地階のジャズ喫茶である。70年代からずっとあった。階段を降りていくと、湿気た匂いがプンとして、出てくる珈琲は酸いた味がした。けれど今は違う。現代に生き延びるためにはジャズ喫茶も変わらなくてはならない。店内はずいぶんと明るくなった。大型の業務エアコンからはキリリと冷えた冷気が流れ出し、空気清浄機が饐えた匂いを除去している。古めかしいJBLのスピーカーは健在だが、真空管アンプもLPレコードプレーヤーも姿を消した。ピアノ曲がクリアなデジタルサウンドで流れている。明るいジャズ喫茶、と僕はつぶやく。

 それでも客はあまり入っていない。若い女の子がひとりだけ、一番隅のテーブルで壁に上半身をもたせかけながら文庫本のペエジを繰っている。空調が効きすぎて寒くなったのか、彼女はトートバックから黒いカーディガンを取り出してノースリーブのワンピースの肩に羽織った。それからしばらくして。キース・ジャレットが流れ出すと、彼女はカチリと銀製のライターで煙草に火を付け、目を瞑って聴き入った。シャープな横顔のシルエットが紫煙に揺れている。

 それを遠くから眺めながら、僕はちょっと救われた気分になる。今でもこうした若い女の子がいることにホッとする。群れずにたったひとり、読みたい本があって。煙草の吸い方が格好良くてキースが好きで、静かに自分の内面と向き合いながら「思案に暮れる」若い女の子が、今でもちゃんと存在していることに。

 Keith Jarret, My Song。この曲を初めて聴いたのは、僕が彼女と同じくらいの年頃だったろうか。