目黒の庭園美術館にクリスチャン・ボルタンスキー展を見に行った。

 ボルタンスキー。ユダヤ系フランス人。大好きな現代美術家のひとりである。豊島にある「心臓音のアーカイブ」、新潟十日町キナーレの中庭で展示されていた「No Man’s Land」のファンである。

 今回の展示は過去の作品の再構成ものがほとんどだったが、展覧会のタイトルにもなっている「まなざしの森」と「アニミタス」には圧倒された。庭園美術館の新館に入るとなにやらいつもとは違う匂いが充満している。インスタレーション会場の床に麦藁が敷き詰められてけっこう強烈な匂いを放っているのだ。そこに両面背中合わせのビデオプロジェクター。映し出されているのはどちらも風にそよぐたくさんの風鈴。しかし、このふたつの情景、意味性がまるで違う。「まなざしの森」の方は昨年豊島に設置されたもので、豊島を訪れる人は30分ぐらいの時間をかけて森の中に入っていき、短冊に自分の願いを込めそれを風鈴に結びつけて帰って行く。人と風景の間にインタラクティビティを感じられる作品。それに対してもうひとつの「アニミタス」の方は、人が訪れることもないパタゴニアの秘境の高原に置かれた風鈴たち。高度4000メートルとも言われる場所に置かれたこのインスタレーション、おそらくはそこを訪れる人もなく、ただ朽ちていくに任せられている。そのことを知った上で見つめる約12分間のビデオ。

ボルタンスキー

 「まなざしの森」と「アニミタス」、どちらも「巡礼の地」がテーマなのだと思うが、特に「アニミタス」には体の奥底が震えるような感銘を受けた。インタビュー映像の中でボルタンスキー自身も語っているが、巡礼とは「その場所に行かなくても、その場所を知っているということが重要」であり、「それがあることが物語になる」ということ。「言い伝えは芸術そのものよりも強い」。

 職業柄、日頃から「ストーリーテリングとはなにか?」「ナラティブとはなにか?」ということを問い続けている自分にとって、ボルタンスキーのこの言葉はかなり明解な回答となった気がする。
 
 最近、「デジタルテクノロジーを使った新しい体験デザイン」とか「体感型コミュニケーション」とか、あちらこちらでそうした言葉が頻繁に使われるようになり、まあ、それはそれで、これからのリアルとヴァーチャルが完全にシームレス化していく時代のひとつの象徴的なテーマなのかなあと思っているが、でも心の奥底でなんだか違和感を感じていた理由も、今回の展覧会を見てわかってきたような気がする。物語を創り出すのに、実際のリアルな体験はマストではないのだ。逆に体験できないことの方が、でも、それを伝承させそれを希求させることの方が、人々の心の中にナラティブなストーリーをより強く生み出すことが、できる。