直木賞を受賞した門井慶喜さんの「銀河鉄道の父」、遅ればせながら読了。

銀河鉄道

 かの宮沢賢治は、なるほど、こんな家庭環境で育ったのかと合点がいったり、あるいは彼の意外な一面を見たり。そして、政次郎が娘と息子の死に立ち会う時、「これから、おまえの遺言を書き取る。言い置くことがあるなら言いなさい」……親より先に旅立つ子供に対してこう告げる父親の心情を思うと涙が止まらなくなった。

 全編興味深く読ませていただいた。そして、所々で門井さんご自身の人生哲学的な示唆がキリリと光っていた。例えば、賢治が質屋の跡取りとして客の相手をするのが苦手で、部屋でひとり本を黙読している場面での描写。

 何しろ相手は活字である。けっして怒らないし、どなりちらさないし、嘘をつかないし、ごまかさないし、こっちを混乱させるために故意にわけのわからないことを言ったりしない。こっちから一方的に中断したとしても抗議しない。或る意味、そこにあるには、主人と使用人の関係なのだ。そういう対話にあんまり慣れすぎてしまったら、人間というのは、こんどは生身の人との対話が苦痛になるのではないか。

 人と人との対話。……それはコミュニケーションの華である。相手にユーモアのセンスがあればこれほど楽しい時間はない。でも、時にそれは、嘘と皮肉と悪意に満ちたものにもなる。なぜならば、人はけっきょくのところ、自分が今まさに抱いている感情をベースにしたコミュニケーションしかできないからだ。さすれば、対話のコンテンツは相対性を失い、俯瞰でものごとが見れなくなる。「相手の気持ちになって」とはよく言われることだが、それよりもなによりも「自分の個人的な感情からニュートラルになって」対話することが、我々人間にはいかに困難であることか。

 そうしたコミュニケーションが続いて、心がホトホト疲れ切った時、我々は「本」の世界の中に逃げ込む。人間嫌いに陥りそうになる自分を、今まで何十回何百回、たくさんの「活字」たちが網膜の中で慰めてくれたことだろう。