2020年08月
みずうみ
父のこと(その2)
さて、父のクルマ遍歴についてである。私が物心ついた1965年ぐらいにはすでに我が家には自家用車があった。手元に残っている古い写真をから推察するにダットサン・ブルーバードの初代型だと思われる。それが、小学生にあがる頃にはフォルクスワーゲンのカブトムシに変わった。昭和四十年代半ばの地方都市で、クルマを、しかも外車を走らせている家庭なんてまだほとんどなかった。ドライブの途中、国道の真ん中でのんびり停車していても誰からも文句を言われなかった時代である。VWのカブトムシはその後、同じフォルクスワーゲンのタイプ3、昭和五十年代になるとベーン・ベー(当時はBMWのことをドイツ語発音でこう呼んでいた)の2002へと変遷していった。ずっとドイツ車で通していた。実は、途中で二度ほど国産車に浮気した時期があったが、クラウンはほんの半年、ブルーバードのSSS(スーパースポーツセダン)に至ってはなんと二週間で売り払っていたと記憶している。
国産車はやはり足回りやハンドリングが緩くて「フィーリングが合わなかった」らしい。カブトムシだけでもバージョンアップする度に三度ほど乗り換えていたし、完全なクルマ道楽である。でも、助手席に乗せてもらう度、父の運転裁きには惚れ惚れしたものだ。とにかくメリハリが効いているのである。スピードを出すときは出す、停まるときはきっちり停まる。マニュアル車で山道のカーブを曲がるときのヒール&トゥの足裁きには色気すら感じた。とにかく運動神経が良いのである。でも、そんな運転上手の父親が事故を起こしたことが一度だけある。追突事故。といってもノロノロ運転中の前方不注意なので相手もむち打ち等にはならず、たいしたことには至らなかったのだが、きれいな空色のVWタイプ3のフロント部分がグチャリとへこんだ。原因は車中での中学生の私との口論だ。口論のきっかけは母のことだったと記憶している。
父のクルマ好きメカ好き、運動神経の良さは戦時中に鍛えられたものであろう。父は陸軍の少年飛行兵だったらしい。操縦士として偵察機に乗りつつ、整備技術兵としてメンテナンスも担当した。父が配属されたのは各務原の飛行場。昭和二十年の六月、飛行場は大空襲を受けて同期の飛行兵や整備兵たちがたくさん亡くなってしまったという。
そして、終戦。父の戦時中のことはどこまでが真実でどこまでがそうでないのか、生まれてもいない息子にはわかるはずもないが、あの戦争で九死に一生を得た父は、なにを思ったのだろう。戦友たちが死んで自分が生き残ったことを恥じていたのか。あるいは、さあ、幸せな人生をつかむのはこれからだ、今まで出来なかった贅沢をしてやるのだと強く念じたのだろうか。いずれにしても、父は戦後、ハングリーに生きた。そんな父のことが、私は好きである。カルヴィン・トムキンズではないけれど『優雅な生活が最高の復讐である』と私も思うから。
そんな父は、七十一歳の時に潰瘍性大腸炎をこじらせ、その後、肝臓の状態が悪化して死んだ。肝硬変、そして肝がん。スキーの大けがのときに輸血が原因でC型肝炎になっていたことが寿命を縮めた。黄疸で体を真っ黄色にして、腹水をいっぱい貯めながら父は死んでいった。死ぬ前に、父はみんなに謝りたいと言った。「どうして?」と聞くと「ちょうすいていたから」と。「ちょうすく」というのは岐阜や名古屋の方言で、「偉ぶっている、生意気なことを言う」といった意味だろう。切った張ったの商売だから、人を出し抜いたりだましたりしなくてはならないこともあったかもしれない。毎週ゴルフをやり、外車を乗り回し、一見優雅に見えるかもしれない自分の人生のことを、仕事仲間に対して申し訳なく思っていたのかもしれない。そして、そのあとぽつりと、あと十年くらいは生きてみたいと言っていた。まだ、乗りたい車がいっぱいあったのかもしれない。メルセデスだってポルシェだって。
亡くなった翌日、市役所に死亡届を出しに行った。その後、父の戸籍謄本を見てなんとも暗鬱たる気分になったことを覚えている。いつ生まれ、誰といつ結婚し、いつ子どもが生まれ、そしていつ死んだか。ひとの人生なんてたったそれだけの事項でまとめられてオシマイなのだ。父の墓は揖斐川町にある。本家の方にお願いして敷地の一部に建てさせていただいたのだ。死ぬ直前に父がそう希望したからだ。生まれた揖斐川町の小島の山を見ていたいと。かなたには伊吹山も、時には見えたりするのだろうか。
父のこと(その1)
コロナ禍や猛暑のこともあり、今年は父親の墓に行くことができなかった。お盆も既に過ぎてしまっているし、離れた場所からではあるが、ひととき、亡父を偲びたいと思う。
私の父は、大垣市の北にある山間部の揖斐郡揖斐川町に生まれた。揖斐川町から北東に向かえば谷汲山華厳寺があり、そこからさらに北に向かえば薄墨桜の根尾谷がある。そして、南西には、かの伊吹山が聳えている。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を退散させた「荒ぶる神」の鎮座する伊吹山である。真冬になると東海道新幹線が米原周辺で徐行運転をすることが多いが、あれは、伊吹山から吹き下ろす雪のせいである。その伊吹山からさらに北に福井の県境を越えて行けば、泉鏡花の小説で有名な夜叉が池もある。などなど、岐阜県の北西部というのはなかなかにミステリアスなエリアである。
その揖斐郡揖斐川町の小島という村に、父は生まれた。母親が四十過ぎてからの子だと聞いた。手元にある一番古い写真(おそらく1950年代のものだろう。もちろん私はまだ生まれていない)を見ると、髪はリーゼント、ボックス型スーツを着て靴は白のエナメルである(モノクロの写真しか残ってないが、のちに本人がそう言っていたから間違いないだろう)。このスタイルで終戦直後のダンスホールに通っていたらしい。洒落者で、それが高じて衣服を扱う会社に入社した。ところが、すぐに上司と大げんかをして退社。普段は穏やかな物言いをする人だったが、喧嘩っ早いのだ。以来ずっと、七十一歳で亡くなるその日までフリーランスを通した。半世紀もの間、ひとりでどんな仕事をしてきたのかいうと、衣料用の生地や反物の仲買である。工場と販売会社との間に入って手数料を稼ぐのだ。それが「毛織物卸業」である。けれど、ファッションの流行にはリスクが伴う。先に買い付けておいた反物がまったく売れない時もある。手形が落ちない。不当たりが出る。かなり浮き沈みのある商売だったように思う。景気がいい時は家族みんなで郊外のフランス料理店へ。クルマもすぐに新車に乗り換える。けれど、大きな不当たりを出してしまうと大変なことになる。一度、その筋の人が家に数人やって来て、家の中にある家財道具全てにラベルを貼っていったこともある。いわゆる差し押さえである。「子供にだけは手を出すな!」と叫んでいた父の声を今でもよく覚えている。
でも、商売が順調なときは、なかなかに優雅な生活なのである。サラリーマンではないので定時に出社する必要もない。ゆっくり起きてから自宅の車庫から車を出す。向かう先は愛知県の一宮市が多かった。一宮市は紡績の街で当時は至る所に繊維工場があった。一宮に着くと、まずは馴染みの喫茶店に入る。そこでモーニングセットを頼むのだ。名古屋エリアで有名なこのサービス(午前中に珈琲を頼むとトーストやゆで卵、サラダ等がもれなく付いてくる!)の発祥地は一宮市である。工場の騒音が始まる前の朝の時間帯に喫茶店で打ち合わせをするというのがモーニングセットの始まりだったらしい。父もここで午前中に繊維工場の担当者たちと商談をし、まとまれば、午後、サンプルの反物を車に積んで名古屋や岐阜の販売会社に向かった。で、夕方に自宅に戻ってくる。これが一日の行動パターンだが、毎日毎日真面目に仕事をしていたわけではないようだ。朝、車で出かけるところまでは同じだが、得意先のどこにも立ち寄らずにずっとお気に入りの珈琲店で時間を潰している日もあるし、販売会社の担当者を誘って接待ランチをしたり(事務の女の子を誘って単なるプライベートランチという日もある)、空いている時間に名所旧跡を訪れたり。で、日曜日はゴルフである。ほぼ毎週。ゴルフ会員権も全盛期には三つぐらい所有していたように記憶している。でも実は、ゴルフも仕事のうちなのである。販売会社の担当者をコースに連れて行って、お金は全額父が払うのだ。
夜、自宅に戻ってからは帳簿付けである。ワープロもパソコンもない時代、すべては手書きである。一円でも金額が合わないと深夜を過ぎても書斎から出てこなかった。私は父から、将来お前はどうしろ、何になれ、と強要されたことはなかったが、一度だけ、あれはたぶん高校に入って間もない頃だったと記憶しているが、「お前にはやっぱり将来定職についてもらいたい。毎月決まった日にお金が入ってくるというのはどんなに安心できることか」とつぶやいていたことを覚えている。半世紀もの間、たったひとりで商売をし続けるのはどんなに大変だったろう。しかもファッションの仕事である。五十過ぎたら自分のセンスにも自信がなくなってくる。付き合う得意先の相手はみんな若者。彼らから嫌われることなくお金を引き出すために、父は毎週彼らをゴルフで接待していたのだ。当時はまだ、サラリーマンが自腹でゴルフコースに出るにはずいぶんとお金がかかる時代だったから。
父はゴルフのハンディを生涯10で通した。でも実際はハンディ5ぐらいの腕前だったのではないだろうか。何度かスコアブックを見せてもらったことがあるが、常に80前後。書斎にはいろんな大会で優勝したときのトロフィーがいっぱい飾ってあった。実際はシングルの腕前なのに(ハンディ10未満をシングルという)、お得意先の相手を気遣ってハンディを10にしていたのだろうと推察される。何度か練習場やコースに連れて行ってもらったこともあるが、フォームはとても柔らかいのに、インパクトの瞬間は決してブレることなく、ドライバーがよく飛んだ。ゴルフを始めたのは四十五を過ぎてからで、その前はスキー。競技スキーヤー並の玄人はだしだったと聞く。しかし、四十歳の時に大けがをしてスキーをやめた。父は伊吹山のスキー場で後ろから初心者のスキーヤーに激突され、そのストックが顎に刺さって重傷を負った。病院に運ばれて緊急手術。大量に輸血をされたらしい。実は、その時の輸血が原因でウイルス性の肝炎になってしまったようだ。とにかく父は運動神経が良かった。それはゴルフのフォームひとつとってもよくわかったし、いっしょに登山をしたときの身のこなし、あるいは、クルマを運転するときの一挙手一投足にも現れていた。
(続く)
遠き道
後ろめたさ
岡康道さんの訃報を聞いてから半月が経った。すぐには反応することができなかった。なんでハンサムな人ほど早く死んでしまうんだろう。ルックスはもちろんのこと、生き方そのものがハンサムな人だった。とにかく格好良かった。いつもスーツ姿で、しかもゴルフがうまいクリエーターなんて、それだけでもアバンギャルドだった。
直接お仕事をご一緒させていただいたことはなかったけれど、4年先輩の憧れのクリエーター。自分もプロパーのクリエイティブ職ではなかったので、勝手に目標にしていた。なので、初めて同じクライアントさんの仕事をやらせていただくことになった時にはメチャクチャ緊張したことを今でもよく覚えている。彼の仕事で好きだったのはセガ・エンタープライゼスの『湯川専務』やトライグループの『父の夢』等いろいろあるが、やっぱり、独立前の名作、東日本旅客鉄道の『その先の日本へ』が強烈に印象に残っている。
「その先の日本へ。」コピーはかの秋山晶さんである。広告を見て笑うことは多々あれど、泣くことはあまりない。でも、この広告には「泣いた」。地方出身者(岡さんは佐賀出身、自分は岐阜出身であるが)の故郷に対する感覚に身につまされる思いがしたからだ。のちに岡さんは自伝小説『夏の果て』の中で以下のように書いている。
東北は故郷だ。初めて訪れても懐かしい場所。しかも、そのメランコリーには一種の「罪悪感」が含まれているように感じた。捨てた故郷へ。一年に数日しか会わない親へ。普段忘れている日本という国へ。東京で暮らす我々によって、テレビコマーシャルでは今まで訴求されなかったであろう「後ろめたさ」が表現できれば、多くの人に共感してもらえるのではないだろうか。
岡康道『夏の果て』(小学館、2013年)
当時、このCMを見て「泣いた」理由はおそらくこの「後ろめたさ」にあったのだろうと思う。自分も、お盆か正月か、それこそ一年に一〜二度しか帰らなかった生まれ故郷。別れ際に「またね」と言いながら実家を出て駅に向かう間、ずっと見送ってくれていた亡母の姿を今でも思い出す。本人はさっさと東京に帰りたくて仕方がないのだ。それを名残惜しそうなフリしてごまかしていた。でも、そんな息子の姑息な演技はみんな母親には見透かされていたのかもしれない。そして、そうしたこともまるごと分かった上で、自分は「後ろめたさ」を抱えながら駅に向かって歩いていたのだ。
音楽も素晴らしい選曲だった。井上陽水さんの『枕詞』『結詞』。普段の陽水さんの曲は色っぽくでモダンなダダイズムがいっぱいだが、この曲の歌詞は極めてストレートで古風である。集合写真風のグラフィカルな映像、素朴なナレーションと相まって、当時、おそらく自分だけでなく、多くの故郷を捨てた人たちがこのCMを見て、泣いたのだ。
夜中の山百合
熱帯夜が続いている。冷房が苦手なので枕元の窓を少しだけ開けて網戸にして床につく。
夜中になんとも濃密な甘い香りが漂ってきて目が覚めた。そのまま寝付けなくなって庭に出てみた。山百合が咲いている。匂いの主はどうやらこいつらしい。まだ咲ききっていないのに、なんとも妖艶な香りだ。
Elmar 35mm f3.5 L + fp + Color Efex Pro
向田邦子さんのエッセイ『夜中の薔薇』を思い出した。「野中の薔薇」ならぬ『夜中の薔薇』である。
「童は見たり夜中の薔薇」
暗い道を走りながら、気持のなかで歌ってみた。
子供が夜中にご不浄に起きる。
往きは寝呆けていたのと、差し迫った気持もあって目につかなかったが、
戻りしなに茶の間を通ると、夜目にぼんやりと薔薇が浮かんでいるのに気がつく。
闇のなかでは花は色も深く匂いも濃い。
向田邦子『夜中の薔薇』より
もともと山百合は匂いが強いが、確かに「闇のなかでは花は色も深く匂いも濃い。」
案の定、その後、明け方まで眠れなくなった。花の香と虫のざわめきに包まれていろんなことを思い出した。幸いにも世の中は思い出すことに満ち満ちている。
summer sunset
ワクワクする論文
梅雨がようやく明けたというのに、深刻な感染拡大が全国で続いている。例年とは全く違う夏である。さて、大学の方は前期のオンライン授業もようやく終了、これからの一ヶ月は研究論文の執筆に時間を割く予定。私はアカデミズム出身ではないので、その分逆に、なんとか毎年一本きちんと論文を書きたいと悪戦苦闘をしているここ四年間であるが、やはり自分の論文の書き方はアカデミズム出身の方々とは違うようである。極力論文においては「語らない」ようにしているつもりなのだが。……
論理構成においても、精緻に事実を積み上げてのその結果、というよりは、編集力に頼ってしまう傾向があるようだ。まあ、前職で(というか今も実践で)やってきていることはまさにそういうことだし、その結果、論文においても出口設計先にありきで、時に演繹が性急になり過ぎてしまうところは否めない。
そして、常に自分が書いたものが誰の心に響くのかを第一義に考えてしまう。自分の論文を読んでくれる人が「読んで楽しかった!」とまではいかなくても(気軽な「読み物」じゃあるまいし)、「筋書きを追っていくのにワクワクしたよ」と思ってくれるものを書きたい。それがエッセイであれ、小説であれ、そして論文であれ、やはり相手あってのTEXTなのだから、と思うのだけれど。