僕は一軒のカフェに住むことにした。もう少し正確に言えば、売りに出ていたカフェを買い取って、そのままそこに住むことにしたのだ。

 そのカフェは平屋の一戸建てで、ずいぶんと年期の入った木造の洋館である。おそらく築三十年は経っているだろう。屋根と玄関のドアはあるけれど、壁はない。もう少し正確に言えば、建物の側面には、白い木枠で囲まれた大きな窓ガラスが何枚も連続してはめ込まれているだけなのだ。これで構造的に大丈夫なんだろうか。……でもまあ、万が一地震が起きてもドアを開ければそこはもう広大な緑の中だし、家具に押しつぶされりしなければ死ぬこともないだろう。

 そのカフェは、町の南に広がる広大な森の入り口に建っていた。以前はけっこう繁盛していた店らしい。けれど、五年前にオーナーが亡くなり相続税が払えなくなった際に売りに出されたようである。「でも、それからずっと、買い手が付かないのです」と不動産屋は言った。建築規制がかかっていて建て替え不可の物件なのだ。と同時に公園法が改定されて(この森は東京都の公園に指定されている)、ここでの飲食業の営業ができなくなった。「つまりは、このままの状態で、しかも店舗としてではなく、ご自宅として使ってもらうしかないのです。もちろん、法令に反しない程度の内装の変更は可能ですけれど」と淡々とした口調で不動産屋は言った。そう説明すれば、この客もすぐに興味を失うだろうと思っていたにちがいない。

 「理想の物件です」と僕は言った。不動産屋は怪訝な顔をした。「そういうのが理想でしたから」「……はあ?」ずいぶんと酔狂な客だと思ったことだろう。建築条件付の物件ということでもともと価格も相場よりは安かったが、不動産屋はさらに値引きをしてくれた。

 このカフェで、僕はひとりで暮らしている。奥まったところにあるトイレとシャワーブース以外、空間全部がガラス張りのワンルームみたいなものである。アイランド型の厨房とその前のカウンターはそのままキッチンとして使い、二人がけのカフェテーブルと椅子のセットは、いろいろ組み合わせて、大きめのダイニングテーブルと、書き物机と読み物机(このふたつは僕は今までも明解に区分している)に誂えた。新しく買ったのはベッドとソファぐらいのものだ。備え付けの小さな書棚だけでは膨大な量の本は収まりきらず、それらは床のあちこちに平積みになって散乱している。

 ブラインドを付けたのはベッドを置いた一画だけだ。あとは全部外から丸見え。昔ながらの古風なガラスが嵌め込まれた窓から入ってくる光は、森の緑色に染まってキラキラ輝いている。その美しい景色を無粋なブラインドやカーテンで閉ざしてしまう気にはどうしてもなれなかったのだ。そして雨の日は、ガラスに付いたたくさんの水滴が不思議な文様をつくる。天井に開いた三つの穴から雨漏りがするけれど、そこに大きめの陶製のカップを置けば、ポチャン、ポチャンと柔らかなリズムを打ってくれる。

 五年以上誰も住んでいなかった建物だが、窓を開け放せばすぐに黴臭い臭気もなくなる。それどころか、時折ふっと甘い香りがする時がある。森に咲き始めた薔薇の香りが外から紛れ込んでくるのか、あるいは、飴色のカフェテーブルにいつかのだれかの匂いが滲んで残っているのか。

 夜になれば、月が出てない日でも、森の所々に置かれた街灯が柔らかなぼんぼりとなって光っている。そのお返しにと、僕はイルミネーションの豆電球のスイッチを入れる。入り口のドアの前に季節外れの樅の木を置いて、それを電飾で飾ったのだ。

illuminated

Summicron-C 40mm f2 + GXR

 それを合図に毎晩僕はベッドに入る。森の中にいろいろな生き物たちがうごめいている。彼らの声と気配に包まれながら、僕はここで、規則正しく静かににこやかに生活を続けていく。

 喜び過ぎず悲しみ過ぎず テンポ正しく 本なら熟読 人には丁寧
 わたしは なんにも腹が立たない

 うろ覚えのナカハラチュウヤの詩を所々はしょって口ずさみながら、僕はここで、規則正しく静かににこやかに生活を続けていく。