2021年05月
grief
わたしと私
世界は乳白色の雨雲にすっぽりと覆われてしまっている。どこにも青い穴はあいていない。そこから光が差し込んでくることもない。
地上のあらゆるものが潤んでいる。私の頭の中の襞も柔らかく潤んで心地よい。あらゆるものにしっとりとフォーカスが合ってくる。逆に晴れの日が続くと私は偏頭痛に悩まされる。ふつうは反対でしょ、とひとは言う。ふつうのひとは低気圧が近づいて来たときに頭が痛くなるわけで。
梅雨空。六月の木曜日の午後五時。ぬかるんだ道をビニール傘を差した人たちが家路を急いでいる。雨の匂いがぬうっとする。草の匂いがむうっとする。雨に閉ぢ込められると、時間がどちらに流れているのかよく分からなくなる。そんな時、私はいつもここで、誰かがやってくるのを待つ。
時折大声で、もういい加減にして欲しい、と叫びたくなることがあるでしょ、とわたしが云う。とっとと元に戻してほしいんだけれど、と私が云う。そろそろ滅ぶのかな? なにが? あなたが? わたしが? 世界が? 上映時間が終わるのかな? 「世界五分前仮説」が正しいとしたら、それはたった5分間だけのことだけれどね、とわたしが云う。

Zunow-Elmo 13mm f1.1 + Q-S1
新入社員君
この春からうちの学生さんも企業に勤めることになったが、コロナ禍が続いていて研修もテレワーク中心である。これからの時代の企業における勤務形態、オフィス環境はいったいどうなっていくのだろう?
数十年前、自分が新入社員だったときのことを思い出してみる。今も昔も、企業で働くということは、学生時代とは一線を画した別次元の集団生活の中で、今までとは違うパブリックな自分になることを意味する。でも、公私の境は完璧に区分されていたわけではなく、バブル前夜ということもあって5時半過ぎても残業があるのは日常茶飯事だったが、あの頃の5時半を過ぎた後のオフィスの雰囲気は悪くなかった。
スマホもケータイもない時代である。プライベートの電話もオフィスの固定電話にかけるしかなかった。新入社員君にも恋人から今夜のデイトのお誘いが。……その電話を運悪く職場のセンパイに取りつがれてしまうと「○○く〜ん、カノジョからデンワ〜」。職場の人たち全員が耳をダンボにしている前で、新入社員君はワザとぶっきらぼうな電話応答をしなければならなくなる。
あるいは、最近ちょっと気になり始めた同じ職場の女性社員が5時半のチャイムと共にダッシュで帰路に着いたのを知ると(当時は、帰宅する際に出退勤簿に手書きでサインをするのだ)、あんなに急いでこれから誰とどこに行くのだろうかと新入社員君のココロがざわめく。

当時のそうした職場の感じ、悪くなかったなあと思う。仕事をする公共の場がちゃんとリアルにあって、でも、そこでは公私が割とおおらかに混ざりあって……、だからこそいろんなドラマが生まれたのだし、自分自身で自在にオンとオフを切り替える面白さがあったのだ。
さて、これからの時代。このワークスタイルの大きな変化に現代の若者たちはなにを思い、それにどのように対処しながら新しいドラマを作っていくのだろうか。我々世代とは違う感性とやり方で、自分たちのアドレッサンスを愉しんで欲しいと切に願う。
鼻
ここのところ、「鼻」のことでアタマの中が一杯なのである。花粉症がひどくなったわけではない。蓄膿がひどくなったわけでもない(若い頃からずっと慢性の副鼻腔炎ではあるが)。
原因は谷崎潤一郎の『武州公秘話』にある。『乱菊物語』に引き続き、この歴史小説のスタイルを取った『武州公秘話』を久しぶりに読み返してみたのであるが、合戦の最中、討ち取った相手の首を持ち帰る余裕がない時に鼻だけを削いで持ち帰ってくる「女首」の話に始まり、この小説の中で連綿と続いていく表象が「鼻」なのである。あるいは「鼻のない顔」である。
となると、次に再読すべきなのはもちろんゴーゴリの『鼻』であり、芥川龍之介の『鼻』となる。特にゴーゴリの『鼻』は最初に読んだのは中学生の頃だろうか。カフカの『変身』と同じ匂いを感じた。カフカを戯作文学風にした感じ。
ま、それはさておき、人はなぜにこんなに「鼻」にフェティッシュに興味を抱くのであろうか。自己のアイデンティティの要である「顔」の、そのまた中心に隆起しているからだろうか。
M-SYSTEM
乱菊物語
文豪、谷崎潤一郎の著作は中学生の頃から始まって(我ながらずいぶんマセたガキだった)ほぼほぼ全部読んでいたつもりだったが、この「乱菊物語」だけは不覚にも今の今までスルーしてしまっていた。去年から竹久夢二に関する論文というか研究ノートの執筆にあたり、兵庫のたつの市の室津についていろいろ調べていて、谷崎がこの室津の「室君」について書いた小説があることを知り、さっそく取り寄せてみたのであるが(すでに文庫も廃刊になっているようで、取り寄せた古本も結構高値が付いている)、読み始めてみて、思わず唸ってしまった。おお、これはスゴイ。期待通り、以下のような室津や「室君」に関する精緻で詳細な著述があるばかりでなく……、
そもそも室という所は、ずっと昔、遠くは神武天皇の東征、神功皇后の三韓征伐の時代から内海における良港の一つに数えられていたから、上り下りの船の人々の相手となって旅情を慰める女、—「室の遊女」というものも久しい以前からあったに違いない。伝説によると、延喜の御代にいずこともなく天女のような一人の美女が流れて来て、名を「花漆」と呼んで、この津に住んでいた。それが初代の室君であって、本邦における遊女の濫觴(らんしょう)をなしたといわれる。
谷崎潤一郎『乱菊物語』(中公文庫、1995年)p.9
港の町の地勢と云えば、大概はうしろに山を背負い、海岸沿いの細長い地域に人家がぎっしりと軒を連ねる。室の津の町もその例に洩れず、一方に明神の山を控え、一方に荒戸の浜を控えた入り江の縁に沿いながら弓なりに続いているのであるが、祭礼の時の神輿の渡御は、弓の一端にある明神の鼻から船で海上を乗り越えて、他の一端に設けられたお旅所に着き、此処に七日間安置される。有名な小五月の行列というのは、七日の後に神輿を守護してお旅所から明神の社へ、その弓なりの線を縫いつつ町の中を練って帰るのである。
谷崎潤一郎『乱菊物語』(中公文庫、1995年)p.201
かたや主従の若武者とその家来たちのドタバタ劇がなんとも軽やかな口語調で始まり、その剛と柔が一章ごとにめくるめく展開していくのである。けっこうな分量の小説であるが、あっという間に読んでしまった。新聞に掲載された大衆小説とのことであるが、こんなにもすんなりと読めた谷崎文学(しかも歴史小説)は初体験だった。そして、この変幻自在の語り口こそが谷崎の谷崎潤一郎たる所以であると再認識した次第。で、この「乱菊物語」、クライマックスで突然断筆し前編終了、なんと後編がないのである。残念無念、でも、この続きは、書こうと思えばいくらだって、どんなバリエーションだって書けるさと「云っているような、なんともさわかやな断筆なのである。天晴れ。
なお、池澤夏樹氏が個人編集した文学全集でもこの「乱菊物語」がフィーチャーされているようなので合わせて読んでみたい。