実は、リアルという言葉がキライなのである。広告クリエイティブの講義なんかで「イマドキの広告はリアリティこそが命です!」なーんて言ったりしているけど、昔からリアルな写実派がキライなのである。絵画にしても写真にしてもブンガクにしても。(ちなみに私小説というのはリアルではありません。よってキライではありません)

 リアルってなんだか暑苦しいなあ、でも、それってどうしてなんだろうとずっと思っていたが、この件についても「まなざしの記憶」のあとがきで著者の鷲田さんが鮮やかに説明してくれていた。植田正治さんの写真についての批評の一節である。

 ほんとうは観念的な強迫でしかない「リアリズム」を遠ざけ、リアルなものへのべたつきをも排した植田さんの手法とは、リアルなもののただなかに息づくほんとうの「普遍」を抽出しようとするものであろう。

 そうなのだ。リアリズムの方こそ観念的なのである。しかもそれを強要するのである。一見すると概念的に見えるであろうはずの植田さんの写真や、キリコやデルフォーやマグリットが描く形而上学的な絵画の方が、実はずっとずっと軽やかで伸びやかで自由で普遍的なのである。ああ、ようやくスッキリした。今まで自分が本能的に好きだったものたちに共通するその理由がはっきりとわかってきた。ありがとうございます、鷲田先生。

white trees

Summaron 35mm f2.8 L + M8 + Infrared filter