作家が書く小説や随筆は名作コピーの宝庫だと思う。その中でも、なんといっても秀逸なのは太宰治。『斜陽』に出てくる例の、

 恋、と書いたら、あと、書けなくなった。

 句読点の打ち方といい、これはもう絶品である。でも、これと双璧なのが、

 早く『昔』になれば好い。

 普通の言葉を使いつつ組み合わせの意外性でドキリとさせる。コピーライティングの王道。そして、太宰に勝るとも劣らない情緒を醸し出している。

 書いたのは竹久夢二。大正ロマンの有名な画家であるが、詩人でもある。夢二画集には春夏秋冬の4つがあるが、その中の「夏の巻」にその言葉は綴られている。

夏の巻


 僕は、淡暗い蔵の二階で、白縫物語や枕草子に耽つて、平安朝のみやびやかな宮庭生活や、春の夜の夢のよふな、江戸時代の幸福な青年少女を夢みてゐたのだ。あゝ、早く『昔』になれば好いと思つた。
 
竹下夢二 『夢二画集 夏の巻』より


 亡くなられた作家・演出家の久世光彦さんが夢二が大好きでこの言葉をそのままタイトルにした小説を書いているが、改めて、

 あゝ、早く『昔』になれば好いと思つた。

 これ、ほんとうに一番ゼイタクな心情だと思う。早く未来なんか来て欲しくもなんともないけれど、早く昔が来てくれたら。……これほど胸ときめく言葉は他にないのではないだろうか。改めて、春の夜にそんなことを思う。