日本の映画監督の中で一番好きなのは、やはり行定勲監督。あのローキーで暗緑色がかった色味、光の滲む映像は病みつきになる。彼の手に掛かると、どんなロケ地でもまるで演劇の舞台のセットの如くメタファーに満ちた趣になる。三島由紀夫の「春の雪」、雫井脩介の「クローズド・ノート」、中谷まゆみの「今度は愛妻家」が特に印象に残っている。最近だと、去年の今頃映画化された島本理生の「ナラタージュ」の映像がとにかく美しかった。

 先日、久しぶりに原作の「ナラタージュ」を読み返してみた。もう十年以上前の作品である。葉山先生と工藤泉。ふたりの最後の合瀬の、あのあまりにも切ない性描写、みごとな筆致である。こんな文章を20歳そこそこで書けるなんて、やはり彼女は天才なのだろう。そして、この「ナラタージュ」、原作も映画も雨の描写が象徴的である。

 雨の午後は昼間と夕方の境界線が曖昧で、窓にはただ全体的に暗くなっていく一枚だけの景色が張り付いていた。

島本理生『ナラタージュ』(角川書店、2005年)


 ナラタージュ。ナレーションとモンタージュの造語。あるいは、過去を再現する手法。

 最近、ナラティブとかナレーション、そしてこのナラタージュといった言葉の響きがとても気になる。そこにこそ「物語」の一番大切なエッセンスが「滲んで」いるようで。