今年もあと二日で終わりである。夏に父のことを書いた。では、寒波が近づきつつある年の瀬に、母のことも。

 私の母は大垣市の船町に生まれた。四人姉妹(ひとりは弟)の次女。昭和五年生まれ。終戦の時は十五歳。女学校に通っていたときの写真が何枚かある。美少女である。理知的な目をしている。そして、とても意志が強そうな表情をしている。
 とにかく、物事をハッキリとしないと(そして言わないと)気が済まないタチのひとだった。イヤなものはイヤ。おべっかは使わない。近所に年の少し離れた姉が住んでいて、ときどき遊びに来ていた。実家を弟が継ぐようになってからは互いに行き来もあったようだが、せいぜいがそのくらい。親戚付き合いも近所付き合いも好きじゃない。
 悪性リンパ腫で五十代に早世した自分の母親のことをとても慕っていた。のちに、母自身もこの同じ病気で八十三歳の生涯を閉じることになる。反対に、自分の父親のことはあまりよく思っていなかったようだ。
 物心がついた後の私が知っている母は、とにかく美しい人だった。そして、激しい人。同時に憂鬱な人。佐久間良子に似ている、とよく言われた。小学校の授業参観の時には級友たちに羨ましがられた。でも、来ないときも何度かあった。母は何度か入退院を繰り返していた。私が中学生の頃はとくに多かったように思う。入院といっても器質的な大病を患っていたわけではない。食欲不振とか吐き気とか頭痛が続くといった不定愁訴で、そうした症状が出始めると母はさっさと自分で荷物をまとめて病院に電話をかけ、院長先生と交渉して入院手続きを取る。そして二週間ほど病室に入り、元気を回復して戻ってくるのだ。ある意味、入院することで日常のストレスを解消しているようにも思えた。
 健康面でなにか不安なことがあったら、すぐに病院に行って検査を受ける。胃カメラでも大腸カメラでも、脳のCTスキャンだってなんだってあっという間に済ませてしまう。すぐに結果を知りたい人だった。ウジウジしているのが大嫌い。「果報を寝て待」ったりはしない。ノロノロしているひとを見ているとイライラする。口癖は「はよ、はよ」(早く早く)である。「はよ、まわしせんかね」(「まわし」も岐阜や名古屋の方言で「支度」の意)。家に帰るとき、家に近づく百メートルも手前から既に鍵をハンドバックから取り出している。鍵に付いていた鈴の音を聞く度に、隣にいる私は、ああ、また母はせっかちにこんなに早くからもう家に帰る「まわし」をしているのだなと思ったものだ。
 父にも喧嘩っ早くて短気なところがあったが、母の場合はレベルが違った。ふたりが仲違いをするときはいつも決まって先に啖呵を切るのは母の方である。あれは私が小学校の五年生頃だったか、家族でドライブをしていて車中で父と母が口論になったことがあった。場所がどのあたりだったかは定かではないが、他の車が全く通らない山間の淋しい道でのこと。突然、母は「ここで降りる!」と宣言すると助手席のドアをバタンと閉め、ひとりで山奥に向かって歩いていった。父はクルマを徐行させながら窓を開けて体を乗り出してしきりになだめているが、母は頑としてクルマに戻らない。「ついてこないで」。時刻は五時を過ぎ、もうすぐ日が暮れる。次第にまわりの視界が暗くなっていく。そんな中、母はひとりでどんどん薄闇に向かって歩いて行ってしまう。それを、後部座席に座っていた私はじっと見つめていた。今でも鮮明に脳裏に残っているのは、あのときのシャネルスーツを着た母のすらりときれいに伸びた脚とマロン色をしたハイヒールである。
 母は料理をつくるのがあまり好きではなかったようだ。朝食はいつも同じメニュー。厚焼きのトーストにハムとゆで卵、飲み物はアッサムティー、デザートはイチゴが五粒と決まっていた。昼は、夏は冷や麦、冬はうどん。夜は何を食べていたのだろう? ハンバーグ? エビフライ? 残念ながら、これぞ母親の味というような料理を思い出すことができない。ただ、日曜日の昼によくつくってくれたお好み焼きのことだけは覚えている。大きな鉄板プレートの上で小麦粉をしゃもじの裏側でのばして焼くのだ。母のお好み焼きはソースを使わない。醤油で味付けをして、乗せる具も薄切りの豚肉とネギとショウガぐらいで、京都の一銭焼きみたいにさっぱりとしていて何枚でも食べられる。でも、それ以外の料理のことはなかなか思い出せない。その代わり、父とふたり、今日はどこで何を食べようかと外食の相談をしていた記憶ばかりが残っている。
 しかし、同じ家事でも掃除は大好きだったようである。というよりも、几帳面にいつも掃除機ばかりかけていた。父や姉や私が服を脱ぎ散らかしたり、あちこちにモノを置いたりすると、次の瞬間、それらはたちどころに洗濯機や戸棚の中に収まっていく。カオスが許せないのだ。おそらく、母は何事につけてもかなりの潔癖症だったのでないだろうか。
 そんな母が生涯かけて一番熱心にやってきたこと。それは、自分の子どもたちに対する教育だったのだと思う。まずは、私の姉に対して。姉は私より九歳年上で、私が小学三年生の頃には既に高校生。県内一の進学校に入学していた。彼女は父の運動神経の良さを受け継いで陸上競技の選手だったし、幼い頃からピアノレッスンを続けていて、音楽大学に入ってプロになる可能性も十分あったという。けれども、彼女は陸上競技やピアノでプロになることはやめて進学校を選んだ。それには母の強い意志が働いていたのかもしれない。これからの女性は職業婦人として自分ひとりの力で稼ぐ力を身につけなくてはならない。そのためにはまずは学歴を積み重ねることが大切。それが将来安定した収入を得る最善の道。ピアニストになるというのは母にしてみれば賭博性が強すぎたのだろう。
 母は自分がやりたくてできなかったことを自分の娘に託したのであろうか。戦中戦後のあの状況下で、女学校を出てからも学問を続けるのは困難なことであったろう。自分の父親に学問の道を閉ざされてしまったのかもしれない。その後、父と結婚して専業主婦になるが、自分の娘には、男に引けを取らない学問と教養と身につけさせ、安定した収入を稼げる職業に付いてもらいたかったのだろう。

(続く)