この年末はエマヌエーレ・コッチャの『メタモルフォーゼの哲学』を読み耽っている。哲学書なのでもちろん難解な箇所も多々あるが、詩的な文章があちこちに散りばめられていて飽きることがない。(結果、多分に神秘主義的に感じてしまうこともあるのだけれど)
ここ数ヶ月、無謀にも専門の広告表現のみならず、文学やアートの分野まで横断して、いわゆるポスト・ヒューマニズムの表現について論考する研究ノートと格闘しているのだけれど、その礎となる思想・哲学として、ガタリ(『三つのエコロジー』)やマトゥラーナとヴァレラの「オートポイエーシス理論」、あるいはハーマンの「オブジェクト指向存在論」、そしてモートンの『自然なきエコロジー』などを読み重ねているが、そうした中で、もっとも感覚的にしっくりというか、すっきりと入ってきたのがコッチャの『植物の生の哲学』だった。ので、現在、次作の『メタモルフォーゼの哲学』へと読み進んでいるわけである。なかでも「食事とメタモルフォーゼ」の章が特に感慨深かった。
食べることが意味するのは、物質を自分の身体へ注入すること、成分とエネルギーを飲み込むことではない。食べることは、他者の生を自分の身体に注入することを意味している。
生理学的な必要よりは、はるかに錬金術的な秘儀に類似したこの奇妙な作業
栄養補給はたんに否定的な状態(生き延びる可能性を作り出すための栄養や能力が欠けていること)の帰結だとみなされることはできず、別の種を経由することで他者に出会い、別のものになる必然性を表している。
エマヌエーレ・コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』(松葉類・宇佐美達朗 訳、勁草書房、2022年)
それぞれ p.97,p.96,p101 より引用
それぞれ p.97,p.96,p101 より引用
本日、年越しのための滋養を付けるべく、自然薯を一本を買って(大和芋ではない)とろろ蕎麦を食べたが、これを読んでいたら、なにやら体全体が ”変態” しつつある気がしてきた!(生育の過程で形態が変わる方の ”変態” です、念のため)








