2021年08月
哉、哉、哉
八月もあと一週間ほどとなった。今年もそろそろ夏の終わりである。案の定、蜩は「カナカナカナ」と鳴いている、ように聞こえる。実際は「キキキキ」であるが。あるいは「ケケケケ」であるが。
でも、昔から蜩は「カナカナカナ」と鳴くものと決まっている。「哉、哉、哉」。こういうのを「聞き倣(な)し」と言うそうである。意味が先にありきで聞こえる音を解釈してしまうこと。
蜩は「日暮」とも書く。日を暮れさせる蝉、ということだろうか。まあ、確かに朝夕にしか鳴かないようであるが。そして、夏の終わりに鳴く蝉というイメージが定着している(実際は6月ぐらいから鳴いているようであるが)。だから我々は、ちょっと「哀」しくなって、ちょっと人生そのものの諸行無常を感じたりして、詠嘆の間投詞を綴る。「哉、哉、哉」と。
八月もあと一週間ほどとなった。ここぞとばかりに蜩の鳴き声が茜色の中に響き渡る。「キキキキ」と。あるいは「ケケケケ」と。それを我々は勝手に「カナカナカナ」と置き換えて、今年も夏の終わりを感じようとしている。
*百合の花もそろそろおしまい。
G.Zuiko Auto-S 40mm f1.4 + α6000
古い zeiss レンズ
contaxⅡ
百日紅
竹林とさるすべり
38度
久しぶりの38度である。コロナワクチン二回目接種後2日目のことである。事前に友人からけっこう辛いと聞いてはいたが、2017年の1月にインフルエンザを発症したとき以来である。両目の奥の頭重、首筋から肩のひどい張り、腰痛、関節痛。足が異様に冷える。冷房を消した蒸し暑い部屋の中でも汗がかけない。
まあ、こんなことも予想して、原田マハさんの『リボルバー』をベッドサイドに置いていたのだが、どんなに内容が面白くても文字を読むこと自体が辛い。ので、馴染んだサリンジャーの短編集『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワーズ16、1924年』を手に取ってみる。特に好きなのが『ぼくはちょっとおかしい』で、退学になってしまったホールデンが60歳を迎えた恩師のスペンサー先生の自宅にお別れの挨拶に行く場面である。
「そして、ぼけたような状態なのに、楽しそうだ。それにしても先生はいったいなんのために生きているんだろう、もうすべてが終わっているのに、と思ったりすることがある。だけど、それはちがう。考えすぎだ。(中略)ときどき、老人のほうがうまい生き方をしているような気がする。ただ交代したいとは思わない。」
「人に先んじようとするなら、人生に適応していかなくちゃいけないとか。」
「まだ会っていない女の子が好きだ。後頭部しかみえない女の子がいい。」
なるほどね、人生、先んじるためにまずは適応か。名言である。あと、『ハプワーズ16、1924年』に出てくる、
「理想的というのは完璧とはまったくちがう。「理想」というのは人類の幸福のために大昔からずっと取っておかれたものなんだ! ぼくはそれを、希望に満ちた、理にかなったゆるさと呼びたい。ゆるさ、ぼくはこのささやかな、ゆるさが大好きなんだ。」
これもすばらしい。でもね、……というところで意識朦朧となり(38度を超えたようだ)、たまらずカロナール(アセトアミノフェン)に手を出した。
若い頃はよく熱を出した。あの頃はアセトアミノフェンじゃなくてまだアスピリンが主流だった。風邪を治すためにはアスピリンを飲んで厚着して大汗をかいて一晩ぐっすり眠る。すると翌日、頭の中がミントの葉っぱを噛んだみたいにすっきりとしている。夏の雨も上がっている。病みあがりと雨あがりとアスピリン。「まだ会っていない女の子」に出会える気がしたものだ。
と、比較的余裕のある思考ができたのもここまで。あとは、Hallelujah。
(追記)おかげさまで、接種三日目の朝、回復いたしました。
引用文献:
J.D.サリンジャー / 金原瑞人(訳)『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワーズ16、1924年』(新潮社、2018年)
引用箇所:
『ぼくはちょっとおかしい』p.24,25,34 『ハプワーズ16、1924年』p.223
J.D.サリンジャー / 金原瑞人(訳)『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワーズ16、1924年』(新潮社、2018年)
引用箇所:
『ぼくはちょっとおかしい』p.24,25,34 『ハプワーズ16、1924年』p.223