「なんていうかなぁ、若いころのね、つまんない夢だの欲望だのが、ある日、ふっと消えちまうわけです」「消える?」「そう。つまりね、おのれが少し分かっちゃうってことなんです。でね、おのれが分かってしまった瞬間、おのれが消えてしまうわけで」「…」「いや、オノレ・シュブラックのことですよ。先生知ってます?」(中略)「…で、このオノレがね、あることがきっかけになって、まるでカメレオンのように壁に同化してしまう術を覚えるんです。擬態というやつです。ね?そうすることでこの世から自在に姿を消してしまえるんです。誰にも彼の姿は見えません。でもね、実際に消えてしまったわけじゃないんですよ。オノレはオノレでないものに同化しただけのこと。つまり、オノレは世界の側に同化したってわけです」「世界の側?」「(中略)…本当にオノレを見極めたかったら、世界の側に立って、外側からオノレを見ることです。ね?そうして、わたしたちはしだいに若いときのとげとげした輪郭を失ってゆくんです」

「私の場合」と、あるじが声を大きくし、「世界を知るほど、オノレが愛おしくなりましたよ。なんとかオノレをオノレのまま逃がしてやれないものかと」
「つむじ風食堂の夜」(吉田篤弘著)ちくま文庫


オノレ

「オノレ・シュブラックの失踪」 ギョーム・アポリネール
ちくま文学の森3 変身ものがたり ちくま文庫