アパアトの一階のその部屋の前を通りかかる時、いつも、ふわりとその匂いがする。甘くフローラルな匂いだ。ちょっと古風な匂い。でもどことなく安っぽい香料みたいな。その部屋の南西に面した窓の奥には、夜、オレンジ色の明かりが付いている時もあれば、夏の強い日射しでギラギラしている真昼間、ひっそりと真っ暗なままの時もある。けれども、いつだってその部屋の前を通りかかる時、ふわりとその匂いは漂ってくる。それは、ここに住んでいるひとが浴室で使っているシャンプーやボディソープの匂いかもしれない。洗濯機に入れている柔軟剤の匂いかもしれない。あるいはそのひとが付けている香水の匂いかもしれない。あるいは、…

 甘くてどこか饐えたようなその匂いは、ずっと昔の古い記憶に私を誘う。あるいは、未来の何処かに潜んでいるもうひとつの日常生活に私を誘う。空は青くて雲はピンク色だ。公園の緑は謎めいて、人間たちは小さな森の中でひっそりと静かに暮らしている。その何処かに私のラシーヌが、今も息を潜めて待っている。

森

Zunow 13mm f1.1 + Q-S1