コロナ禍や猛暑のこともあり、今年は父親の墓に行くことができなかった。お盆も既に過ぎてしまっているし、離れた場所からではあるが、ひととき、亡父を偲びたいと思う。

 私の父は、大垣市の北にある山間部の揖斐郡揖斐川町に生まれた。揖斐川町から北東に向かえば谷汲山華厳寺があり、そこからさらに北に向かえば薄墨桜の根尾谷がある。そして、南西には、かの伊吹山が聳えている。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を退散させた「荒ぶる神」の鎮座する伊吹山である。真冬になると東海道新幹線が米原周辺で徐行運転をすることが多いが、あれは、伊吹山から吹き下ろす雪のせいである。その伊吹山からさらに北に福井の県境を越えて行けば、泉鏡花の小説で有名な夜叉が池もある。などなど、岐阜県の北西部というのはなかなかにミステリアスなエリアである。
 その揖斐郡揖斐川町の小島という村に、父は生まれた。母親が四十過ぎてからの子だと聞いた。手元にある一番古い写真(おそらく1950年代のものだろう。もちろん私はまだ生まれていない)を見ると、髪はリーゼント、ボックス型スーツを着て靴は白のエナメルである(モノクロの写真しか残ってないが、のちに本人がそう言っていたから間違いないだろう)。このスタイルで終戦直後のダンスホールに通っていたらしい。洒落者で、それが高じて衣服を扱う会社に入社した。ところが、すぐに上司と大げんかをして退社。普段は穏やかな物言いをする人だったが、喧嘩っ早いのだ。以来ずっと、七十一歳で亡くなるその日までフリーランスを通した。半世紀もの間、ひとりでどんな仕事をしてきたのかいうと、衣料用の生地や反物の仲買である。工場と販売会社との間に入って手数料を稼ぐのだ。それが「毛織物卸業」である。けれど、ファッションの流行にはリスクが伴う。先に買い付けておいた反物がまったく売れない時もある。手形が落ちない。不当たりが出る。かなり浮き沈みのある商売だったように思う。景気がいい時は家族みんなで郊外のフランス料理店へ。クルマもすぐに新車に乗り換える。けれど、大きな不当たりを出してしまうと大変なことになる。一度、その筋の人が家に数人やって来て、家の中にある家財道具全てにラベルを貼っていったこともある。いわゆる差し押さえである。「子供にだけは手を出すな!」と叫んでいた父の声を今でもよく覚えている。
 でも、商売が順調なときは、なかなかに優雅な生活なのである。サラリーマンではないので定時に出社する必要もない。ゆっくり起きてから自宅の車庫から車を出す。向かう先は愛知県の一宮市が多かった。一宮市は紡績の街で当時は至る所に繊維工場があった。一宮に着くと、まずは馴染みの喫茶店に入る。そこでモーニングセットを頼むのだ。名古屋エリアで有名なこのサービス(午前中に珈琲を頼むとトーストやゆで卵、サラダ等がもれなく付いてくる!)の発祥地は一宮市である。工場の騒音が始まる前の朝の時間帯に喫茶店で打ち合わせをするというのがモーニングセットの始まりだったらしい。父もここで午前中に繊維工場の担当者たちと商談をし、まとまれば、午後、サンプルの反物を車に積んで名古屋や岐阜の販売会社に向かった。で、夕方に自宅に戻ってくる。これが一日の行動パターンだが、毎日毎日真面目に仕事をしていたわけではないようだ。朝、車で出かけるところまでは同じだが、得意先のどこにも立ち寄らずにずっとお気に入りの珈琲店で時間を潰している日もあるし、販売会社の担当者を誘って接待ランチをしたり(事務の女の子を誘って単なるプライベートランチという日もある)、空いている時間に名所旧跡を訪れたり。で、日曜日はゴルフである。ほぼ毎週。ゴルフ会員権も全盛期には三つぐらい所有していたように記憶している。でも実は、ゴルフも仕事のうちなのである。販売会社の担当者をコースに連れて行って、お金は全額父が払うのだ。
 夜、自宅に戻ってからは帳簿付けである。ワープロもパソコンもない時代、すべては手書きである。一円でも金額が合わないと深夜を過ぎても書斎から出てこなかった。私は父から、将来お前はどうしろ、何になれ、と強要されたことはなかったが、一度だけ、あれはたぶん高校に入って間もない頃だったと記憶しているが、「お前にはやっぱり将来定職についてもらいたい。毎月決まった日にお金が入ってくるというのはどんなに安心できることか」とつぶやいていたことを覚えている。半世紀もの間、たったひとりで商売をし続けるのはどんなに大変だったろう。しかもファッションの仕事である。五十過ぎたら自分のセンスにも自信がなくなってくる。付き合う得意先の相手はみんな若者。彼らから嫌われることなくお金を引き出すために、父は毎週彼らをゴルフで接待していたのだ。当時はまだ、サラリーマンが自腹でゴルフコースに出るにはずいぶんとお金がかかる時代だったから。
 父はゴルフのハンディを生涯10で通した。でも実際はハンディ5ぐらいの腕前だったのではないだろうか。何度かスコアブックを見せてもらったことがあるが、常に80前後。書斎にはいろんな大会で優勝したときのトロフィーがいっぱい飾ってあった。実際はシングルの腕前なのに(ハンディ10未満をシングルという)、お得意先の相手を気遣ってハンディを10にしていたのだろうと推察される。何度か練習場やコースに連れて行ってもらったこともあるが、フォームはとても柔らかいのに、インパクトの瞬間は決してブレることなく、ドライバーがよく飛んだ。ゴルフを始めたのは四十五を過ぎてからで、その前はスキー。競技スキーヤー並の玄人はだしだったと聞く。しかし、四十歳の時に大けがをしてスキーをやめた。父は伊吹山のスキー場で後ろから初心者のスキーヤーに激突され、そのストックが顎に刺さって重傷を負った。病院に運ばれて緊急手術。大量に輸血をされたらしい。実は、その時の輸血が原因でウイルス性の肝炎になってしまったようだ。とにかく父は運動神経が良かった。それはゴルフのフォームひとつとってもよくわかったし、いっしょに登山をしたときの身のこなし、あるいは、クルマを運転するときの一挙手一投足にも現れていた。

(続く)