桜も見納め。でもこれからが春爛漫。海棠、花桃、連翹、躑躅と春の花が咲き誇る。春はいとし。でも、春は、、

春は修羅

GR 18.3mm f2.8 of GRⅡ


 春霞の景色を眺めていると、取り返しの付かないことばかりを思い出す。けれど、その過去は本当にたったひとつの過去なのか。

 宮沢賢治の有名な「春と修羅」。

 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといつしよに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 これらは二十二箇月の 
 過去とかんずる方角から
 紙と鉱質インクをつらね 
 (すべてわたくしと明滅し みんなが同時に感ずるもの)
 ここまでたもちつゞけられた
 かげとひかりのひとくさりづつ
 そのとほりの心象スケツチです

 昔からずっと、この「過去とかんずる方角」というフレーズが気になってしかたがない。過去などというものは無限にある時間の流れの中の、たんなるひとつの方角に過ぎない。……そんなふうに受け取れる。

 でも、この方角がやっかいなのである。年をとると、自分自身はまだまだ何も変わらぬと思い込めていても、自分のまわりの人々が確実に、ある人は死に、ある人は衰え、また別のある人は心を隔てて離れてゆく。そうした彼ら彼女らの、かつての想いを掬い取ろうと思ってみてももはや手遅れになる。それをまざまざと思い知らされるのが春である。そうして改めて思うのだ。この世界の中で「わたくしといふ現象」はいったいなんなのかと。なんだったのかと。

 春と修羅。そして、春は修羅。