これから「表現する」ことを目指していく人に対して、私は折に触れ、「言語隠蔽」(げんごいんぺい)について話すことにしている。言葉で表現することの素晴らしさについて。と同時に、それと表裏一体の危うさについて。自分のクオリア(感覚質)が表現したいと欲求しているもの、そのすべてをホリスティックに言語化することは、残念ながら我々にはできない。言語化された瞬間、抜け落ち忘れ去られていくもの。それらの中にこそ本質的な何かがあったと直観することは、アイデアを考えることを生業にする人ならば誰でもが経験済みのことであろう。

 そのことを、ヴィトゲンシュタインは「語り得ないことについては人は沈黙せねばならない」と言ったのだ。

 言葉よりは、写真や絵画や音楽や映像の方が、抜け落ちてしまいそうな本質的なものを掬い上げることに長けている気がする。それらのメディアの方が、生命体の揺らぎのようなものを複雑系のまま担保しやすいからだ。でも、例えば、原作を映像化した映画の場合には、作者である監督は、原作者よりももっと意図的に言語&映像隠蔽を施すことが出来るようになるのではないだろうか。映像は言語よりも格段にリッチな情報媒体である。ゆえに言語の余白部分にさえも明確な輪郭付けを施すことが可能になってくる。

 表現するということは、表現されるということは、作り手と受け手の化かし合いである。そのことを肝に銘じて「表現する」こと。どこまでを意図的にするのか、どこまでを無意識のフィールドに残すのか。その匙加減こそが作品のクオリティを決めるポイントのような気がする。

 そんなことを、私は折に触れ、これから「表現する」ことを目指していく人に対して話すことにしている。あるいは、自分も表現者の端くれとして、いつもこのことを考えるようにしている。


廃屋

P.Angenieux 25mm f0.95 + E-P5