寒色が好きである。一番好きな色はブルー。それも明度の低い濃紺系。そういう色を選ぶ人って実はコンサバなのよね、と言われたりする。ま、それはどうだかわからないが、仕事で寒色系のアートディレクションを多用すると、冷たい感じがする、暗すぎる、寂しすぎる、もっと明るい色を使ってくださいとみんなから言われる。でも、正直言って、この「寒色=暗い=寂しい」という方程式がよくわからない。自分の中では「寒色=けっこう激しい色」だからである。で、こっそりそんなことを呟いてみたりすると、みんな「はあ?」って感じで、誰ひとり「わかるわぁ」と言ってはくれない。なんでアンタ、茄子紺で気分がアップするわけ?

 私の言いたかったことを代弁してくれる文章をようやく見つけた。江國香織さんの「日のあたる白い壁」の中の一節。ちなみにこの本、世の中に美術史家以外の方が書いた美術評論は数多あれど、これほど視点が斬新で感受性に富んだ評論は他に読んだことがない。さすが、江國香織さん。

日のあたる白い壁

 で、問題の箇所はゴッホの青を論じたところで、有名な「夜のカフェテラス」に描かれたゴッホのブルーについて江國さんはこう述べている。

 私自身は、ゴッホの青が好きだ。青というより紺なのだが、あれほど深くつめたく澄んだ青は他にない。落ち着くし、高揚する。落ち着くと高揚するは一見矛盾するようだが、それは言葉の記号性による誤解にすぎない。高揚するというのは精神が研ぎ澄まされることであり、そのことと落ち着くとは、不可分だ。

 私が言いたかったのは、まさにこういうことなのである。あー、スッキリした。

 それにしても。…言葉の記号性による誤解。…言葉のコミュニケーションを生業とするものとして、このことは常に肝に銘じておくべきことだと改めて思う。