今年のヴェネチアビエンナーレは素晴らしかった。アルセナーレのイタリア館で展示されていた「キリストのイミテーション」やジャルディーノのロシア館が特に秀逸。そして、ビエンナーレ本体とは一線を画している形を取っているが、グラッシー宮とプンタ宮で開催されているダミアン・ハースト展には圧倒された。これは大がかりな美術界のフェイクニュースである。SNS全盛時代のモダンアートはどうあるべきか?…賛否両論だとは思うが、この確信犯的広告手法はアッパレである。難破船から発掘された云々の設定も、ここヴェネチアで開催されてこそのシズル感がある。

 滞在中、宿はフェニーチェ劇場界隈の、かつて須賀敦子さんが定宿のひとつとされていたと思われるホテルの予約が取れた。数年前に泊まったときは、まだこの「ヴェネチアの宿」に書かれている描写通りの風景だったのだけれど…

 宿はフェニーチェ劇場の広場に面しているのだから、わからなくなれば劇場への道をたずねればいい。そうは思ってもひとりになると、はたしてうまくホテルに帰りつけるかどうか、にわかに自信はうすらいだ。二番目、と思われた路地を、パン屑をたよりに歩いたヘンゼルとグレーテルのように、両側の店の看板をたしかめながら曲ってはみたけれど、夕方見ておいたのとは、なにかすっかりあたりの様子が違ってみえて、心細くなりはじめたちょうどそのとき、行手に見おぼえのある橋がみえた。どこにでもある小さな石橋。それを渡ってまっすぐのせせこましい通路の家と家のあいだに、なんのしるしなのか、空色のネオンがぼんやりと光っているのが、またまた夕方見た道の印象とかけはなれてみえた。近づくと、それはさしわたし一メートルほどの、だれかが学校の工作の時間につくったのではないかと思えるほど初歩的な星のかたちをしたネオン・サインで、太い針金で道の両側の建物から宙ぶらりんに吊してある。その星形のまんなかには、これも幼稚なレモン色の、変にぐにゃぐにゃしたネオンの文字と矢じるしで、レストランはこちら、とある。

看板

 宿は劇場とのあいだの細い道路をへだてたところにあって、名もラ・フェニーチェと劇場の名そのままである。鍵をもらって、入りくんだ廊下をまわり、汽船の内部のように磨きあげられた木の階段を五階まで登る。部屋はいかにも海の街ヴェネツィアらしい船室ふうのつくりで、そんなデザインが、天井が傾斜して梁材が大きく出た屋根裏の空間にぴったりだった。

階段

 今回、久しぶりに泊まってみたら部屋の内装が全面改装。清潔な白壁で統一されている。で、なぜだか部屋のドアにクリムトの「接吻」の絵がプリントされていて(ウィーンのヴェルヴェデーレで見るべきものをどうしてここヴェネチアで?)かつての重厚なヴェネチアらしい内装が失われてしまったのが残念だった。でもまあ、お湯の出もいいしベッドも広いし、場所の割には値段の設定もリーゾナブルだし、界隈の雰囲気は昔のままだし。
 
 このフェニーチェ劇場界隈、ヴェネチア本島の中では一番好きなエリアである。サンマルコに近い割には静かだし、アカデミア橋にもザッテレにも歩いてすぐ。サンマルコの裏から狭い路地をつづれ折れに歩いていって、フェニーチェ劇場がふいに現れる瞬間はいつ訪れても心トキメク瞬間である。フェニーチェ。不死鳥。1996年に起きた火災からもこの劇場は見事に復活したのである。

フェニーチェ劇場

Summilux 35mm f1.4 2nd + α7s