naotoiwa's essays and photos

2021年01月


 原美術館。「光—呼吸 時をすくう5人」展の終了をもって、本日いよいよ閉館である。昭和十年代に建てられたアールデコの館。若い頃から何度も足繁く通った美術館である。仕事の雑事から自分を開放したくなったとき、ジャン=ピエール・レイノーの白いタイルの部屋が無性に恋しくなった。宮島達男さんの作品を初めて見たのもここである。代休を取って平日の昼間に車でこの美術館に来て(敷地内に駐車場があるのだ)、中庭に面したカフェ・ダールで遅めのランチを食べながら何時間もぼおっとしているのが至福の時だった。そこで考えをまとめて実現した企画もいくつかある。

 最後の展覧会は昨年末に予約してゆっくりと鑑賞した。亡くなられた佐藤雅晴さんの展示を最後に再びこの原美術館で見ることが出来てよかった。「東京尾行」。これからは、原美術館も佐藤雅晴さんも記憶の中でしかトレースできなくなる。




 「瀬戸正人 記憶の地図」展を東京都写真美術館で見た。瀬戸正人さんは私が90年代からずっと憧れ続けている写真家のおひとりである。
 瀬戸さんの撮るポートレイト、そのほとんどの場合、モデルたちの目線はカメラに向いていない。カメラに気付かれない瞬間を狙っているのではなく、むしろその逆で、モデルたちはカメラを意識しつつもファインダー越しに見られることに倦み、自身の内省へと沈潜を始めている。その時間帯をカメラが暴いているのだ。結果、モデルたちの個性ではなく(と、このインタビュー映像の中で作家自身も語っている)、人間そのものの本質、いや、人間を越えて生き物の本性みたいなものまでが滲み出ているように感じる。
 緊急事態宣言初日の午前中ということもあって、幸か不幸かほとんど貸し切り状態で、約二時間、じっくりと写真展を鑑賞することができた(もちろん館内の万全の感染防止対策のもと)。会場内撮影OK とのことだったが、iPhone やデジカメを向ける気分にはならない。鞄の中に古いコンタックスのレンジファインダーカメラが入っていたので、コリコリと距離計を、俯いて涙を流している女性の瞳や公園にピクニックに来ているカップル達の不可思議な肢体に合わせてみたりしながら。

 会期は今月24日まで。



 新年を迎えてもコロナ禍は収まりそうもなく、それどころか全世界的に感染拡大の勢いを増している。在宅勤務、テレワーク化を今年は昨年以上に推進せざるを得ないのかもしれない。そうなってくると、今までの働き方、学び方の常識は通用しなくなる。実際の場所に出社したり出校したりすることだけが勤務や通学ではない。仕事や学びと休日の境界、パブリックとプライベートの境界がどんどんシームレスになっていく。
 私は大学教員の傍ら、数年前からフリーランスの個人事業主として仕事をしているので、こうしたシームレス感は当たり前になっているが(日曜日にフルタイムで仕事をしていても苦にならないし、その分、どこかぽっかり空いた平日の自由を満喫する術も覚えた)、でも、どうなんだろう、やはり人間というのは、時間的な制約があって、ここからここまでは仕事(あるいは勉強)、ここからここまではフリー(自由!)と決まっていた方がココロがトキメク生き物なのかも。

 私が小学生、中学生、そして高校生だった1960〜70年代は、土曜日はまだ完全休日ではなかった。いわゆる「半ドン」というやつで、でも、だからこそなおのこと、あの土曜日のお昼時の開放感(小学生ならば集団下校の時のあの気分、中学生・高校生ならば、校門を真っ先に抜け出し遊び場に向かう時のあの気分)は格別だったようにも思う。私が1984年の時点で就職した会社もありがたいことに既に土曜日は完全に休日だったし、日本のおける週休二日制の歴史はけっこう長い。その結果、休日前の開放感を堪能する日は前日の金曜日へとスライドし、当時「キンツマ」的ドラマが放映されたのだろうけれど、でも、今思い返してみても、あの土曜日の「半ドン」気分は格別だった。半分休み、というのがいいのだ。

 ところで、「半ドン」のドンは「ドンタク」のドンである。ウィキペディアによると、zondag、オランダ語で日曜日を意味する言葉の日本語訛りらしい。ちなみに、現在私は竹久夢二をテーマにした論文を書いているが、夢二の絵入り小唄集のタイトルは『どんたく』であり、彼が大正12年につくった商業デザインの会社名も「どんたく図案社」である。

 限られた休日(ドンタク)があるからこそ、平日の働き甲斐(学び甲斐)があり、休日への開放感にココロがトキメクのかもしれない。これからの時代は、それを自分自身でコントロールし、自分だけのドンタク、あるいは「半ドン」を演出していく必要があるのかも。



 大学教員になって今年で早や5年目を迎える。言うまでもなく、大学教員のミッションは研究と教育であるが、実務経験で採用された(と認識している)自分に何が求められているかは十分理解している。それゆえ、この4年間は特に学部教育に全力を費やしてきた。しかしながら、元来あまのじゃくな性格のワタクシとしては、期待されてない(?)研究分野においてもなんとか自分らしさを出せないものかと、大学の紀要には毎年一本は欠かさず論文もしくは研究ノートを書こうと決めている。(現在執筆中のものが完成すると4本目となる)が、やはり今まで生業にしてきたことが「いかに語るか」であった自分が「いかに論じるか」に徹するのには限界もあろうし、アカデミズム出身の同僚のみなさんのような高度なモチベーションを論文執筆に持ち続けることは能力的に難しい。(やはり、諸先輩方のものと比較すると自分が書いたものは明らかに「語り口」ならぬ「論じ口」が違うようですw)

 でも、ここ一二年、私はワタクシなりに論文執筆の醍醐味みたいなものを感じ始めてきたような気もする。誤解を恐れずに言えば、それを detective と表現してもいいのかもしれない。分野の全く違うコレとアレがなんとなく繋がっているような予感がする。それが自分の仮説で、その一見脈絡のなさそうな二つの事象を繋ぐ証拠を detective に探していくのだ。あるいは、先行研究等でよく言われていることの余白部分になにか別の大切なことが潜んでいるような予感がする。そのおぼろげな姿を detective に解き明かしていくのである。

 そして、いったんこうした作業に没入すると、部屋はおびただしい数の古書の巣窟となる。電子書籍ならばどんなに冊数が増えようともタブレット一台にスマートにダウンロードすれば事足りるが、特に近代文学系の研究の場合、その初版本を実際に入手しないと埒が明かない場合が多く、「日本の古本屋」サイト等で購入した黄ばんだカビ臭い、あるいは型崩れした初版本たちが堆く積み上げられた巣窟にひとりで籠もることになる。残念ながら優秀なワトソン君はいないので、資料集めから調査出張、そして執筆まですべて自分ひとり。でも、この作業がけっこう楽しいのである。ドキドキするのである。そして、ひとつ書き終えてもすぐにまた次の解き明かしたい別のテーマが待ち構えていたりするのである。



 また、右眼が痛いのである。

 去年の夏、右の眼球を傷つけてしまった。不注意にも紙の束が眼に入ってしまって、まるでブニュエル監督の「アンダルシアの犬」の冒頭シーンみたいに(というのは大げさであるが)、サアっと角膜を鋭利にトレースされるのが自分でもわかった。翌朝、大きな異物が混入したような痛みで眼が開けていられなくなり涙がとまらず、眼科に行った。「ああ、たしかに角膜に傷が付いてますね。線状に上皮が剥がれています。これは痛いでしょう。でも、眼球も他の皮膚と同じです。擦り傷が次第によくなっていくように一週間もすれば徐々に治っていきますからと」と点眼薬をふたつ処方してくれた。「ティアバランス」という角膜の傷を治す成分のものと「ガチフロ」という炎症止めの抗菌剤である。確かに、一週間程度で痛みは治まっていった。時折違和感は少しばかり感じるものの、幸いにも傷は黒目の部分にはかかってないようで視力に影響はない。

 しかし、十一月頃からまた痛みがぶり返してきたのである。夏に行った眼科医は「また別の場所が傷ついたのかも」とのことだったが、なかなか痛みが治まらないので別の眼科に行ったところ「正式の病名は、再発性角膜上皮びらんです。半年前の傷が再発しているんでしょう。冬になって空気が乾燥してきたことも原因だと思われますが、ちょっとしたことで、せっかく埋まったはずの角膜の上皮の傷がまた剥がれてしまうんです」とのこと。治療方法は同じだが、痛みが治まっても当分は点眼を欠かさない方がいいというアドバイスを受けた。「あの、先生、コンタクトはいつ頃からまた付けられるようになりますか?」「……もう、お付けにならない方がよろしいかと」

 昨年末のこの宣告はちょっとショックであった。ふだんは眼鏡ばかりであるが、スポーツ、特にスキーをする時にはソフトコンタクトが欠かせなかったのだが、それももうダメである。そして、最後に先生が言ったひとことが身に染みた。「加齢とともに角膜の傷も治りにくくなります。そして、治ってもちょっとのことで再発してしまいます」……眼球だけではない。年を取ると、体中のどこもかしこも、一度でも怪我や病気をするとなかなか完治しないということなのだろう。もう無茶はできないのだ。六十歳が間近なことを身をもって知らされる「再発性角膜上皮びらん」である。



 今年は丑(うし)年である。自分の干支と同じ。ということは、年男? ということは、つまり……。そうなのである。今年の誕生日で五回目の年男、還暦を迎えるのである。(目眩がしますw)
 昔、実家の和室の床の間に二頭の牛の置物が飾ってあった。大きな牛と小さな牛。父が昭和四十年代に買ったものである。私は父が三十六歳の時の子で、どちらも干支が同じなのである。親牛と子牛。

 さて去年は、……六星占星術によると私は去年から大殺界に入っているのだが、全世界がパンデミックな状態で、どこまでが自分ひとりの運気の問題だったのかまるで見当がつかない。

 そんな中、大学の研究分野では論文をひとつ仕上げた。現代の広告クリエイティブにおける実在論的傾向に関する考察で、今年2月に公開予定。そして、引き続き次の論文ももうすぐ第一稿があがる。(こちらは竹久夢二のノスタルジア研究)大学の授業も試行錯誤の連続だった。でも、オンラインだってここまでのことは出来るという目処が自分なりには付いたと思っている。ご多分に漏れず個人でお受けしている仕事は激減した。これから、大学の教育と研究と個人の仕事の両立をどのように図っていくべきか、思案のしどころではある。でも、戸惑っていても何も解決しない。事態が安易に元に戻るとは考えない方がいい。去年一年間でこの世界の価値観が大きく変わってしまった。今年もそれを受け入れて前に進むだけである。

 年末年始は安藤鶴夫さんの古い小説なんぞを読んでいた。『巷談 本牧亭』。この作品が直木賞を受賞したのは昭和三十八年。私が生まれた二年後である。親牛が若かった頃の時代の匂いを嗅いでみたくて。親牛は六回目の年男を迎えた年に(誕生日を迎えることなく)この世を去ったが(生きていたら今年八回目の年男)、さて、子牛の方はいかに。

このページのトップヘ