最近、中島敦がなんだかまた無性に恋しくなって、久しぶりに横浜山手を歩くことにした。彼が勤めていた横浜高等女学校のあった元町幼稚園の碑文を眺め、喜久家の二階を仰ぎ、墓地公開中の外人墓地の、スイドモア氏の墓碑隣に建つ歌碑を確かめる。


Nokton 35mm f1.4 Ⅱ SC + M9
中島敦を最初に読んだのは中学三年生の時。例に漏れず『かめれおん日記』だった。それから『山月記』『李陵』『光と風と夢』と読み進み、あっという間に全集に所収されていた作品のほとんどを読んでしまった。中島敦は33歳で亡くなっている。寡作の作家である。
戦前の作家、早逝の作家と聞くと自意識たっぷりの私小説風の作風を想像するが(それはそれで嫌いではないのだけれど)、中島作品はそうした時代の雰囲気を鮮やかにヌケている。たしかに「かめれおん日記」も私小説的な構成になってはいるものの、かめれおんの飼育に絡めているところはポストヒューマンセントリックである。
『狐憑』もそう。主人公のシャクはいろんな動物に取り憑かれる。
今までにも憑きもののした男や女はあったが、こんなに種々雑多なものが一人の人間にのり移った例はない。ある時は、この部落の下の湖を泳ぎ廻る鯉がシャクの口を仮りて、鱗族達の生活の悲しさと楽しさを語った。ある時は、トオラス山の隼が、湖と草原と山脈と、またその向うの鏡のごとき湖との雄大な眺望について語った。草原の牝狼が、白けた冬の月の下で飢に悩みながら一晩中凍てた土の上を歩き廻る辛さを語ることもある。
そして、中島作品がなによりも魅力的なのは、南洋の島々や、古代中国から古代エジプトやアッシリアまでと飛翔する彼の博識とそれを拡張する想像力である。昭和15年から17年にかけてのあの時期の日本で、どうやってこんなにも自在に時空を越えてゆけたのだろうか。
そんな中島敦の小説の中で、繰り返して語られるテーマが文字の功罪。アッシリアの図書館を題材にした『文字禍』では、
いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、そうしても解らなくなって来る。
これなんぞはゲシュタルト崩壊そのもの。
魂によって統べるられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのではなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味を有つことが出来ようか。
文字の無かった昔、ビル・ナピシュチムの洪水以前には、喜びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。
老博士は浅薄な合理主義を一種の病と考えた。そして、その病をはやらせたものは、疑もなく、文字の精霊である。
君やわしらが、文字を使って書きものをしとるなどと思ったら大間違い。わしらこそ彼等文字の精霊にこき使われる下僕じゃ。
人間の身体を見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪な形をした部分部分に分析されてしまう。(中略)眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。
『悟浄出世』にも同じような指摘が描かれている。
生きておる智慧が、そんな文字などという死物で書留められる訳がない。それは、煙をその形のままに手で執えようとするにも似た愚しさであると、一般に信じられておった。従って、文字を解することは、かえって生命力衰退の徴候として斥けられた。
最近、強い文脈で書かれた言葉を目の当たりにすると引いてしまう。ストーリーテリングよりもストーリーウィービング。書き言葉よりも話し言葉。程度の差こそあれ、コトバに対して悲喜こもごも対峙し続けたことのある者ならばかならず行き着く(というか戻り来る)はずのこのことを、戦時下の日本においてズバリと示唆している中島敦が、今ふたたび、なんとも無性に恋しくて仕方がないのである。
*引用はすべて、中島敦『ちくま日本文学全集 中島敦』(筑摩書房、1992年)による
『狐憑』は p.172 『文字禍』は順に p.192、p.193、p.195、p.197、p.200、p.201『悟浄出世』は p.367より
『狐憑』は p.172 『文字禍』は順に p.192、p.193、p.195、p.197、p.200、p.201『悟浄出世』は p.367より










