そのひとは、古めかしい三階建てのビルの一室で、たくさんの本に囲まれて暮らしている。ここは、時代に取り残された小さな文学館である。ここで、そのひとは、毎日朝の九時から夕方の五時半まで受付に座って、たまにやってくる観光客相手に郷土の作家についていろいろ説明をしたり、地元の老若男女の人たちと小声で世間話をしたり、そして、他に誰も居ない時(ほとんどの時間帯がそうだ)には、ずっとひとりで本を読み続けている。読書用の眼鏡を鼻先にズラしながら。
 館内にはスクリャービンのピアノ曲が流れている。モダンなのかクラシックなのか、抽象派なのか大仰なロマン派なのかよくわからないロシアの作曲家。そういうのが彼女の好みなのだろう。

 彼女は、決して、自分で文章を書いたりすることはない。朗読することもない。ただ毎日、好きな作家の言葉を目で追い、その言葉にさまざまな感情を喚起させられ、それが心の襞の中に大切に保存されていくばかり。

 ここは、北国の港町である。夏も冬も、街中の空の至るところにたくさんのカモメが飛んでいる。そして、カモメたちはひとの悲鳴にも似た甲高い声でいつまでも鳴いている。

司書

Summilux 35mm f1.4 2nd + M9-P