naotoiwa's essays and photos

2022年10月



 仕事で成城まで行ったので、ちょいと懐かしくなってお茶屋坂へ。この坂を登ったところに、昔々のテレビドラマ「雑居時代」の舞台となった栗山邸があった。このあたりは野川沿いの湧水地、国分寺崖線の一部である。

お茶屋坂

XF 16mm f2.8 + X-T30II +Color Efex Pro

 懐かしさついでに駅の北側の増田屋でお昼を食べることに。こちらもドラマの中で登場した店。今でもほとんど建物の外部も内部も変わらない。さあて何を食べようか。やはり基本のもりそば? ドラマでも石立鉄男さんが大坂志郎さんと向き合ってここでもりそばを食べていたシーンがあったと記憶しているが、あの大原麗子さんの名セリフ「また天丼食べに行きましょ」を思い出し、昼間っから天丼を注文してしまった。

増田屋

XF 35mm f1.4 + X-T30II +Color Efex Pro

「雑居時代」が放映されたのは1974年、中学一年生の時である。思えばあの頃からずっと憧れの女性像は変わっていないのかもしれない。文学少女なのに家庭的で、おまけにキップのいい姉御肌。そんな年上の女性に、ハスキーな低い甘い声で「また天丼食べに行きましょ」と言われたら…。そんな幻想を中学生の頃何度脳裏に浮かべたことだろう。

 大原麗子さんも石立鉄男さんも亡くなって既に十余年が過ぎている。


good night

Sonnar 13.5cm f4 (c mount black/nickel, pre war) + M10-P


 good night, dearest.




 人生100年時代。日本人の平均寿命は男性でも80歳を超えている。でも、いくら長生きしたって人に迷惑をかけるのでは意味がない。ということで、最近は平均寿命よりも健康寿命と言われることも多い。となると年齢がグッと下がって男性だと70歳ちょっと。なんだ、あと十年もないじゃないか、亡父が亡くなったのも71歳だし…と「死」はあっという間に身近なものとなる。

 では、まずはその健康寿命とやらを引き伸ばそう。何人かの人に、テニスは健康寿命を延ばすのに最適なスポーツなんだよと言われたことがある。シメシメ、もうかれこれ20年ぐらい毎週テニスクラブに通っている。テニスってけっこう特殊な部位の筋肉を酷使するし、健康スポーツってイメージがいまひとつ湧かないのだけれど、たしかに全身運動だしアタマも使うから認知症になりにくいのかも。

 60歳を過ぎて、いよいよいろんなことを考えなくてはいけなくなってきた。正真正銘の下り坂である。人に迷惑をかけることなく健康寿命を維持するのはもちろんのこと、もうひとつ、いやそれ以上に「寿命」の基準として自分が大切に思っていることがある。それは「演劇的生活寿命」とでも言えばいいのだろうか。毎日をただ単に日常生活の繰り返しだけに終わらないための人生の時間があとどれだけ残されているかということである。

 70歳になっても80歳になっても(ものすごく上手くいったら90歳になっても)、毎日毎日前頭葉に新たな想念が湧き、いたずらっ子のように企んで、家族や仲の良い友人たちとチャーミングな嘘をつき合える、そんな老人に私はなりたい。そのためには、まだまだ読むべき本は無尽蔵にあるし、訪れるべきリアルな場所も尽きることはない。

flower

Sonnar 5cm f1,5 (c mount black/nickel/chrome, pre war) + M10-P




 先月、館山の布良に行ってきた。敬愛する日本の近代画家、青木繁が坂本繁二郎、森田恒友、福田たねとともにかの《海の幸》を描いた場所である。当時彼らが逗留した小谷家の建物がそのまま残っていて、現在は青木繁「海の幸」記念館になっている。当主の方から大変興味深いお話を伺うことが出来た。例えば、《海の幸》の下絵では漁師たちが女性の着物を着ている姿が描かれているが、これはすぐ隣の布良崎神社の夏の祭礼で神輿をかつぐ際に女装をする習わしがあって、それを青木繁らが見ていたからではないかとか、青木繁が魚類について故郷の友人に宛てた手紙の中で詳しく言及しているのは、農商務省水産局から寄贈された貴重な「日本重要水産動植物之図」が当時小谷家に飾ってあったからだとか。

布良崎神社


 記念館を出て、《海の幸》の舞台となった阿由戸の浜へ下りていく。ここは天富命(あめのとみのみこと)が阿波の忌部一族とともに上陸した場所とされている。男神山、女神山が海岸から連なっている。まさに神話の里である。当時は東京からこの布良にやってくるためには現在の新川あたりにあった霊岸島から船に乗っての長旅だったと聞く。現在はアクアラインを使えば東京湾を横断して陸路だけで辿り着くことが出来るが、それでもバスで2時間半かかる。

阿由戸の浜

男神山と女神山


 さて、青木繁の代表作のひとつ《わだつみのいろこの宮》などを見ても、彼がいかに十九世紀末の欧米の美術を研究していたかがよく分かる。アーティゾン美術館で10月16日まで開催されていた「生誕140年 ふたつの旅 青木繁×坂本繁二郎」で青木繁の描いた旧約聖書物語の挿絵を見て、まさに日本のギュスターブ・モローだと実感した。美術史学、美術評論の第一人者で東京大学名誉教授、現大原美術館長の高階秀爾先生も、竹久夢二との関連性も含めて以下のように述べている。

 今では日本における世紀末芸術の代表的画家として、青木繁、藤島武二、竹久夢二という系譜を考えることができるのではないかということが私の意見である。(中略)そのなかで特に上に引いた三人を日本の世紀末芸術の代表者として挙げたのは、この三人の画業が特に優れて特徴的だと言うことのほかに、この三人には、気質的に十九世紀末の芸術家たちと深くあい通ずるところがあるからである。少なくとも青木繁と竹久夢二の場合は、それは明らかである

高階秀爾「世紀末の画家 『竹久夢二』」『三彩増刊 竹久夢二』(三彩社、昭和四十四年)に所収。pp.56-59


 その青木繁が日本人のルーツとしての神話世界を古事記に求めたのである。その場所のひとつがここ、布良の阿由戸の浜である。

all photos taken by Summilux 35mm f1.4 2nd + M6 + Lomo Grey 100



 久しぶりに村山由佳さんの「天使」シリーズを読み返したせいだと思うが、練馬の石神井公園に無性に行きたくなる今日この頃である。ここは、太宰治らの「青春五月党」の合コン(?)ピクニックの場所でもある。商店街には坂口安吾100人カレーで有名な「辰巳軒」も健在。蕎麦処の「中屋敷」はずいぶんモダンになってしまったけれど。

 『天使の卵』を初めて読んだのはいつぐらいだろうか? 1995年ごろ? そのあと10年して続編『天使の梯子』が出版された。どちらも二十歳前後の男性が年上の女性と恋に落ちる極め付けのピュアな恋愛小説だ。舞台は石神井公園から大泉学園駅にかけて。閉園前の「としまえん」にあったあの回転木馬「エルドラド」の話も出てくる。

 石神井公園自体はあの頃とそんなに変わっていないようだ。ボート池もその中之島にかかる太鼓橋も、そして、道路を隔てて西側に広がる三宝寺池。

三宝寺池

Tessar 2.8cm f8 ( pre war ) + Contax I + Fuji 100


 照姫伝説のある石神井城跡のこのあたりは今でも鬱蒼と森が広がって、いつ来ても異界に迷い込んだような気分になる。

石神井

Sonnar 5cm f1.5 ( pre war ) + Contax I + Kodak 200



 ここ三日間で季節が一変した。北風が吹き冷たい雨が降る。東京でも最高気温が15度までしか上がらず、秋を通り越していきなりの冬である。先週までは真夏日に近い日もあったというのに。明らかに異常気象。地球温暖化の影響は顕著に顕れている。

 でも、憂鬱にばかりなっていても仕方がない。なんとかこの天候を楽しむ方法はないものかと思案していたら、今日になって気温がまた25度に戻った。昨日の寒さから一転、暖かな南風が吹いている。まるで小春日和のよう。なるほど、こんなふうに日替わりでめまぐるしく季節が行ったり来たりするのも悪くないかも。秋なのに春も楽しめる。金木犀が香りコオロギの鳴き声のする春なんてないけれど、街に漂っている温気は春そのものである。

 ちょっと嬉しくなる。こんな日は、馴染みの友人がかならずひとりは来ているはずの、ちょっと古風な洋食レストランに行きたくなる。ハンバーグの中身はジューシーで表面はカリッと焼けていて、デミグラスソースと添えられたポテトサラダはほんのり甘く、少し硬めでもっちりと炊き上がったライスが真っ白なプレートに適量盛られている。食べ終わったら珈琲を飲みながら、カウンター席の隣同士に並んだ馴染みの友人と、最近読んだ小説やずいぶん昔に見た映画やお芝居のことを、お互い低くて静かな声で言葉少なめに語るのだ。

 そんなレストランが必ずこの街のどこかにもきっと佇んでいるような気がして、僕は街中の路地という路地をゆっくりと探索し続ける。

古風な

Nokton 35mm f1.4 Ⅱ SC + M10-P



 現在、オールドカメラ&レンズ断捨離中。ふだん使わないものを潔く処分して、今後も使い続けていきたいものだけ残す、あるいは本当に自分が好きなものに買い換える。
 で、ブラコンなのである。ブラザーコンプレックスのことではない。ブラックコンタックスである。天の邪鬼な私は、ライカよりもコンタックスのカメラとレンズに心引かれる。なかでも最初のレンジファインダーカメラであるコンタックスⅠ、通称ブラコン。

 改めて、このブラコン、なんともマニアックなカメラである。操作しづらい。なんでここに巻き上げノブがあるの? どうしてシャッタースピードの設定にこんなお作法が必要なの? でも、測距の基線長がライカに比べて断然長くて正確だし(その代わりいつも右手で距離計窓を塞いでしまいがちなのだが)、リボンを使った縦走りシャッターの感触がタマラナイ。

 若い頃から何度も使ったことのあるカメラだが、最近になってこのブラコン病がまた再発にしてしまっている。でも、なにせ90年も前のカメラで、なおかつこれほど複雑な機構のため、完調な個体に巡り会うことはますます困難を極めている。販売する方も保証期間に故障が頻発すると商売にならないのであろう。ブラコンの修理をこなせる職人さんもかなり減ってきたと聞く。2022年の今、再び実用に耐え得るブラコンを入手することはなかなか至難の業である。高速シャッターのムラはないか(リボンの左右ともがきちんと正しいサイズのモノにしてあれば問題は起きないそうだ)、ネズミ鳴きの低速シャッター時に光線漏れはないか、二重像の縦ズレはないか、などなど、クリアしなくてはならいポイントがいくつもある。

 ということで、現在手元にあるブラコンは最初期の1932年のもの(ver2)。ネズミ鳴きのスローシャッターは付いていないが、その分カメラ自体の重量も軽く、これなら気軽に毎日持ち歩ける。このブラコンに基本中の基本の同年代のテッサー5cm,f3.5を付けて撮影。

snake

Tessar 5cm f3.5 (C mount pre war) + ContaxⅠ + XP2 400

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