2026年03月
朝の光
菜の花
池畔の桜
月と桜
レンギョウとサクラ
明治通り
下書きの人生
40年ぐらい前に書いた短編小説の原稿が、古いパソコンのハードディスクの片隅に保存されていた。おそらく当時はフロッピーディスクのついたワードプロセッサーなるもので書いて、それを90年代にMacのEGWordあたりのソフトにデータ変換したものだと推察される。足繁く京都に通い、チェーホフばかり読んでいた頃の文章である。
今のこの状況が現実ならば、その後のこと、東京を離れ京都に移って、Mさんのことを想い起こしていた未来(?)のことはすべて夢だったということになる。そして反対に、もしその未来こそが現実ならば、今は夢の続きということになる。でも、どちらも夢だと割り切るには余りにリアルで、理性的な判断は下せそうにもない。両方ともが現実……それが正直な感覚だ。でも、そんなこと、常識ではあり得ない話。しかし、「二百年、三百年たったら地上の生活は想像もできぬくらいすばらしい、驚くようなものになるでしょう」とチェーホフの『三人姉妹』のなかでヴェルシーニン中佐は言っている。我々は「それを予感し、待望し、夢想し、その準備をしなければならない」と言っている。だったら、そうした「驚くようなもの」の断片が今の地上の生活のどこかに紛れ込んでいたとしても不思議ではないのかもしれない。……両方ともが現実なんだと僕は思う。でも、ひょっとして……今は僕にとって二度目の人生なのではないだろうか、という考えがふと頭に浮かんだ。ヴェルシーニンの願いが実現したのだ。一度目の過ぎてしまった人生はいわば下書きで、僕は二度目の清書する人生を今始めたばかり。だとしたら僕は今のこの地上で一番恵まれた人間なのではないだろうか。僕は今度こそ今までとは違った違った生活をつくる。花や光のあふれたMさんとの生活を。
十和野葵『下書きの人生』より


Summilux 35mm f1.4 2nd + M9-P
『私の生活にはこういう花こそが欠けていたのですよ。私はよくこんなふうに考えるのです。もしも人生を初めから、それも自覚的にやりなおせたらなあって。過ぎてしまった人生はいわば下書きで、もうひとつほかに清書する人生があればって。そうすれば誰だって何はともあれ自分のたどってきた道を繰り返すまいとするでしょうね。少なくとも自分のために違った生活環境をつくりだすでしょう。こんなふうに花や光のあふれた住まいをね。……』(チェーホフ『三人姉妹』より)









