さて、父のクルマ遍歴についてである。私が物心ついた1965年ぐらいにはすでに我が家には自家用車があった。手元に残っている古い写真をから推察するにダットサン・ブルーバードの初代型だと思われる。それが、小学生にあがる頃にはフォルクスワーゲンのカブトムシに変わった。昭和四十年代半ばの地方都市で、クルマを、しかも外車を走らせている家庭なんてまだほとんどなかった。ドライブの途中、国道の真ん中でのんびり停車していても誰からも文句を言われなかった時代である。VWのカブトムシはその後、同じフォルクスワーゲンのタイプ3、昭和五十年代になるとベーン・ベー(当時はBMWのことをドイツ語発音でこう呼んでいた)の2002へと変遷していった。ずっとドイツ車で通していた。実は、途中で二度ほど国産車に浮気した時期があったが、クラウンはほんの半年、ブルーバードのSSS(スーパースポーツセダン)に至ってはなんと二週間で売り払っていたと記憶している。
 国産車はやはり足回りやハンドリングが緩くて「フィーリングが合わなかった」らしい。カブトムシだけでもバージョンアップする度に三度ほど乗り換えていたし、完全なクルマ道楽である。でも、助手席に乗せてもらう度、父の運転裁きには惚れ惚れしたものだ。とにかくメリハリが効いているのである。スピードを出すときは出す、停まるときはきっちり停まる。マニュアル車で山道のカーブを曲がるときのヒール&トゥの足裁きには色気すら感じた。とにかく運動神経が良いのである。でも、そんな運転上手の父親が事故を起こしたことが一度だけある。追突事故。といってもノロノロ運転中の前方不注意なので相手もむち打ち等にはならず、たいしたことには至らなかったのだが、きれいな空色のVWタイプ3のフロント部分がグチャリとへこんだ。原因は車中での中学生の私との口論だ。口論のきっかけは母のことだったと記憶している。
 父のクルマ好きメカ好き、運動神経の良さは戦時中に鍛えられたものであろう。父は陸軍の少年飛行兵だったらしい。操縦士として偵察機に乗りつつ、整備技術兵としてメンテナンスも担当した。父が配属されたのは各務原の飛行場。昭和二十年の六月、飛行場は大空襲を受けて同期の飛行兵や整備兵たちがたくさん亡くなってしまったという。
 そして、終戦。父の戦時中のことはどこまでが真実でどこまでがそうでないのか、生まれてもいない息子にはわかるはずもないが、あの戦争で九死に一生を得た父は、なにを思ったのだろう。戦友たちが死んで自分が生き残ったことを恥じていたのか。あるいは、さあ、幸せな人生をつかむのはこれからだ、今まで出来なかった贅沢をしてやるのだと強く念じたのだろうか。いずれにしても、父は戦後、ハングリーに生きた。そんな父のことが、私は好きである。カルヴィン・トムキンズではないけれど『優雅な生活が最高の復讐である』と私も思うから。
 そんな父は、七十一歳の時に潰瘍性大腸炎をこじらせ、その後、肝臓の状態が悪化して死んだ。肝硬変、そして肝がん。スキーの大けがのときに輸血が原因でC型肝炎になっていたことが寿命を縮めた。黄疸で体を真っ黄色にして、腹水をいっぱい貯めながら父は死んでいった。死ぬ前に、父はみんなに謝りたいと言った。「どうして?」と聞くと「ちょうすいていたから」と。「ちょうすく」というのは岐阜や名古屋の方言で、「偉ぶっている、生意気なことを言う」といった意味だろう。切った張ったの商売だから、人を出し抜いたりだましたりしなくてはならないこともあったかもしれない。毎週ゴルフをやり、外車を乗り回し、一見優雅に見えるかもしれない自分の人生のことを、仕事仲間に対して申し訳なく思っていたのかもしれない。そして、そのあとぽつりと、あと十年くらいは生きてみたいと言っていた。まだ、乗りたい車がいっぱいあったのかもしれない。メルセデスだってポルシェだって。
 亡くなった翌日、市役所に死亡届を出しに行った。その後、父の戸籍謄本を見てなんとも暗鬱たる気分になったことを覚えている。いつ生まれ、誰といつ結婚し、いつ子どもが生まれ、そしていつ死んだか。ひとの人生なんてたったそれだけの事項でまとめられてオシマイなのだ。父の墓は揖斐川町にある。本家の方にお願いして敷地の一部に建てさせていただいたのだ。死ぬ直前に父がそう希望したからだ。生まれた揖斐川町の小島の山を見ていたいと。かなたには伊吹山も、時には見えたりするのだろうか。