重い鉄製の扉を開けた瞬間、柔らかな暖気が出迎えてくれる。眼鏡のレンズが白く曇る。ここは、真冬の片隅にぽつんと設えられた安息の場所である。
 とにかく静かである。BGMは、聞こえるか聞こえないかの絶妙のバランスで、うっすらと流れているだけ。時折、ケトルからシューシューと湯気の立つ音がするだけ。そんな中で、みんな、思い思いの本のペエジを繰っている。でも決して、緊張を強いられる静寂ではない。空気がゆったりと和んでいる。ここに居ると、夜がずっと続いていくような気分になる。やさしい夜が、決して足元をすくわれることのない夜が、永遠に続いていくような気分になる。
 ここは、一風変わった珈琲店である。まずもって営業時間。開店は日没の一時間後、閉店は日の出の一時間前。つまりは夜の間しか営業していない。しかも完璧な夜の時間だけ。前後に一時間ずつ設けてあるのはそのためである。そして、なんと、この店には店主がいない。客は自分で棚から好きな珈琲茶碗を選び、自分でお湯を沸かし、自分で紙フィルターを使って珈琲を淹れる。といっても、セルフサービスの店ではない。姿は見えずとも、店主の気配は常に感じられる。開店時間には毎日きちんと数種類の挽き立ての豆が用意されているし、BGMで流れる音楽もその日の天候によって、あるいは、その日に集まる客たちの気分を察するようにアレンジされている。





 さて、扉を開けたすぐのところの壁には小さな貼り紙があって、そこに、この店のルールが書いてある。

1)ここは、静かに本を読む、あるいは文章を書くための場所です。
2)店内の本は全部自由に読んでいただいて構いません。でも、必ず元の場所に戻しておいてください。
3)何時間居ていただいてもかまいません。けれど、眠らないでください。
4)料金は一律千円です。お金はカウンター脇の木箱の中に入れておいてください。
5)通信機器は使わないでください。
6)最後に店を出るひとは鍵をかけ、扉の郵便受けにドロップしておいてください。

 そんなルール、客がちゃんと守ってくれるの? 本を持ち帰っちゃうひと、いない? みんながみんな千円払ってくれるかしら? ……大丈夫。この店に来る客は、初めて訪れるひとも含めて、みんなこのルールをきちんと守っている。ほぼ毎日来ている私がそう証言しているのだから、間違いはない。
 そう。私はほぼ毎日、この店に通っている。そして、ほぼ毎日、ここで物語を紡いでいる。物語、ストーリー。……そんな大仰なものではないのかも。私はただ、静かに、自分のまわりに存在しているここの親密な世界を叙述したいだけなのだから。
 営業時間の話に戻ろう。日没の一時間後から日の出の一時間前まで。だとすると、当然のことながら季節によって営業時間が変わってくる。真夏で7時間ぐらい、真冬だと10時間以上。その間、ここに来る客はただただ本を読み、文章を書いているだけ? 疲れてうたた寝してしまうんじゃない? それにお腹だって空くのでは? 確かにお腹は空く。で、そういう時のために、実はフードメニューも用意されている。ただし、出前である。カウンターの隅に小さな黒いボタンがふたつあって、それぞれに小さな文字で、ポテトサンド、フルーツサンド、と書いてある。このボタンを押してきっちり十五分後に入口の扉を開ければ、あなたはそこに銀のトレーにのった、きれいにラップがかかったポテトサンドかフルーツサンドを目にすることができるだろう。まるでホテルのルームサービスみたいに。