最近、寺社や教会に行くと、必ず何十秒かじっと手を合わせてお祈りをするようになった。そんなの当たり前のことなんだろうけど、恥ずかしながら今まではそうではなかった。教会に行けばキリストやマリアの、お寺に行けば仏像の鑑賞ばかりに興味があって、信心などは正直言ってほとんどなかったように思う。それがここ数年で変わった。母親を亡くして以降のことだと思う。というよりも、両親とも亡くして、もはやこの世に頼りにすべき人がいなくなってからのことだと思う。たぶん、信心というのはそういうことなのだ。現世に誰も頼れる人がいなくなり、すべてを自分ひとりで決断し解決しなくてはならなくなった時、人はなにかに縋りたくなったりするものではないだろうか。

 昨日は亡父の19回目の命日。近頃、C型肝炎の特効薬も出来たと聞く。それが間に合っていれば父親は71歳で死なずに済んだのかもしれぬ。生きていれば今年の五月に91歳の誕生日だって迎えられたかもしれぬ。

 小さい頃、車でいろんなところに連れて行ってくれた父親だった。昔のアルバムをめくると、谷汲山、多賀神社、横蔵寺、少し遠出して郡上八幡、飛騨高山、あるいは福井の三方五湖、あるいは奈良のドリームランドなどの地名がメモされている。母親の筆跡だ。父親が使っていた写真機はたぶんペンタックスのSP。

father

 この写真は、父親が42歳、私が5歳の時のものだ。父親はなかなかのハンサムだ。少なくとも息子の私が42歳だった頃より断然格好いい。スキーにゴルフ、スポーツ万能だったし。昭和40年代の地方都市で外車を乗り回すなかなかの洒落者だった。長年身ひとつで我々家族を支え続けてくれた父親。そして子供たちの将来の可能性をいつも第一に考えてくれた父親。…合掌。