終えることとしたい。この話を私は、母が亡くなる四年前の春、珍しくふたりで根尾谷へ花見に行ったときに聞いた。薄淡桜はもうほとんど散ってしまった後だったけれど。

 戦後まもなく結婚したふたり。父は若くして奮起し自分たちのマイホームを建てた。ある日、その新築の家を留守にして、ふたりは夕刻、近くのダンスホールに行った。母は流行のモガ系のファッションに身を包み、父は髪をリーゼントでキメて白いエナメルの靴を履いて。そして、ダンスホールから帰ってくると自分たちの家に明かりが灯っているではないか。あら、消し忘れて出てきたのかしら?
 ところが、どうやらそうではなかったのである。裏口から覗いてみると、居間に見知らぬ男が座っていた。なんと、泥棒である。そして、その泥棒は、ふたりが帰ってから食べようと戸棚にしまっておいた鮭の切り身の焼いたのをむしゃむしゃと食べていたのである。父はその現場に踏み込んだ。泥棒は逃げるに逃げられない。母は泥棒の顔を見た。なんとも気の弱そうな顔をしていた。ふたりは怒るタイミングを逸してしまった。まあ、いいんじゃない、と彼女は言った。他には何も取られていないようだし。そうして三人で食卓を囲むことにした。「どこのどなたか知らないけれど、ここに白米も少しだけならあるわよ」。

 なんともなごやかなエピソードである。おそらく昭和二十年代にはそういうことも起こり得たのだろう。それにしても、気性の激しい母の人間としての優しさ、柔らかさの一面を感じさせてくれるエピソードである。自分が生まれるずっと前に、父と母がそんな素敵な若き日々を送っていたことを知って私はとても嬉しく思った。
 でも、時は残酷そのものである。そんな若き美しき日々も、やがては跡形もなく消え去っていく。そして、最後にひとは誰もが白骨となるのだ。まさに「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」(蓮如上人)である。残された者にできることは、せめて野辺送りに相応しい場所を彼女にかわって探すことぐらいだった。深い山の懐へ彼女の魂が帰って行ってくれたのなら、と思うばかりだ。