早いもので、義父が亡くなってはや半年以上が経過した。遺影に手を合わせながら、この写真を選んだ去年の初夏のことを思い出す。柔らかな表情の写真がなかなかなくて、唯一見つけたのがこの一枚だった。実の父親や母親の時もそうだったが、いちおう写真はセミプロのつもりなので、遺影をどれにするのかどのように加工するのかを葬儀屋さん任せにすることはない。すべて自分でトリミングし若干の修正を入れ、そして、背景を抜く。それを普段通り他の写真と同じように淡々とやろうとするのだが、遺影の場合は簡単にはいかない。その理由が今ひとつ分からないでいたが、先日、平野啓一郎さんの『空白を満たしなさい』を読み直していて、なるほどと思った。遺影から背景を取り除く行為はやはりちょっと特別なのだ。
「遺影も背景を消しちゃうからね。だから、亡くなってすぐに見つめることが出来るのかな。もうこの世にいない人って、わかるから。……背景が無いから、誰にとっても自分との分人に見えるのかな?……」
平野啓一郎『空白を満たしなさい』(下)(講談社文庫)p.212
写真館で撮影する場合は別として、通常、写真というのは誰かとその特有のシチュエーションのもとで撮られるもの。それを、すべての遺族にとってニュートラルなものへと抽象化させるために加工するのだから、難しいのも当然かもしれない。
改めて、合掌。